赤いランドセル [感動]
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娘の沙紀が結婚して家を出たので、娘の持ち物をすべて処分した。
遥か遠い国の男性に嫁ぎ、もう二度とここにもどらないと沙紀は言った。
だから残しておいてもしかたないので、何もかも捨てた。
沙紀の洋服、アクセサリー、靴、学習机、勉強道具、セーラー服、晴れ着、そして赤いランドセル。
これで沙紀の思い出はすべて消えてしまう。
これでいいのだ。
沙紀はこれで安心して遥か遠い国に旅立てるだろう。
そして私たちも、やっと沙紀を卒業できるだろう。
沙紀は幼稚園の年長さんになってすぐ、交通事故でこの世を去った。
横断歩道を手を上げて渡っていた沙紀に、ダンプカーが気づくのが遅れた。
運転手は事故当時も事故の後も誠意を持って対応してくれたが、沙紀は戻らなかった。
「お金も謝罪もいらない。とにかく沙紀を返してくれ!沙紀を返してくれたらそれでいい」
その25歳の青年に何度かみついたことか。
肩をつかんで揺さぶったことか。
でも沙紀は戻らなかった。
この世でもっとも大切なものを喪った日々が始まった。
妻はもともと明るく溌剌とした気性の持ち主だったが、沙紀が他界してからは、一人でつくねんとしていることが多かった。
私が会社から帰っても部屋は暗く、食事の用意もしていなかった。
沙紀のお気に入りのおもちゃを床に並べ、まばたきもせずそれらをぼんやり見ていた。
風呂に入らない。
食事もしない。
夜眠らない日もあった。
神経科に連れて行ったこともあるが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)で、快復には時間がかかると言われた。
やがて秋になり、沙紀がこの世を去って半年がたった。
妻もほぼ普通の生活ができるようになっていた。
だがある日、奇妙なことを言ったのだ。
「あなた、そろそろ沙紀ちゃんのランドセル買わないとね」
私はそのまっすぐな視線をじっと視た。
今までずっと悲しみに明け暮れる日々だった。
それは娘という最愛の肉親を失ったからだ。
おのれの身を切り刻んでも余りある娘を失ったのだ。
無理もない。
その気持ちはよくわかる。
だがランドセルを買うのはどうか?
沙紀はもういないのだ。
ランドセルを買っても、それを背負って学校に行く沙紀はこの世にいないのだ。
「久仁子、気持ちは良くわかる。でもそれはどうかと思う。もうあれから半年もたった。そろそろ沙紀の死に区切りをつけようじゃないか。ランドセルを買っても辛いだけだ。悲しみが増すばかりだ」
私はほとんど哀願していた。
それは自分自身をいさめるための言葉だったかもしれない。
いつまでも過去をひきずってうじうじするのは良くない。
私たちはまだ若いし、これから子供を作ることも可能なのだから。
妻は冷めた目で笑った。
あれからそういう笑い方をすることがたまにある。
「沙紀ちゃんを忘れるなんて、私にはできません。よくできますね、あなた」
「忘れろと言っているわけじゃない。引きずるなと言いたい」
「むりです」
「だったらこれからも続けるのか?中学生になったらセーラー服を買うのか。二十歳になったら晴れ着をあつらえるのか?天国にいる沙紀もそんなことは望んでいない。父と母には前を見て生きてほしいと願っているはず」
「お願いします」
妻が涙を浮かべて合掌した。
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「お願い。沙紀も小学生になるのを楽しみにしていたの。今回だけでいいから。ランドセルだけでいいから」
その週末、新宿の百貨店で赤いランドセルを買った。
ついでに学習机も買った。
すると不思議なことに妻の精神状態は今まで以上に安定したのだ。
妻は昼間、ランドセルを押し入れにしまうらしい。
昼間は学校にいって不在だからだ。
そして夕方になると、机の上に置く。
「今ね、お友達のおうちにお呼ばれなの」
夜になると
「今ね、お風呂なの」
「沙紀、すやすや寝てるわ」
と、沙紀がいない理由を自分に言い聞かせているようだった。
あっという間に6年が過ぎた。
妻は毎日その芝居を励行した。
そして小学校を卒業すると、予想した通りセーラー服を買ってきて、壁ににかけた。
約束を無視し、これからも続ける気でいる。
しかし私も妻が理解できるようになっていた。
妻の頑なな態度で気づかされたのだ。
沙紀のことを忘れる必要はないのだと。
そもそも死んだと考える必要もないのだと。
今でも生きて一緒に暮らしていると思えばいいのだと。
悲しみから逃れる方法は忘れることだけじゃない。
その逆もあり得るのではないか。
今でも生きていると信じることで、悲しみから逃れることもできるのではないか。
妻は悲しみの末にその方法を見つけだし、この6年間実践してきたのだ。
私も妻に同調した。
子どもはできそうになかったので、養育費に使うお金を幻の沙紀のためにつぎ込んだ。
成長に合わせて様々なものを買いそろえた。
お洒落なワンピースやブラウス、コート、靴、ハンドバッグ、アクセサリー、晴れ着に至るまで購入し、服はドレッサーに入れた。
靴は夜中になると出してきて玄関に揃え、朝になると靴箱にしまった。
大学卒業時には袴をレンタルした。
「いよいよ卒業ね、よく勉強したわ。首席だもんね」
「お父さんには内緒よ。今日表彰されるからびっくりするわ、きっと」
そんな自演の会話を聞いていると、本当に沙紀がいるような気になる。
そして沙紀が28歳になった秋。
私たち夫婦も覚悟はできていた。
私も還暦を迎え、妻も58歳になり、心の整理もついていた。
レンタルしたウエディングドレスが壁にかかっていた。
「すばらしかったわね、沙紀の結婚式」
「長い道のりだったな。やっと一人前になったんだな」
「安心して送り出せますわね・・・・あなた、泣かないって約束でしょう?」
私は涙をふいた。
沙紀を失った悲しみ。
幻の沙紀が幸福になる喜び。
幻の沙紀がこの家を去っていく寂しさ。
そして二人の芝居が終わってしまう悲しみ。
そんな様々な感情が複雑にからみあった涙だった。
私は鼻をすすって気持ちを整えた。
「外国人と結婚するなんて夢にも思わなかったな」
「遠い遠い国に行くそうです。もう日本には戻らないと言ってました」
親としての役目を終えた気になった。
沙紀を育て上げた気になった。
沙紀はやっと私たちのもとを離れたのだ。
そして私たちも沙紀から離れたのだ。
「沙紀、旅立ったのね」
悲しさと嬉しさが仲良く混じった母の涙を私は見た。
本当に娘を嫁がせた母に見えた。
「これからは二人でのんびりくらそうな」
「はい。そうしましょう」
悲しみは消えるだろう。
そして安らぎだけが残るだろう。
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