家具 [感動]
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窓を開けてみた。
今まで体感したことのない風が部屋の中を通り過ぎた気がする。
風は何の躊躇もなく流れ込んできて、形を崩さずに玄関のほうに駆け抜けていった。
障害物がないから当たり前なのだが、それがいたく私の胸を打った。
家具がすべて消えた部屋というものは、こういうものなのかと思った。
「あなた、トラック無事に発車しましたよ」
「2台ともか」
「はい、たった今」
引っ越しのトラックを見送った妻が、スリッパに履き替えて空っぽになった4LDKのマンションの居間に上がってきた。スリッパの音がやけに軽薄に聞こえる。
深みのない、乾いた音だった。ちょっと前までは、温かみのある人なつっこい音をたてていた気がする。
定年退職し、田舎に移ることになった。
子ども二人(長男長女)も結婚し家を出て、もはや都会にいる必要もなくなった。
もっと緑に囲まれ、のんびりしたところで余生を送りたいと妻に打ち明け、長いこと話し合った結果、宮崎に移住することに決めた。
宮崎には弟夫婦も住んでおり、転居先の選定や土地家屋の購入手続きなどいろいろ尽力してくれた。
「子供たちが孫を連れて遊びに来たとき、少しでも部屋が広いほうがいいだろう」
「小さな子が安心して遊べる場所があればいいわね」
「宮崎なら海もあるし山もある。きれいな川もあるだろう」
私は日々田舎に思いを馳せた。
人間土に還るというが、歳を取ると田舎にあこがれるのだということを60歳になって知った。都会にはもう未練はなかった。
子どもたちに移住の件を話したら、都内ならすぐにでも行けるが宮崎だと費用がかかると文句を言われたが、反対する権利はこちらにないとも言われ、おおむね受け入れられた。
家は宮崎市郊外に建てることにした。
見晴らしのよい高台にあった。
周囲は緑が多く、空気も美味しかった。
何回か現地を訪れ、家が作られていくのを見守った。
ビル警備の再就職も決まった。
第二の人生の土台が少しずつできあがっていった。
「車、途中で何回ガソリン入れることになるかしら」
宮崎まで車で行くのだ。
途中、京都を観光し、広島の義妹を訪ねる予定でいる。
「見当もつかないな。まあそうせかすな。のんびり行こう」
フローリングに腰を下ろし、足を延ばした。
「汚れてますよ」
「汚れたら汚れを取ればいい。貴子も座りなさい」
「いやです」
妻は管理人に話があると言ってまた出て行った。
あれはいつだったか。
長男が7歳の頃だったな。
4歳の長女が持ち込んだインフルエンザが私と妻にも感染し3人ダウンしたが、
長男だけが元気だった。妻は買い物にも行けず、食事の支度もできない。
口頭でごはんの炊き方を長男に指示し、長男は朝昼晩、白飯と塩だけで過ごした。
文句一つ言わなかった。
こいつは大した男になると思った。
だが大学を途中でやめてインテリア雑貨の輸入代理店に就職。
イギリスと日本をいったりきたりする生活をした。
少しでも息子の役に立とうとその店から欧風の食卓を買った。
それからずっと居間においてある。
だがその会社も倒産してしばらくぶらぶらして中堅の商社に入って今に至っている。
期待したほど大した男にはならなかった。
「父さん、俺結婚することにしたから」
相手は職場の後輩の女性だった。
にこやかに笑う上品な女性だった。
私は息子に、お前にはもったいないと言った。すると、
「母さんも父さんにはもったいない女性だと思うけど」
と言って母親を喜ばせた。
そういえば母親思いだったな。
母の日に食洗機をプレゼントしたのにはびっくりした。
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長女は学業優秀で堅実なところがあった。
どことなく妻に似ていた。
自分は勉強で身を立てるといって、スポーツや遊びはいっさいしなかった。
いつも机にむかっていた。テレビがうるさくても心が乱れない集中力の持ち主だった。
ときどき気分転換でピアノを弾き、そのあと居間のソファに座って首をぽきぽき鳴らしたりした。
大学も一流と言える国立大学に現役で合格し、新聞社に就職した。
心がずきんとしたのはその長女が5歳も年下の大学生と恋に落ちたことだ。
娘も大人だから自分で考えて行動するだろうと思っていたが、まもなく失恋した。
大学生から見たら、ほんの遊びだったらしい。
失恋の件は、何週間もたってから妻から聞いた。
長女が学習机で顔を伏せて泣きじゃくっていた夜があったが、その理由がやっとわかった。
それから3年後、同じ新聞社の記者と結婚した。
長男長女二人とも、親から巣立っていった。
このマンションで生まれ、長い時間をかけて大きくなったが、あっという間に姿を消した。
部屋の中を眺めてみた。
すでに何もなかったが、各所にどんな家具があったのか忘れていない。
ソファ、テレビ、欧風の食卓、タンス、本棚、ピアノ、長女の学習机、ベッド、天体望遠鏡、電子レンジ、長男が買った食洗機、電話機・・・
それらの幻影を目に浮かべた。
それらは家族とともにあった。
家族の語らいや葛藤をすべて見届けた家具たちだった。
それらがすべて消えた今、家族の記憶も消えかけているような気もする。子供たちが小さかった頃の記憶のほとんどは、もう遙か彼方に飛んでいこうとしている。色即是空ではないが、すべて幻だったような気もする。
本当にあの家族はあったのか?
本当にあんな会話をしたのか?
今となっては実感がない。
だが、不思議な達成感がある。
歳を取るということはそういうことなのかもしれない。
「あなたどうなさったの?」
寝転がって肘を枕に横になっている私を不審に思ったのだろう。
「いや別に。ちょっと考えごとをしていた」
「まあ、どんな考えごとでしょう?」
起きあがった私の背中のほこりをパンパンと取り払った。
「家から人がいなくなっても家具は残るが、家具がなくなったら人もいなくなるんだなと思って」
くすっと妻が笑った。
「そんなセンチなことを考えてる場合じゃありませんよ。田舎暮らしも楽じゃないんですからね。気持ちをしっかり持たないと」
「そうだな。第二の人生だもんな」
立ち上がって、尻をはたいた。
「もう出ますか?」
「出発だ」
玄関でもう一度振り向いて部屋を眺めた。
ただ風が吹いているだけだった。
扉を閉めた。
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