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1枚の写真 [感動]







ある日、なぜか突然に
「そうだ、海外の友達にメールではなく手紙でも書いてみようか」と思い
エアメールを書こうと便箋の入っている引き出しを何年ぶりかに開きました。
手紙なんてもう本当に書くこともなくなってしまって、
どうやって書くんだっけ、なんて少しわくわくしながら便箋を探していると、
雑におかれた数枚の写真をみつけました。

それは、我が家で飼っていた歴代のペットたちの写真で、
犬、猫、またそれぞれ父や母、また幼少の私がともに映っている写真でした。

懐かしいなぁ、と目を細め思い出をめくっていると、
大好きだった猫の写真の次に1枚の古びた写真が出てきました。

セピア色のその写真は、若かりし両親の写真で、
二人とも着物を着て、今も変わらない家のベランダ、というより物干し場で撮った写真でした。

私は母に興奮気味にそれを見せ、いつのものかと聞くと、
「あぁ、結婚式の。」
とそっけなく答えました。

それはとてもあっさりとした返事だったので、拍子抜けでした。
娘としてはもっとテンションの上る母を想像していたのに…。

ですが同時に、無理もないことを思い出しました。

比較的裕福な家系で育った私の母は、
田舎から就職で都会に出てきた父と出会い、恋に落ちました。
田舎の青年は都会のお嬢様に一目ぼれでしたが、
母は親族一同からそれはそれは、ひどい反対にあったそうで、
二人で半ば駆け落ちのごとく結婚をしました。
金銭的な面もそうですが、都会に出てきて間もない父はまだ若く、
都会に染まり、純粋な気持ちは遠のいていくだろう、と母の親族は考えました。

父と母の結婚は、文字通り、一銭もない状態からのスタートでした。

結婚式も何の味気もない、
やっとの思いで借りたアパートの一室で、
近所の教会の牧師さんにお願いして誓いをたてました。

友人の数人だけに見守られた、質素な式。


私が見つけたのは、その式で撮った唯一の写真でした。


結婚生活が数年経った頃、母の親族の予感は的中します。
私の両親は結婚した19年後に母が私を宿すまで、
父は「酒、タバコ、女」に目がない人間になっていました。

職も何度も代わり、そのくせ往年の銀幕のスターのように飲み歩く毎日。
飲み屋で出合わせた人全員を引き連れて寿司をおごることも少なくありませんでした。

当然家計は火の車となり、
母は夜の繁華街でホステスのアルバイトをするようになりました。
どうしてもお金が足りないときは、
着物や宝石を売って生活の足しにしました。


父が改心したのは母の妊娠が分かった時で、
両親とも42才と高齢だったのにも関わらず第一子ということもあり、
やっと、本当にやっと「責任」に気付いたそうです。

それから父は一生懸命働き、独立し、
小さいながら工場を経営するようになりました。


そこからの十数年は、家族としてとても恵まれました。
少ないながら、贅沢な暮しもできました。


しかし私が高校生になった頃から工場の経営が思うようにいかなくなってきました。
町工場の多くが経営に困難を抱え、
父の工場の近隣も安い労働力を求め海外へ出るか、
あるいはリストラを行った上で、それでも倒産する工場も少なくありませんでした。


その頃から家庭ではストレスがそれぞれ充満し始め、
両親の仲はとても悪くなり、話しをすることもなくなりました。
3人家族なのに家の中には独立した大人がそれぞれ暮らしている、といった感じでした。

もちろん、両親は口を開くと喧嘩。
やっと3人揃った食事の席で離婚の話が出ることも珍らしくありませんでした。

もう大人の思考を持ち合わせていた私も、
素直に「仲良くして」と言えず、
「大人だから好きにすればいい」
と突き放していました。

今思えば、私が本当に「鎹(かすがい)」だったのに。








しばらくして父の会社は倒産、
私は大学に通いながらアルバイトの毎日、
母も働きに出るようになりました。


プライドだけは本当に高かった父は、
一家を養えていないというストレスで、
お酒の量が増え、止めていたタバコを再開するようになりました。


止めていたタバコは一気に量が増え、
以前の蓄積分もあったのか、
父は咳き込むようになりました。

母と私が一度注意しましたが、耳をかたむけず、
タバコに火をつけウィスキーのボトルに手をかけていました。


その頃にはもう、母だけでなく私も父を、ただ同居をしてる人、
と位置づけていました。



そして1年が過ぎたころ、
歩くだけでも呼吸が苦しくなった父は、道端で座り込み動けなくなり、そのまま病院へ搬送、
肺がんと診断されました。


右肺に大きな穴が開いていて、がん細胞は脳にも転移が始まっていました。


病院に駆け付けた母と私に
担当医は冷静に、そう長くはないだろうと告げました。


母と私は焦ることはなかったのですが、
どれだけ憎くてもさすがにこの状況で突き放すのはかわいそうだと、
父にはできるだけ普通に接すことを決めました。


病室に入ると、父は明るく振舞いました。

もう、何年ぶりに見た笑顔でした。

肺がんであることを医師から告げられても、明るく振舞っていました。

父のその姿は怖がっていることが見え見えでした。


その日から、家族としてまとまりを見せました。
母は妻らしく、毎日病室で様子をみました。
よくある、「りんごを剥く」ことや、排泄を手伝うなど、
一生懸命「妻」をしていました。

私も子どもらしく、父と会話をしました。

不思議なもので、「あぁ、これから家族の数がかわるのか」
と気づいた途端に、家族らしくなったのです。



その後入退院を繰り返しましたが、半年程闘病した後、
父はこの世を去りました。

その瞬間は、私は直視ができず、
またこれから母を背負って生きていくのに泣けない、
という強い思いから、携帯で親族に連絡したり、病院の事務手続きの説明を聞きに行ったりと
その場から離れていました。

母は、父の側でその瞬間を看取りました。


葬儀の後、喪服を脱いでいる私に母は
最後の瞬間、一筋の涙を父が流した事を教えてくれました。


声は聞き取れなかったが、口を動かし何かを伝えようとしていた、と。


幸せだったのか、恨み節だったのか、
それは永遠にわかることはありませんが、
とにかく家族に何かを伝えようとしたのは確かでした。


そんことももう五年前か、と出てきた写真を手にとりながら、
思い起こしていて気付きました。

母は結婚式の写真に対してそっけなかったのではなく、
その写真は私には珍しいものでしたが母には日常だったのです。

いつも、母のそばにあったのだ、と気付きました。


喧嘩の絶えない夫婦で、父からも母からもお互いの恨みごとしか聞いてこなかった私には
なぜ離婚しないのか不思議で仕方無かったのですが、
子どもにはわからない夫婦のストーリーが、写真越しに見えました。

