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大切な友達とのこと [感動]

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私が通っていた小学校はいわゆる「田舎の小学校」で、自然に囲まれた緑豊かな土地に静かに立っていました。
クラスは各学年ひとクラス、小学校六年間はクラス替えも無く、卒業までそのまま持ち上がりの形だったのです。

田舎の子供はおおらかで素朴な子供たち…そんなイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。
確かに、近くに山や川があるため遊ぶ場所に困ることはなく、時には野うさぎに遭遇したり山へ探検に行ったり、思春期の敏感な子供を育てるにはとてもいい環境だと言えるかもしれません。
ですが、だからと言って何も問題が起こらないという訳では決してなく、子供間に生じる問題に、田舎も都会も大差は無いような気がします。
実際私のクラスにも様々な問題はありましたし、中でもある女の子に対する「いじめ」のような状況は長期に渡って続いたと思います。

その女の子は、名前をなつみちゃん(仮名)と言い、物静かでとても穏やかな性格をしていました。
背が高くほっそりとスタイルのいい子だったことを今でもよく覚えています。
そんななつみちゃんには、ある「クセ」がありました。
時々、瞬きをパチパチッ、パチパチッと繰り返したり、首を左右にかくんかくんと傾けたりするのです。
無意識に「うん、うん」と唸っているような声を出すこともありました。
それは「チック症」という症状による不随運動で、本人の意思とは関係なく起こるものでした。
一説には神経が人より細やかで繊細な子供に多く見られるという説もあるようです。

しかし、当時幼かった私たちにはそんなことが理解出来ず、「なつみちゃんは変な人だ」というレッテルを貼ってしまっていたのです。
なつみちゃんはクラスでも孤立した存在になってしまい、移動の際も下校の際もほとんど一人でした。
あからさまに無視をするとか暴力を振るうとか、物を隠す、壊すなどの行為こそなかったものの、なんとなく皆親しくしたくないといった空気が蔓延していたように思います。

実は、私の祖母となつみちゃんの祖母は昔からの友達で、幼稚園の頃はなつみちゃんとばかり遊んでいました。
家も近所だった為、いつもどちらかの家で過ごしていました。
その頃からなつみちゃんにチックの症状があったかどうかは覚えていませんが、私にとってなつみちゃんは大切な友達だったのです。
それが小学生になり、なつみちゃんよりも親しい「親友」と呼べる存在が出来、少しずつなつみちゃんとの距離はひらいていきました。
自己主張をあまりしない性格のなつみちゃん、私が違う友達と仲良くしていても何も言わず、ただ静かに過ごしていました。


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少しずつなつみちゃんが一人ぼっちになっていって、私は後ろめたい気持ちを隠し持ちながら、それでも見ないふり、気付かないふりをしていたのです。
ひとりでいるなつみちゃんに対して申し訳ない気持ちを抱いていても、その状況を変えようとする勇気が当時の私にはありませんでした。

そんな時、ある事件が起こりました。学校から帰ろうと外へ出ると、校門の外でなつみちゃんがクラスの女子数名に取り囲まれているのです。
何事かと思って近付いていくと、クラス内でも気の強い子がなつみちゃんを責めています。
どうしてそんな事態になっているのか分かりませんでしたが、そのただならぬ雰囲気に声をかけることが出来ません。
なにも言わずにただ俯いているなつみちゃん。
その手から、一人がランドセルをもぎ取り、近くの川に投げ捨てました。
誰もがあっけにとられてその様子を見ています。
それまで石のように固まって動かなかった私の体が少しだけびくりと震え、その次の瞬間、私はランドセルが流されていこうとしているその川に飛び込みました。
悲鳴をあげる女子の声を背中で聞きながら、なんとかランドセルを掴んで川から戻りました。
私はずぶぬれになりながらなつみちゃんにランドセルを手渡し、誰にも何も言うことが出来ず、そこに呆然と立ち尽くすだけでした。
私の様子を見て泣き出す子もいれば逃げるようにその場を立ち去る子もいました。

気付くと、私はなつみちゃんと並んで黙って一緒に帰宅の途へついていました。

ポツリとなつみちゃんがひとこと「ありがとう」とつぶやきます。
同じようにポツリと私も「ごめんね」と返します。

会話はその二言だけでした。
きっと私もなつみちゃんも、他に何を言えばいいのか分からなかったのだと思います。
もっと責めたかったはずなのにそれをしなかったなつみちゃん。
それが彼女の優しさであり、強さなのだと知りました。

