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石油ファンヒーターを買った日 [感動]

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父が早期退職制度を活用して会社をやめ、生まれ故郷に帰ると言いだした。

平成2年。
僕が大学を卒業してすぐのことだった。
実家近所に家を建て、再就職先も決めた。

「だからおまえも一人で暮らすことになる」
と父が言った。

一人で暮らすということがどういうことなのか今一つわからなかったが、
とにかく親元から離れなければならないことは間違いなさそうだった。
就職して慣れない社会人生活を始めた矢先、今度は一人暮らしである。
親に甘えきった生活は完全に絶たれることになる。
でも、なぜか危機感がなかった。

親が出した新生活の指針は次のようなものだった。

・アパートは希望の地域で探してやる。敷金も礼金も出してやる。
・洗濯機、冷蔵庫、テレビ、クローゼット、食卓は新品を買ってやる。
・布団と勉強机、本棚は今使っているものをそのまま運ぶ。
・引越し費用も出してやる。

ただし親が支援するのはここまで。
月々の家賃は自分で払うこと。
その他必要なものがあれば、懐具合を見ながら計画的に買うこと。

この条件でスタートして本当に大丈夫か?
僕にはその疑問すらわかなかった。
「この条件で一人で暮らすことになるらしい」
という他人事のような思いでいた。

転居先は江戸川区平井だった。
すぐそばに荒川の河川敷がある、築3年の木造モルタルアパートの2階だった。
間取りは6畳の1DK。階段が狭く急だった。

家賃は7万。

ぼんやりと計算した。
僕の給料は手取り13万。
家賃を引くと生活費として6万しか残らない。
食費を日に2,000円と見積もると、食費だけで消えてしまう。

これでやっていけるのか。
少しずつだが、不安が来た。

だがその不安を後目に、父母が九州に引っ越した。

22年間、親の庇護のもとに生きてきた。
衣食住で悩んだことは一度もない。
生きるために必要なものは常に親から提供されていた。しかも願い出て得られるのでなく、当たり前のように用意されていた。僕は基本、何もせずに生きていられた。

そんなこんなで一人暮らしを始め、何ヶ月かたった。

11月の下旬だったと思う。
土曜日の朝布団から出て顔を洗った。

凍てつくような寒さだった。

その日は北から寒波が押し寄せ、日本列島が冷気に包まれた。
北の日本海側を中心に雪が降った。

また布団にもぐりこむ。

考えてみたら暖房設備がない。
もともと暑さに強い体質なので夏は扇風機で乗り切ったが、逆に寒いのが苦手で、
ちょっと気温が下がっただけで体が縮む。

布団の中は温かいが、病人じゃあるまいし一日中そこにいるわけにはいかない。
何枚も重ね着して、靴下も2枚はいた。
しかしあまり効果はなかった。部屋の中は冷たく、きんとしていた。

−暖房をなんとかしないとやばい−

暖房器具にはどんなものがあるのだろう。
駅前の電気屋を見て回った。

エアコン、電気ストーブ、こたつ、石油ファンヒーター。

電気製品など生まれて一度も買ったことがない。
どんな製品があるのかなど考えたこともない。

が、今回ばかりは自分で何とかする必要があった。
父親が立てた指針にもあった通り、
「その他必要なものがあれば、懐具合を見ながら計画的に買う」のだ。


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エアコンは高すぎる。
電気ストーブは部屋全体が温まりにくい。
こたつは場所を取る。
そうなると石油ファンヒーターか。

当時はクレジットカードを持っていなかったので、すべて現金決済になる。
今これを買うと、当面ものが食べられなくなる。
ボーナスが出る12月7日まで耐えしのぐしかなかった。

そしてボーナスをもらった週の休日、駅前の電気屋で石油ファンヒーターを買った。
「車で配送する場合夕方になっちゃいますし、料金もかかりますがどうします?」
と若い店員が言った。
「すぐそこなので持って帰ります」
 とにかく一刻も早く手に入れたい。
「重いですけど」
「大丈夫です」

大丈夫ではなかった。

当時の石油ファンヒーターはかなり重量感があった。男の僕でも、20メートルほど歩いていったん下ろさないと腕がちぎれそうになる。しかも疲労が蓄積していき、休憩する間隔がどんどん短くなった。

−あと少しだ。頑張れ−

最後は引きずるように運び、何とか部屋に持ち込んだ。

でもこれで終りではなかった。
灯油がなければどうしようもないのだ。

歩いて7分ほどの場所にガソリンスタンドがあり、灯油も販売している。途中で灯油のポリタンクを買い、ガソリンスタンドで灯油を満タンに入れると、また引きずるようにして持って帰った。石油ファンヒーターより重かった。
持ち上げて10歩ほど歩く作業を繰り返した。

通行人が不思議な目で僕を見る。

「灯油をそんな風に運ぶのは禁止されているんだぞ」

そんな目で見ていた。

灯油を部屋に運び入れたら、その場に倒れてしばらく動けなかった。
披露困憊し、身体は冷え切っていた。

−よし、運転だ−

灯油をポンプでファンヒーターの灯油缶に流し入れ、本体にセットしてスイッチを入れた。しばらくブーンと低い音が鳴り、パチパチパチと火花がはじけるような音の後、

ボオッ!

と頼もしい音がして、初夏の風のような温かい空気が出てきた。

「おおお・・・温かい!」

これで救われたと僕は思った。
暖房のありがたさを知った。
電気製品の偉大さを知った。

部屋はたちまち温まった。
一人で暮らすようになって、自力でつかんだ初めての幸福だった。

灯油は二週間に一度くらいのペースで買った。
相変わらず同じガソリンスタンドで購入し、手で持って帰った。
灯油販売車が来ないこともないが、平日の昼間に来ているようで、
休日に見かけたことはない。

雨の日など、傘をさして灯油を運んだこともある。
時間もかかったし、指の感覚がなくなりちぎれそうになった。

そんなある日のことだった。
買い物から帰ったとき、真向いの奥さんから声をかけられた。
小さな子どもが二人いる主婦だった。
たまに顔を合わせることもあるが、軽く目礼する程度だった。
態度は冷ややかで、僕を不審に思っているふしがあった。

「あのう、火曜日に灯油販売が来ますので、一緒に買っておきましょうか?」

僕の人海戦術による灯油運搬を見かねたのだろうか。
人は、人を見ていないようで見ているものだと知った。
でも僕のことを不審人物と思っていたのではないのか?

灯油を手で運ぶ人間に悪人はいないと思ったか。

せっかく声をかけてもらったし、断る理由もないのでお願いすることにした。

「一階に置いときますから、会社の帰りにでも持って上がってください。
お金は後で結構です。それから、灯油のタンクに名前を書いておいてください」
 事務的な言い方だが、学校の教師のような信頼感があった。

「ありがとうございます。・・・お金は今払います。来週の分」

生まれて初めて電気製品と灯油を自分で買った。
そのことがきっかけでご近所とのコミュニケーションが生まれた。

一人で生きるのは辛いが、思いのほか心休まる部分もあると知った。

灯油のポリタンクにマジックで「倉田章一」と書いた。
今度社員旅行があるから、奥さんにお土産でも買って帰ろうと思った。
そのくらいのことはするべきだと思った。

これらは父親の一人暮らしの指針にはない手続きだった。

小さなことだが、ちょっとだけ自分が大きくなった気がした。


灯油.jpg


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タグ:灯油 隣人 感動
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