そんな姿を見せたくないから、
めったに開かない便箋を入れてる引き出しにペットたちの写真と紛れて入れていたのだ、と。


私は写真の若い父に「ありがとう」と微笑み
元の場所に置き引き出しを閉じました。


病室.jpeg






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最高のビール [感動]







黄金、ハーフ、黒。
ビールを頼む時はこの順番で頼みます。

一人で飲みに行く楽しみは、
自分をリセットできること。

現在は土曜日の午後3時、
私は一人、レストランバーのカウンターで飲んでいます。

土曜日の昼間だからか、意外に人がいます。
カウンター以外のテーブル席が3つ、1組のカップルがビールを楽しんでいます。

私のいるカウンターでは、
私意外に白髪の男性が一人、また、キャリーバッグを足元に置いたビジネスマンであろう男性が一人、
そして、私の3人がいます。


白髪の男性は、持ってきている何かの写真をしきりに店員に見せています。
常連客のようです。

もう一人のビジネスマン風の男性は、
文庫本を読みながら食事をしています。


私は、黙々とビールを飲んでいます。
今はハーフアンドハーフの2杯目。
次は黒ビールの番です。


自分が思っている程、他人は自分を見ていない、
といいますが、
もしも見ているとしたら、私は彼らにどのように映っているのでしょう…。

そんな事を考えます。


「女がこんな時間から飲むなんてはしたない」
「暇そうでいいじゃないか」
「これがあれか、リア充というやつか」

そんな風に思われているでしょうか。


この時間は、私にとって必要な時間なのです。

毎日この15時は、母がリハビリを受けている時間で、
私が一人になれる瞬間です。


母は半年ほど前から左半身が動きづらくなり、
かかりつけの医師は初め、加齢のせいであると診断をしました。
母は肝炎の治療もしていたため、
薬の弊害で筋力が落ちていたので、医師は加齢であることに疑いをもちませんでした。

しかし、日に日に状態は悪くなり、
ついには一人で歩行が難しくなりました。

おかしいと思った私は総合病院へ連れて行き、
脳の検査を行ったところ、無数の腫瘍が見つかりました。

肺がんからの転移で、がん細胞が脳に回ったのだというのです。








その日の内に入院をし、治療が始まりました。

あまりにも腫瘍の数が多いため、
通常の抗がん剤では太刀打ちできず、
脳全体に放射能を当てる治療が行われました。



効果は覿面でした。
驚くほどの回復を見せた母は、
歩くことはおろか起き上がることすらできなかった状態であったのに、
一人で階段を上り下りできるようになりました。


そして、入院から3カ月経ち、退院できました。

しかし全脳に放射能をあてたことで、
体の運動機能は回復したものの、覚えが悪くなりました。
物の名前が出てこなかったり、電気のつけ方が分からなくなったり、
と、一人で住まわすことができなくなりました。


私はすでに父を亡くしており、
一人っ子なので母の面倒は全面的に私が見ることにおのずとなりました。

仕事を辞め、昼間は母の面倒を、
そして水商売のお仕事に転職をしました。

なれない事だらけで、また、目が離せないという不安はストレスとなり
私は息ができなくなりそうでした。


そして、毎週土曜日の15時の1時間だけは、
自分の為に使おうと決め、今こうして飲んでいるのです。


不思議と1時間でも気持ちはリセットされます。

閉そく感と不安が募る病院で母のリハビリが終えるのを待つと、
先の見えなさで気が遠くなりますが、
自分の時間を少しでも持つと、笑顔で迎えに行くことができます。

アルコールの力もあるのかもわかりませんが。


カウンターにいる白髪の紳士は、ひょっとして写真を見せたくて来ているのではなく
孤独から解き放たれるために写真を利用しているのかもわかりません。

ビジネスマン風の男性は、
ひょっとして奥さんに浮気がばれて追い出されたのかもわかりません。


一人で飲む事情は、その人にしかわかりませんが、
一枚板の上で知らない者同士が食事をする場所というのは、
いつも居心地良く私を迎えてくれます。


デザートの黒ビールも飲み終えました。
笑顔で、母を迎えに行きます。


黒ビール.jpeg






タグ:癒し ビール
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バーボンの思い出 [感動]







それぞれの選択は、満足するもの、心に残るものがある。

世界が始まり、今までどれ程の男女が別れを選んだんだろう、
しかも不本意な。

そんな事を考えることが時折あります。


男性の恋愛は「別フォルダに保存」をしていると言いますが
女性は「上書き保存」といいます。


ですが、心に残らない恋愛ばかりではないと思います。



それは私が25歳の頃の話です。

心がつぶれる程、人を愛したのはその時が初めてでした。



私は当時、場末のスナックでホステスとして働いていました。
仕事終わりに訪れたバーで、彼と出会いました。
彼のシェーカーを振る美しい姿に、私は目を奪われました。

「この人と何かある」
そう思う直感は、あながち間違いではないと思います。

不思議なもので、偶然が偶然を重ね、
引き寄せられるように二人はありとあらゆる場面で出合いました。

初めは会釈だけ、次は笑顔が大きくなり、
そして会話をするようになり、食事へ誘われ、気持ちを重ねあいました。


月日は飛ぶように経ち、
私たちは一緒に住むようになりました。
何もかもが自然に、チープな言葉でいうところの
「幸せすぎて怖い」という言葉ですら嘘のように毎日が過ぎていきました。

