ミカリンが母になった日 [感動]
スポンサードリンク
「最近ムカムカするんだけど」
とお腹をさすりながら寝室に入ってくるミカリン。
胃の具合が悪いなんて結婚してから一度もなったし、結婚前もなかった。
「だいじょうぶ?」
ベッドの中から声をかける。
「と思うけど」
本当に胃が悪かったらそんな平然とした表情していないし、手のひらに就寝前のクリームを塗るしぐさもいつもと変わらないので、僕も布団の中に深々ともぐりこんだ。
「電気消す?」
「うん。もう寝る。明日早いから」
僕の妻、美香の愛称はミカリンだ。
出会ったとき、彼女の一歳下の妹が「ミカリン」と呼んでいたので僕もまねするようになった。
美大を出てイラストの仕事をしているせいか感性豊かで雰囲気も個性的なので「ミカリン」という呼び方が妙にフィットする。
本当にミカリンという名前なのではないかと思うこともある。
結婚して4年目を迎えた。
僕は35歳。ミカリンは31歳になっていた。
子どもはいない。
結婚後4年もたてば子供がいてもおかしくない。
でも、そのことで焦ったことは一度もなかった。
というか、子どもがほしいと思ったことがないのだった。
計画的に子作りをする意思もなく、自分たちのことだけを考えて暮らしてきた気がする。
「私、子どもいらないから」
とミカリンは平然といい放つ。
女性は子どもを欲しがるものだと漠然と考えていたけど、そういう生き方もあるんだなと思い、4年間ミカリンに合わせてきた。
別に不満はなかった。
子どものいない生活は気楽で楽しかった。
「子ども作るんなら早いほうがいいわよ」
とミカリンの母からいわれたことがある。
彼女の他の親戚も勝手なことをいった。
「美香は変わってるからな。小さい頃からそうだったけど」
「絵の才能があっても、ママになる才能はないってわけね」
僕の父母にいたっては、結婚して子どもを作らない人間は犯罪者のようないいかたをする。
だけど二人に危機感はなかった。
僕はミカリンの生き方を支持した。
ところが神様はよく考えているものだ。
下界にいる人間に平等の愛を与えるが、試練も平等に与える。
神様はお気楽に生きようとする人間に待ったをかけるようだ。
ミカリンのムカムカの原因は、妊娠だった。
もしやと思って妊娠検査薬を試してみたところ、陽性反応のハートマークが出たらしい。
「本当なの?」
僕は正直嬉しかった。父親としての正直な気持ちだった。
「ああ、本当に妊娠してたらどうしよう・・・」
少し顔をゆがめるミカリン。
「ミカリンは嬉しくないの?」
「ママになるのが嫌」
「そんなこと、子どもに失礼だよ」
しっかりしろといいたくて、両肩を強くつかんだ。
神様はミカリンのわがままを許さなかったのだ。
陽性反応が出た週末、産婦人科に検査に行った。
妊娠3か月に入ったところだといわれた。
ミカリンに赤ちゃんができたことはたちまち親戚縁者に広まった。
「よかったねえ。4年もあきらめずによく頑張ったねえ」
「美香ちゃんてどんなママになるだろうね。想像できない」
みんな、自分の思惑で好き勝手なことをいった。
ミカリンはつわりと戦いながら
「なんでこんな思いをしなきゃならないの」
とブルーになっていたが、少しずつ大きくなっていくお腹を見るうちに
覚悟が決まったのか、自分の妊娠を自覚し、前向きになっていった。
もともと細身の体なので、丸く突き出たお腹が重そうだった。
よくそんな状態で生活できるものだと思う。
「こんなにパンと膨らんで、どんな感覚なの?」
スポンサードリンク
「どんな感覚って・・・中に赤ちゃんがいる感覚。ときどきね、チチチッって音たてるのよ」
ミカリンの話では、お腹の奥の方からときどきチチチッと音がするらしい。
「何の音だろう」
そっとお腹の表面をさすってみる。
「嬉しくて笑ってるんだと思う」(笑)
「まさか。胎児が笑うかよ」
「笑ってるの。私はそう信じてる」
「ミカリンらしい発想だけど」
ミカリンの骨盤が狭く、赤ちゃんが産道を通れない可能性があることがわかったのは臨月に近づいてからだった。
「帝王切開が安全です」
「帝王切開って・・・お腹切るの?やだああ・・お腹切るなんて」
顔面を蒼白にして泣きじゃくったが、そのほうがはるかに安全と説明され同意書にサインした。
手術の予定日は11月20日だったが、ミカリンの調子がよくないため、3日早めて11月17日に実施することになった。
臨月に入ってから、ミカリンはきついといって横になることが多かった。
「13時が手術なの・・・あと1時間かな」
病院の静かな個室でミカリンと会話。
優しいバロック風のBGMが流れている。
「頑張ってね、ミカリン」
「もうちょっとで、楽になれるから」
少しむくんだ顔が静かに笑った。
12時30分すぎると、看護師が来て麻酔室に連れて行った。
誰もいない病室で一人待っていた。
正直、赤ちゃんのことよりもミカリンのほうが心配だ。
赤ちゃんは取り上げるだけだし、産道を通る負担もないからきわめて安全だろう。
しかし母体は腹を切るのだ。
13時になったが、しんとした病室で何が始まるでもなかった。
時計の針が13時になったというだけのことだった。
13時11分だった。
部屋の電話が鳴った。
出ると手術室からだった。
血が引いた。
直感的にミカリンに何かがあったと思った。
それとも子どもに異常があったのか?
何のトラブルだろう。
「もしもし。ご主人さまですか?お嬢様が誕生されましたよ!おめでとうございます」
電話のむこうから空気を切り裂くような産声が聞こえた。
目を閉じて息を吐いた。
「ミ、ミカリ・・いや、その、何だっけ。妻は大丈夫ですか?」
「問題ございません!」
電話を切ると、うるっと涙がこぼれた。
ミカリン、よくやった。
よくここまで頑張った。
それから1時間ほどして、手術台に乗ったミカリンが出てきた。
看護師さんが娘を抱いていた。
娘は2,638グラムで小柄だった。
体全体が真っ赤で、狂ったように泣き叫んでいた。
ミカリンも泣いていた。
かつてこれほどの涙を流したミカリンを見たことはない。
「ごくろうさん・・・痛かった?」
涙は腹を切った痛みからくるものだと早計していたが、そうではなかった。
「痛くない」
「じゃあなんで泣いてるの?」
「安心したから・・・ちゃんと赤ちゃん産めたから」
母の責務を果たした女の涙だった。
ずっと不安だったのだろう。
親戚の声を思いだした。
「美香ちゃんてどんなママになるだろうね。想像できない」
どんなママって、こんなママだ。
立派なママだ!
スポンサードリンク
コメント 0