お互いの親に紹介しあい、結婚式の具体的な話までするようになり、
将来は約束されたものと感じていました。


しかしすべてを一緒に過ごすということに固執をするようになり、
お互いが、少しのずれを愛情の薄れと勘違いをするようになりました。

普通の事であるということに気づくには二人とも幼すぎました。

そこからは転がるようにお互いの欠点ばかり目にするようになりました。
それに気付かれないように、お互いをだましながら毎日を過ごしました。


悲しいことに、「好き」の気持ちが伝染するように、不安な気持ちも伝染するようで、
お互いの一挙手一動が不安でたまらなくなりました。

次第に彼は、バーの女性客とご飯へ出かける頻度が多くなりました。
「営業」と言ってましたが、私はそれを信じることができませんでした。








そして偽りでも、彼と指を触れ合うことすらなくなっていきました。

春からこじれだした関係は、
夏を超え、2回目のクリスマスを迎えました。

クリスマスは二人で過ごそうよ、
すがる様にそう前からお互いが決めていたので、
私は翌日に有給を取り、彼の仕事が終わる午前1時を心待ちにしました。

おしゃれをして、
部屋をロマンチックに飾り付けし、お香を焚いて、彼の帰りを待ちました。

ひょっとして、心が戻るかもしれない、そう思っていました。

1時半を過ぎ、マンションの階段を上る聞きなれた彼の足音が聞えました。
私は今までにない緊張をしました。とても嬉しかったのです。

鍵を鍵穴に入れる音が聞こえると、私は玄関へ飛んでいきました。

少しお酒の匂いのする彼を出迎えました。

彼は後ろでに持っていた紙袋を私に渡し、

「プレゼント」

とそっけなく言いました。


私はとても嬉しかったのですが、続いた言葉に驚きました。

「これからお客さんと出るから。朝帰る、ごめん」

そう言い残すと彼は急いで玄関を出ました。

私は苦しくて、そしてあっけにとられ、その場にしばらく立ち尽くしました。
用意をしていたシャンパンを飲んでも眠れないまま時間が過ぎました。
1時間、また1時間と私の中で「この時間までに帰ったら迎え入れよう」
という気持ちが先延ばしになりました。

しかし朝日が昇っても彼は帰ってきませんでした。
そして納得をしました。それが彼の答えだと。

私は荷物をまとめ、家を後にしました。

マンションの隣の家が、クリスマスの飾りつけを片づけていました。
「今年も終わったねー」
とはしゃぐ声が聞こえてきました。
私も、ひとつの恋愛が終わったんだと、冷たい空気を深く吸い込みました。

次の日に何度も何度も彼からの電話がありましたが、
私は出ませんでした。
すると彼からメールで「わかった」という一言が送られ、
そこで私たちの物語は終わりました。


それから何年か経ち、人伝いに彼が結婚をしたことを聞きました。
不思議な気持ちでした。
おめでとうという気持ちも、やっかみもなく、

ただ、そうなんだ、という確認だけ。


結果的に彼との恋はハッピーエンドではありませんでしたが、
今の私を作った歴史だと思うと、それもとても愛おしく思えてきます。

そんなこともあったなぁ、と、彼のおかげで好きになったバーボンを飲みながら、
たまに、思い出してみるのです。


バーボン.jpg






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フライト [感動]







一生のうちに一度、とんでもないクレイジーなことをするという願望が
昔からありました。

なんでも良かったのですが、
急に仕事を辞めてその日に世界旅行へ出る、
上司の頭にお茶をかける、
いっそ、裸で走ってみる。

できるわけがないことなので、
願望が願望として募っていました。


私は派遣社員としてOLをしていました。
毎日が単調で、何も変わりなく、
恋人もいない退屈な毎日。

そのうち休日は家でゆっくりすることが多くなり、
出て行かず、パジャマのままで覚えるほど読んだ漫画をもう一度読む。


そんなんじゃ、恋人はできるわけないのですが。
しかし心の中では変化を切望していました。


ある日、仕事の合間にちらっとのぞいたSNSで
友達申請が来ていることに気がつきました。


誰だろう
と少し期待をしていると、

それは10年前、私がハワイへ語学留学をしている時に出会った
ロイスという男性でした。
ロイスはカリフォルニア出身の南米系アメリカ人で、
コーヒーショップで宿題をしている私に声をかけてきました。


焼けた肌がきれいで、私は一目でロイスに心を奪われました。

彼は私をディナーに誘い、私たちは甘くて熱い時間を過ごしました。
しかしロイスも私も、甘い時間は長く続かないと信じていました。
私は帰国日が近づいていましたし、ロイスもハワイへは旅行で来ていたので、
お互い1週間の「バケーションのひと時」として位置付けていました。

楽しければいい、そう思っていました。
1週間の間、私たちはまるで本当の恋人のように過ごしました。
映画に行ったり、学校に迎えに来たり、ショッピングやディナー。


そしてロイスがカリフォルニアに戻るときには飛行場まで送りに行きました。
さみしくなかったと言えばうそになるのですが、そんなもんだろう、と割り切っていたので、
長いハグの後、私たちは別々の方向へ戻っていきました。


ロイスがカリフォルニアへ帰ってから何度かはメールのやり取りがありましたが、
時とともに風化し、いつしか、昔あったきれいな思い出、となりました。



そんなロイスがSNSで友達の申請をしてきたので、
甘酸っぱく、また、何か初恋に近い気持ちに浸りました。

友達申請を許可すると、オンラインだった彼からメッセージがきました。

「元気?」
「元気だよ。ロイスは?久しぶりだね」

するとしばらく間があり、

「君を忘れられなかった」

とメッセージが送られました。

昔の私ならば、喜んで飛びついたかもわかりません。
しかし喜ぶには時間が経ち過ぎていました。

「ありがとう」

そう伝えて、私はむなしさとともにパソコンをオフラインにしました。
いつしか私はそんな甘い言葉に心を自動的にふさぐようになっていました。
何度か辛い恋愛をすれば、
簡単に言葉では喜べないようになるのです。


次の日も、そしてその次の日もロイスからのメッセージがきました。
正直、連絡を取る必要が見えなかったのですが、
少しだけ会話するなら問題はないか、とお互いの近況報告をしました。


ロイスはあれから2年後に結婚し、一人の女の子を授かったものの離婚、
今は一人でカリフォルニアのビーチハウスで生活をしている、と言っていました。

私も一度は婚約をしたものの、
ありきたりな「性格の不一致」という理由で破棄したことを伝えました。


そこからは毎日オンラインになると何気ない会話が続きました。

「元気?」
「仕事してる?」
「日本は何時?」
「週末は楽しかった?」

など、他愛のない会話です。








そんな会話が1カ月続いた頃、ロイスはもう一度ハワイで会ってみないか?と聞いてきました。

いまさら…。
ですがなんとなく心にひっかかりました。

そして一度は断ったものの、私はなんとなく、この誘いに乗りました。
この何年も有休など使ったこともなかったので、たまには自分を休めるのも気分転換になるだろう、
そう思いその日のうちにエアラインチケットを購入し、次の日には1週間の有給申請をしました。

フライトまでの1カ月は楽しさと不安と
そして「なんてバカな事をしているんだ」という気持ちでいっぱいでした。

そしてフライトの日、
メッセージで「これから日本を出るよ」とロイスに送りました。

チェックインを済ませ、これからハワイに飛び立つという時、
ひょっとしてロイスは来ないかもしれない、という不安にかられました。

でもまぁ、その時はその時で自分の馬鹿さ加減を笑えばいい、そう思い、私は8時間のフライトにつきました。

なによりも、単調な自分を変えたくて仕方がなかったのです。


ハワイに付き、ホテルにチェックインを済ませ、
私はSNSを開きました。
そこにはロイスのメッセージで
「付いたら電話がほしい」
と電話番号が記載されていました。


私はロイスに電話をし、久しぶりに聞く声に高揚しました。
同時に、本当に彼も来ていたという安堵感に包まれました。

待ち合わせはあの初めて会ったコーヒーショップ。
私はシャワーを浴びて気を落ち着かせ、
ミニスカートに大き目のTシャツというカジュアルな格好でロイスに会いに行きました。

コーヒーショップにつくと、ロイスがまず私をみつけました。
少しだけふっくらした彼の顔が、時の経過を物語りました。

そこから10年の月日は吹っ飛んだかの様に会話がはずみ、
私たちは失った時間を取り戻すかのように甘い時間を過ごしました。
あの時と同じように、映画を見たり、ショッピングに行ったり、
ビーチでのんびり過ごしたり、とそれはとても懐かしい時間でした。


しかし残る時間が2日となった時、
私たちのどちらもがぎこちなくなりました。

さみしさが、募ってきたのです。

ですがお互いに言い聞かせました、これは一週間のバカンスと決めたことだからね、と。
刹那的であるが故に愛しさが増しているんだ、ということを何度も話しあいました。
お互いが、この関係が永遠でないと分かっていたのです。

そして迎えた最後の日、
最後のディナーはおしゃれをして最高のデートにしよう、
とロイスが提案をしました。

私はワンピースにハイヒールで髪の毛を巻き、
ロイスは先にレストランを予約したいから、と出て行ったので、
私たちはあのコーヒーショップで待ち合わせをしました。



コーヒーショップで私を見つけたロイスは私を見つけて目を細めました。
そしてレイ(ハワイの花の首飾り)を私に掛けました。
プルメリアの甘い香りに包まれました。

レストランは海が見渡せる場所で、サンセットがとてもきれいでした。

楽しい時間はすぐに過ぎていき、ワインのボトルも1本があきかけた時、
私はさみしさで涙が溢れました。

ロイスはその涙を拭きながら、メッセージカードを私に渡しました。
少し微笑みながら私はそのカードを開きましたが、カードの中には何もかかれておらず、
不思議に思った私は彼にカードを見せました。


するとロイスはにっこりと笑い、私に

「今一番聞きたい言葉は?」

と聞きました。

正直にいうと、わかりませんでした。
何を言っても、明日には私は日本に戻るのです。

じゃぁ、楽しかった、と書いてほしい、と言いました。
彼はウェイターにペンを頼みました。

するとウェーターはペンとケーキを持ってきました。
BGMが変わり、昔私たちがハワイにいた頃に流行っていた甘い曲が店内に響きました。
それは一度だけ二人で踊りに行ったときにかかっていたスペイン語の曲で、
スペイン語のわからない私に、甘いロマンスの曲なんだよ、と説明をしてくれた曲でした。


ロイスはメッセージカードに何かを書き込んで、
席を立ち、私の前に膝まづきました。

彼は、私にプロポーズをしたのです。



一生のうちに、一番クレイジーな事だったと思います。
あの日からから1年、私たちはハワイで暮らしています。


彼の下手な日本語で「愛です」とかかれたメッセージカードは
ドレッサーの前に私たちの写真と飾っています。


飛行機.jpg






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優しい時間 [感動]







父が帰ってくる。

それは父を除く3人の家族に緊張をもたらせました。

家族の仲が悪いわけではないのですが、
父と過ごした記憶があまりにもないため、
父とどう接せればよいのか、戸惑いが私と私の兄に深く根づいていました。



兄は大学卒業後、順調に社会人として適応し、結婚、現在は郊外の一戸建てで暮らしています。
私は高校を卒業して地元の零細企業でOLとして働きながら実家で母と気ままな暮らしをしています。

母と娘の女二人、出来上がったリズムの中に父が帰ってくる。
私には緊張以外ありませんでした。

兄もまた、緊張していました。
父と私のぎこちなさは自分を介しても理解していましたし、
気ままで自由のある暮らしをしてきた母が父に振り回されはしないかと
心底心配をしていました。


父は絵に描いたような企業戦士のため、単身赴任で全国を飛び回っていたので、
私は物心付いたころには、父親という家族の人は家にいないものだ、
と信じて疑いませんでした。

父は、とても厳格で、ジョークの一つも言わないタイプの人です。
たまに家に帰ってきてもむすっとしたままで、
私と私の兄ともおろか、母とも話さず新聞を読んでいるかテレビを見ているかでした。

母に話しかけている姿もみたことなく、
会話はいつも母が語りかけ父がから返事をするだけでした。
母は会話をする度、言葉を選んでいるようで
それはまるで結婚という制度が子どもという存在で保たれていることを
証明しているようでした。

そのくせに会社関係の人から電話があると饒舌であったため、
父は私たちを嫌いなのでは、とさえ思ったこともありました。


私の中の父親とは、そうであることが普通だと思っていましたが、
休日、友達の家へ遊びにいくと
スエット姿でソファに寝そべっている「父親」がいることが世にいう「普通」なのだと知り
我が家がマイノリティだと気付きました。

友達の父親は皆、優しく、楽しくそして温かく見えました。


思春期を迎えた私は、そんな父の存在が疎ましくなりました。
普段から話をすることもないのに、
まとまった休みで家にいても勉強はどうなんだ?と聞かれるだけで、
私はまともに返答した覚えはありませんでした。


そんな父が帰ってくるのです、緊張は自然なことでした。


そして、そわそわしながら、私はその日を迎えました。

母は朝からいつもより大げさに掃除をしていました。

私は普段と同じように、どこかカフェにでも行こうかとしていると
今日ぐらいは家にいなさい、と母に諭され、
不本意ながら母の言葉に従いました。


昼を過ぎたころ、
玄関先にタクシーが止まる音がしました。


母は玄関先で父を迎えようと待ち構えており、
私はその居心地の悪さから、二階にある自分の部屋で携帯ゲームをしていました。


「おかえりなさい」


母の少しトーンの上った声が聞こえました。


さすがに、迎えないとだめだろう、と思い、
私は一階へ行きました。


「お帰り」

私は聞こえるか聞こえないかぐらいの声でぼそっとそう呟きました。

父は私の方をむき、
少し時間をかけてから「おう」

と一言だけ答え、冷蔵庫へ向かいました。
私もそのまま部屋に戻り、何もなかったかのように携帯ゲームの続きをしました。








その夜、
郊外から兄も戻り、父の退職を祝うささやかな家族だけの会を行いました。


特別なことは何もなかったのですが、
家族4人がそろうことなど、もうめったにないことなので、
母はとても嬉しそうでした。


口数の多くなった母に対し、父は相変わらず寡黙なままで、
私はこれからこの人と過ごすのか、と少し幼女のようなだだっこの気持ちになりました。


食事が終わり、
兄は帰宅し、また母と私としゃべらない父との空間が出来上がりました。


私はさっさとその空間から抜け出したかったため、
自分の部屋に戻りました。

知らない間に眠りについてしまった私は、深夜1時を回ったころに目が覚めました。
食事の際にアルコールを飲んだせいか、のどの渇きを覚えたのでキッチンへ向かいました。


階段を下りていると、珍しくリビングにテレビの灯りがついていました。

そこには父と母がソファにもたれ、
クラッシックな白黒の映画を見ている姿がありました。

テーブルには赤ワインと2つのグラス、
母は父に寄り添うように、そして父は母の肩に腕をまわし、
まるで20代の恋人同士のように映画を見ていました。

かたぶつで、母にも無愛想な父しか知らない私は、とても驚きました。
私は、その光景を気付かれないようにしばらく後ろから眺めていました。


それは古いフランスの映画のようでした。
そう言えば昔、
母が父とのファーストデートで映画館に行ったときの話を聞いたような気がします。
父は終始緊張していて、
話し方をわすれたのではないかと思ったほど無口だったけれど、
目が優しかったのでこの人は実直な人だと感じた、
と父の良さを聞いたときにそう母が照れながら話しをした記憶がありました。





「お前も見るか?」
唐突に父は画面を見ながら私に尋ねました。

父は私に気付いていたのです。
母はびっくりして父から離れましたが、父は体勢を変えようとはしませんでした。


「古い映画はみないのか?」


そう聞かれたので、あっけにとられながら、私は母の横に腰掛けました。

何も話さない時間がしばらく続きました。
三人のだれも、映画に意識はなく、
流れる白黒の映像を眺めていました。


何か、フルーツでも食べようか、
母はそう言い、キッチンへ向かいました。


ソファには父と私だけになりました。
気まずさに包まれましたが、私は映画を眺めてフルーツの到着を待ちました。


父はグラスを手にし、一口飲みました。
グラスをテーブルに戻しながら、ボソッと

「今まで母さんを守ってくれたんだな、 ありがとう」

と不器用な上ずった声で私に言いました。


慣れない言葉は、私と父自身をも照れさせました。

何も言えない私は画面から目をそらせませんでした。


母がイチゴを持ってキッチンから戻ってきました。

その時間はとても優しく流れているようでした。


食卓.jpg






タグ:家族 感動
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猫的家族 [感動]







一戸建ての私の家には、
幼少期より犬と猫がいました。

他にも、庭にいついた大きな金色のクモを
追い払うことなく、毎朝様子を見に行ったり、

すずめが来たらお米をまいたりと

何かと動物の好きな家族でした。


中でも思い出に残っている猫に

「ソラとチョコ」というメス猫の姉妹がいました。


ソラとチョコは育児放棄した母猫が姿を消し、
私の家の庭に迷いこんできました。
子猫のか弱い声をたどっていくと、
後のソラとチョコをあわせた合計4匹の子猫が寄り集まっていました。

私の家の横には叔母が家族と住んでおり、
叔母はソラとチョコ以外の2匹を引き取り、
サムとトムと名づけました。


4匹はそれぞれ、すくすくと、
そして丸々と育っていきました。


隣の叔母の家からは、屋根を伝って私の家まで遊びにくることは猫にとっては容易く、
4匹が揃うことも珍しくありませんでした。

春には芽吹く新芽にじゃれて、
夏は松の木の下で避暑、
秋はもみじの葉を追いかけ、
雪が積もると白いキャンパスにそれぞれ思い思いの桜の花を散らせました。


ある日、学校から帰宅すると、母が泣きながら私を迎えました。

チョコが車に轢かれたのです。


庭から塀をつたい、道路に出たチョコは
家の横に止まっていた軽自動車の下で寝ていた様子でした。

軽自動車の持ち主は、私の家の修繕で見積もりに来ていた
父の知り合いの大工さんが持ち主でした。

普通、猫は俊敏で、少しの変化でその場所から逃げるのですが、
元来運転の荒いその大工さんは、
急発進をしてしまい、チョコは逃げる隙がありませんでした。

ドン
という音がしたから、
とその大工さんは顔から血を流しているチョコを抱えて私の家に入ってきたそうです。


たまたま休みだった父は血相を変え、
近くの動物病院までチョコを運びました。

チョコは顔面を強打しており、
あごと頬の骨を固定するため
ボルトで痛々しく固定されていました。








その姿を見た私は涙が止まらなくなり、
抱きかかえようとそばに寄ったのですが、おびえきったチョコは
部屋の隅で小さくなり、私が少し動くと少し後ずさりする、
といった感じで触らせようとしませんでした。

ご飯の時間、
噛むことができないので、
針を抜いた注射器に獣医から購入したペースト状のえさと薬をつめ、
吐き出しそうになるチョコに我慢をさせ、注入しました。

しかし明らかに食欲はなく、
チョコは、見る見るうちにやせ細りました。

数日後、チョコの目はだんだんとうつろになり、
一日の大半を寝て過ごすようになりました。

一緒に暮らしているソラは、
時折心配そうにチョコの側をぐるぐると歩き回りました。


そして、事故から1週間後、チョコは完全に動かなくなりました。

母が様子に気づき、学校から帰った私がチョコに近づくとそのときはまだ呼吸があり、
おなかをなでるとかすかにニャーと口を動かしました。

そして父の帰りを待っていたかのように、
父が帰宅し、「チョコちゃん」と呼びかけたすぐ後、
息をしなくなりました。


母が小さな箱毛布を敷き、に冷たくなったチョコを寝かせ、
庭に咲く花を乗せました。


その夜は、家族どのものも泣けて仕方がありませんでした。


翌日、チョコは引き取られて行きました。

私はその様子を見ることはできなかったのですが、
朝からずっと、庭先でソラと横の家からサムとトムとの3匹が
肩を寄せ合っていたそうです。


それを最後に3匹が庭でじゃれ合うことはなくなりました。
ソラはずっと一匹で、
庭に出ることも少なくなり、キッチンの椅子の上で寝ることを好みました。


叔母の家のサムは、チョコの死後数ヶ月たったとき、
謎の急死をしました。

その後、トムとソラはそれぞれ長く生きましたが、
一度も顔を合わすことがありませんでした。


1枚だけ、子猫の頃に4匹揃った写真があります。
私は時折それを出してきて、
思い出に浸ります。


かわいがっているペットが死ぬと、
その死に直面するのが辛すぎるから、
と二度と飼うことをあきらめる人が多くありませんが、

私には辛さよりも一緒に過ごす幸せが勝ってしまいます。

そして、チョコ、ソラ、サム、トムの移った写真を
右に新しい子猫、左にダックスフンドを従え、
懐かしむのでした。


ネコ.jpg






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女の友情 [感動]







降りしきる雨の中、私は繁華街の人の波に飲まれるように
駅へ向かい歩いていました。


半年お付き合いをした彼氏と別れ話をした帰り道でした。

別れは私から切り出しました。
出会いの日から今日まで、私は彼が妻帯者であることを知りませんでした。


言われてみると、おかしいなと思う節はいろいろありました。
土日は出張でいない、とか、
夜9時に電話しても次の日の昼間に電話がかかってきて、
昨日は寝てた、と言ってみたりとか。


そんな「あぁ、そうか」
なんて思いが私を駆け巡りました。


その日はイタリアンを食べに行き、
そのままホテルへ行きました。

愛情を確かめ合ったと思ったのに、
彼は

「もうこれ以上嘘はつけないから言うけど、
俺結婚していて子どももいる。」

と、タバコを吸いながらそうさらりと言ってのけました。


ジョークと思った私は笑いながらじゃれて彼に抱きつきました。
彼は無関心のように、「本当だから、ごめん」といいました。


そこからの記憶はあいまいです。
興奮して、何をしゃべったのかは、あまり覚えていないです。

とりあえず、服を着て、私は一人ホテルの部屋を飛び出ました。
そして、雨の中、駅に向かって歩いていました。


そんな時は自分以外のものがカラフルに見えます。
自分は一人、モノクロです。


悔しくて、悲しくて、寂しくて。

自身をいたたまれなくなった私は、
優しそうな光を放っているカフェに入り、
何か甘いものを飲むことにしました。


カフェの中は木目調で、
ナチュラルな感じがとても心地よく、
平日の22時にしてはお客さんが入っていました。

私はホットココアを注文し、
携帯電話を取り出しました。

そして別れたことを友達数人にメールをしました。








すると友人の一人からすぐに電話がかかってきました。

「今どこ?」


話をすると友人も近所にいるとのことで、
こちらへ向かうといいます。

私は一人の時間がほしかったのですが、
彼女ならいいか、と場所の詳細を伝え、電話を切りました。


15分ほどすると、
彼女がやってきました。


仕事帰りのようで、
傘で覆いきれなかったのか半分ぬれた大きなかばんを抱えて、
大急ぎの様子でカフェに入ってきました。

二人がけのテーブルなのに、
彼女は対面ではなく、私の横にいすを移動させ、
ホットコーヒーをオーダーしました。


実は、彼女とは、昔に共通の男性を取り合った仲でした。
仲良しグループで遊んでいた大学生の頃、
共通に大好きな人ができてしまい、
いつの間にか険悪な関係になっていました。


結果として、その共通の好きな人は、
私も友人ものどちらもに手を出してしまい、
それがきっかけで女同士の友情が硬く結ばれることになりました。


別れ話のいきさつを友人に話しました。

涙がこぼれるのを私は抑えることができず、
無理から笑おうとすればするほど、
ほほに涙がつたいました。


その間彼女は、
ずっと私の手を握り、
何も言わず、ただうなずいているだけでした。

一通り話をすると、
私は随分落ち着きを取り戻しました。


ジョークも少し言えるようになりました。


彼女も安心した様子で、
肩で肩を突いてきました。


目を腫らせて私たちは店を出ました。
雨も止んでいて、ネオンが滲んでみえました。

駅までに続く歩道橋で、彼女は私に言いました。


「彼氏は変わるよ。でも友達は変わらないよ。」


少し照れぎみに言う彼女に私は爆笑しました。

笑うことでもっと照れる彼女に、私はもっと爆笑しました。

深い愛情を感じながら、
私は彼女に見送られ、最終電車に乗りました。


女の友情は続かない、なんていう人もいますが、
私は友情をかみしめながら、家に帰りました。
一人じゃないことが、とても幸せでした。


カフェ.jpg






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 [感動]







どんなに深い愛を感じていても、
まったく変わらないなんてこと、やはり不可能なのだろうか。


私はもう、妻と会話をほとんどしていない。


子どもは2人、上が小学校4年生の男の子で、
下が小学校2年生の女の子。


職場恋愛で知り合った妻と結婚したのは
私がまだ大学卒業したての新人で、
失敗をよくし、上司にいつも怒られていた頃だった。

1年後輩で総務部に配属されていた彼女は人気が高く、
いつも笑顔で、その笑顔見たさに社員食堂では彼女の居場所をよく探したものだった。


会社全体の忘年会の後、帰る方面が同じだったので、
私は思い切って彼女にもう一件よらないかと誘った。


以外にも彼女は上機嫌で、ぜひご一緒したいです、と即答をした。


そこから何度がデートを重ね、結婚をした。


第二子ができてしばらくまでは仲の良い家族だったのだが、
ちょうど私が課長に昇進した頃からだった。


会社の付き合いが今まで以上に増え、
また、2年の単身赴任を経験したことが最大の理由で、
私は妻と向き合えなくなっていた。


家に帰っても子どもを介して話すことはあっても、
二人きりになると重苦しい空気が二人を襲う。


そうなるのが怖くて、
理由がなくてもほぼ毎晩誰かを誘って飲みに出るようになった。


悪循環。
まさにそれだった。



ある日、会社へ行くと、私のデスクに2枚のチケットが置いてあった。

プラネタリウム。

手に取ってみていると女子社員が

「一人2枚だそうですよ。ほら、今度タイアップする会社の営業さんが、
昨日いらした際に頂戴したんですって。
私もいただきました。子どものとき以来ですよー、プラネタリウムなんて」


とうれしそうに説明をしてきた。

ふーん、と眺め私はそのチケットを女子社員に差し出した。


「いらないんですか?課長。」

「うちは、4人家族だし、連れて行く時間もないからね。
誰かにあげなさい」

そういうと、女子社員はチケットを受け取った。

一瞬、間があり、女子社員はチケットを私に戻した。


「課長、たまには奥様と行かれてはどうですか?」


ないない!と笑いながら私は首を大きく振った。

「いいじゃないですか、奥様、喜ばれますよ、きっと」

そういうと彼女はデスクに戻っていった。


バカバカしい、と思いながらも私はチケットに目をやった。
そしてもう一度チケットを手にした。








昼を過ぎても心のどこかに誘うべきかどうかが引っかかっていた。
誘って、もしも、断られてしまったら、
私はますます妻との距離を置いてしまう。

悪化だけは避けたかったのだ。

メールを作っては消し、作っては消し、
まるで高校生のように何度も何度も繰り返した。


どうやら私は妻とものすごくデートがしたいらしい。
断られたところでいままでと同じ事だ、と私は妻にメールをした。

「今夜、18時に出てこれないか?プラネタリウムのチケットをもらった」


数時間経っても妻からの返事はなく、私はメールを送った事実も忘れかけていた。
16時少し前になって、やっと返事が来た。

恐る恐るメールを開けると、

「待ち合わせどうする?」

と承諾のメールだった。


仕事を早く切り上げ、私は妻の待つ駅前に急いだ。

小雨が降り出し、こんな日に、と思ったが傘を買う余裕すらないほど、
妻より先に待ち合わせ場所にいたかった。
焦っている姿など、妻に見せたくない。


なんとか妻より早くついた。
しかし間一髪とはこのこと、妻の姿が見えた。
めずらしく、花柄のワンピースを着ている。
私は照れ隠しに、「いい年して」とつい口から出てしまった。

妻はむっとしながらも、傘をさし私に手渡した。
「持ってよね」
そういうと自然に、妻は私の腕に触れた。


そこからプラネタリウムまでは歩いて10分程度。

特に話すこともなく、時折「雨だな」程度の会話をしながら
目的地まで進んだ。
さっきより雨足がきつくなっていた。


プラネタリウムは想像していたものよりもはるかに近代的というかアートになっていた。
正直、私は内容に興味がないので、そう感動するものでもなかったのだが、
妻はどうだろうか、退屈していないだろうか、と気になった。

上映後、プラネタリウムを出た私と妻は、遠回りをして家路についた。

それはどちらともなく、空白の数年間を埋めるように、
「あの道通ってみようか」
と雰囲気で伝わったのだ。

気にしたこともなかったが、家族で出かけるときはいつも私だけ先頭で歩いていた。
家族に歩幅を合わせたことなどなかったのだな、と少し心が痛んだ。

帰り道は自然と歩く速度が落ちた。
妻の手を握りしめたことは、自然に成り行きだと思う。


妻は照れた様子で俯いた。
ありがとう、そういうと妻は私の手を強く握り返した。


家路がこんなに温かく感じたのは何年ぶりだろうか。
私はずっと、この女性に恋をしていたんだ、そう気付いた。


いつの間にか、雨が、あがっていた。


プラネタリウム.jpg






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帰り道 [感動]







父は私を男手ひとつで育てました。

私の母は、私が物心付く前に幼い私を残し家を出ました。

父との仲がなぜこじれたのかは、
大人になった今でもわかりませんが、
二人の間に何かがあったということは明白でした。

父は昔の「親父」という言葉が似合うタイプの性格で、
あまり話をしない、堅物な昭和の頑固親父でした。

母はそんな父に愛想を尽かしたのかもわかりません。


父とは普段、会話をすることはほぼないのですが、
どうしても今回、話をせざるを得なくなりました。

私には大学生時代から交際をしている男性がおり、
先日彼からプロポーズを受けました。
そして来週、彼が父に正式に挨拶に来たいというのです。


私は朝食を用意しながら、
どのタイミングで父にその話をしようかと考えていました。

父には今まで、彼氏を紹介したことは一度もありません。
彼氏がいることはなんとなく雰囲気でわかっている様子ですが、
明言をしたことはありませんでした。


起床した父は、ぼさぼさの頭のままソファで新聞に目を通しています。

テーブルに朝食を並べ、
新聞を読んでいる父を呼びました。

いつもと変わらない朝に、私は変化をもたらせました。


「父さん、来週日曜日何してる?」

「競馬だな」

「あのね‥」

私はお箸を置き、一呼吸置いて父に伝えました。

「会ってほしい人がいるの」

そう伝えると父は一瞬箸をとめました。
そしてまた白米を口に運びました。

しばらく沈黙があった後

「何だ、結婚するのか?」

と静かにたずねました。

そうだね、と私がいうと父はわかった、と言い食事を済ませました。


そこから日曜日までは何も変わらない日々が過ぎました。
そして日曜日、彼が緊張した面持ちで最寄り駅へやってきました。

彼は私が一人っ子であること、
父が頑固親父であることを知っていたため、
必要以上の緊張をしている様子でした。


駅からは10分ほどで家に着くのですが、
彼は1日程歩いたように感じているようでした。
こんなにも話をしない彼は初めてでした。


家に着くと父はリビングでいつもと変わらぬ寡黙なままでした。

彼は手土産を渡し、
私は彼にソファに席を付くように促しました。
ソファに付いた彼は話すことができず、静寂が続きました。

「お父さん」

私が父にいうと、

「名前は?」

とぶっきらぼうに言い放ちました。

「吉田と申します。お嬢さんと、学生時代よりお付き合いをしております。
結婚をしたいと、考えてます。」

彼はせきをきったようにそういうと、
両膝の上のこぶしを岩のように硬くしました。

父は少しうなずき、また沈黙が続きました。

父はその後、圧迫面接さながら彼の勤め先や出身地を聞くだけで
何も聞きませんでした。

そうしてきまづい時間だけがながれ、彼は帰っていきました。










彼が帰った後、私は父を問い詰めました。
なぜそうなのか、気に入らないにしても態度に出す必要はない、
と責めました。

父は黙って聞いていました。
そして、
「おい、飲みに行くぞ」

と私を飲みに誘い一人玄関へ向かいました。

私も後に続き、無言のまま、近所の居酒屋へ行きました。


居酒屋で父はビールを2つ頼み、
私が一口飲むともう3分の2を飲み干していました。


料理を注文し、残りの3分の1を飲み干すと、
父は日本酒を頼みました。

そして日本酒を飲みながら、私に目をあわせないまま、
母との別れを話しだしました。


驚きましたが、優しいイメージしかなかった母には、
恋人がいたそうです。
どこの誰かは知らない、ということですが、
堅物な父と一つ屋根の下母親であり続けるより、
優しい年下の男性と女として生きていく決断をし、家を出たそうです。

それ以来、母の話をしなかったのは、
どう伝えれば私が傷つかないかわからなかったからだ、
と父は少し声を詰まらせました。

私は涙が溢れました。
母のイメージが崩れていくことと、
また、父が不器用なりに私を守っていてくれたこと、
この二つがめまぐるしく頭の中を駆け巡りました。

その日は父と深酒をしました。
生まれて初めてのことです。
居酒屋を出て、父の行きつけだというスナックに行き、
飲み、歌い、笑いました。

スナックではママさんが、
あぁ、あの自慢のお嬢さん!と目を細めました。
父のプライベートに少し触れた気がしました。
以外にも、父は陽気な人なのだと、はじめて知りました。

父子ともに上機嫌の帰り道、父はまじめなトーンで私に言いました。

「彼を、悲しませるようなことだけはするな」


はい、とうなずき、月明かりの中、家路につきました。


家族.jpeg






タグ:感動 家族 結婚
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最後のお中元 [感動]







私が中学生の頃、
父、母、私、そして母方の祖母の4人で
母方の実家で暮らしていました。

祖母は90歳近く、脚が弱り、一日の大半を寝て過ごしていました。

私の母は4人兄妹の長女であるため、自ずと祖母の面倒を見ることとなり、
母の実家へ私が小学校5年生の頃に引っ越しました。

祖母は少し痴呆症があり、時々母を「お母さん」と呼んでいました。
仕事で遅くなる父のことは日に日に認識できる時間が少なくなり、
私は自分の子であると認識をしているようでした。


母は近所のスーパーでアルバイトをしていましたが、
祖母の介護が必要になったため、パートをやめ、
一日の大半を家の中で祖母と過ごしました。


学校から私が帰ると、母は少しの間自由になります。
買い物に出かけ、喫茶店で少し自分の時間を作る。
介護から開放されるその1時間程度の時間が、母に正気を保たせていました。


中学校を卒業する頃になると、祖母の状態は悪くなり、
一人での歩行は困難になっていました。
成人用介護パンツをつけ、排泄も手助けが必要になりました。


母をわかることはほぼなく、お母さん、とずっと呼んでいました。
父は、同居をしている人、と思っていたようで、私はその人が連れている子供のようでした。


ある夏の暑い日、
祖母は薄い浴衣の寝巻きを羽織ったまま、交通事故に遭いこの世を去りました。

その日は少し記憶が定かだったようで、母を自分の子として認識し、
朝から庭に出て花を愛でていたそうです。

母は安心し、また、日ごろの疲れもあったせいで居眠りをしてしまいました。

家の前を救急車のサイレンがけたたましく駆け抜けた音で母は目を覚ましました。
かぶった覚えの無いブランケットが肩にかかっていました。
見回すと祖母の姿はなく、
何かが起こったと直感で思ったそうです。


あわてて飛び出した母は、家から数メートルの場所で担架で運ばれている祖母を見つけました。










病院に運ばれましたが祖母は頭を強く打っており、ほぼ即死でした。

通夜には近所の人が次々とやってきました。

憔悴しきった母に一人の女性が話しかけました。
その人は、近所の酒屋さんで、スーパーがなかった昔からお酒はもちろん醤油やみりんを
購入する古い付き合いのご近所さんでした。

そして酒屋さんは、静かにあの日の様子を話し出しました。
祖母はあの日、戻った記憶に従い、
お酒好きの父のため、お中元を買いに酒屋へ行ったそうです。


酒屋はびっくりしたものの、しっかりした口調の祖母が、
家へビールの中瓶をケースで送るように、
と指示をしたそうでした。

会計も済ませ、覚束ない脚で祖母は店を出ました。


店先で祖母を見送り、一度は店内に入ったものの、
心配になり家まで送ろうと酒屋の店主が店を出た時には
祖母は血まみれで倒れていたそうです。


酒屋は申し訳ない、と何度も父と母に頭を下げました。


父はどうしてよいのかわからない、といった様子で頭を抱え
その場に崩れ落ちました。

母は、その父を支えていました。



葬儀が終わり数日たつと
悲しみよりも日常の平然が勝りました。
家族3人で囲む食卓は、以外にも笑みがこぼれました。
父は祖母からのビールを1日1本空けて、ゆっくりと味わっていました。

今でも酒屋の前を通るとその話を思い出します。

祖母は、父にずっと気を使っていたのだな、と少し切なくもなります。
そういえば祖母はお酒を飲んだのだろうか、
私は知らないですが、
昨年旅立った父と天国で乾杯してればいいな、
と私もビールを開けるのです。


瓶ビール.JPG









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