それから卒業まで、残されたわずかな時間で私たちが元通りの仲に戻ることはありませんでしたが、なつみちゃんと私の間には、なんとなく通じるものがあったように思います。

後悔と反省は、似て非なるもの。
後悔の延長線上に「反省」することが出来るかどうか。
それでその先は大きく変わるように思います。
私は、あのもの静かななつみちゃんにそんなことを教わったような気がするのです。


小学生.jpg


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祖母の教え [感動]

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私が小学生の頃、まだ祖母が生きていた時の話です。

祖母は今時珍しく毎日きちんと着物を着ている人でした。
食事は家族と一緒に摂らず、母が毎食お膳に乗せて自室まで運んでいました。
少し頑固で厳格な雰囲気が漂うような女性だったと思います。
歳の割には背筋がしゃんとのびた背の高い祖母。

そんな彼女もやはり年齢には勝てず、晩年には重度の認知症を患っていました。
まだ幼かった私にはよく理解出来なかったようですが、両親は祖母の行動や言動に大変苦労をしたようです。
あるときは粗相した衣類をこっそり浴槽で洗ってしまったこともあったようで、父がお風呂の蓋を開けてみるとそこは汚物まみれになっていたそうです。
認知の度合いが進んでも、プライドの高い部分が祖母には残っていたのでしょう。
粗相した自分が許せない気持ちと、羞恥心がそうさせたのだと思います。

また、祖母はたびたび近所の人にもご厄介になっていました。

いつからそうなったのか分かりませんが、買い物をなんでも「一円」で済ませて来る様になりました。
認知は進んでも足腰は丈夫で歩行に支障はまったく無かった為、少し目を離すと一人で徘徊してしまうのです。

その時、必ず近所の人が見つけて連れて帰ってくれたのですが、いつも孫の私にお土産を買っているのです。
いつも同じ近所の小さな商店で買い物をしているようなのですが、お支払いは毎回「一円」のみ。
それで何でも買えると思っているのです。

近所の皆さんの理解がなければ、と思うと、今でも頭が下がります。
祖母が私に買おうとしてくれたお土産は、当然どれも一円で買えるものではありません。
時には週刊誌、時にはお菓子、たまたま近所を走っていた石やきいものおじさんも一円でやきいもを2本も売ってくれていました。

家族を含め、色々な人に祖母は大変な迷惑をかけてきたと思います。
それが病気のせいだとしても、なかなか理解するのは難しいでしょう。
もともとが気丈な性格の祖母ですから、きっと口調も強く、たくさんの人に不快な思いをさせたと思います。
それでも私は、誰かが祖母を悪く言った言葉を聞いたことがありません。
いつも「おばぁちゃん、おばぁちゃん」と優しく笑いかけてくれていましたし、そんなやり取りを見ているのが好きでした。

ある時、祖母が私に言いました。

「一円玉には神様がいるから、一番大事にしなきゃだめなんだよ」。その時の教えが今の私の心には深く残っているので、一円玉にはなんとなく特別な思い入れがあるのです。


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たった一円では何も買えないかもしれないけれど、一円玉を大切にすることは「お金の価値をしっかり理解すること」のような気がするのです。
一円玉を大事にしないことは、祖母のことを忘れてしまうことのような気がするのです。
幼い私の為に、どこまでも一円玉を握り締めて行ってくれた祖母の後ろ姿と重なるような気がするのです。

祖母が亡くなった日のことは、今でもぼんやりと覚えています。

いつもと同じ朝のはずなのに、親戚がどんどん集まってきました。
今日は一体何があるんだろう?でも、みんなの様子がなんだかおかしい。
楽しいことで集まっている訳ではないのだということが分かりました。
次々と人が集まり始め、みんなそろって祖母の部屋へと向かいます。
あとからこっそり祖母の部屋を覗いてみると、皆泣きながら祖母の枕元で話しかけています。
その様子で私にもなんとなく理解できました。

ああ、おばあちゃんはもうすぐ死ぬんだな。そう思いました。

私は家の外に出て、いつも祖母が座っていた庭の石の上に立ってみました。
その時の空の色は、今でもはっきりと覚えています。
とても青く高く、こんな綺麗な空なのに、私の祖母は死ぬんだろうか。
なんだか信じられなくて、でもきっとその時はもう近い。
そう思うと、自然と涙が溢れてきました。物心ついた私が始めて触れた「人の死」でした。

昨日笑っていた人が明日には居ないということが、「人が死ぬということ」なんだな、と、なんとなく思ったことを覚えています。

大人たちが忙しく葬儀の準備に駆け回っていることに、なぜかとても腹が立ちました。
誰も悲しんでないんじゃないかという風に思えてしまったのです。
大人になった今なら、そういった現実の流れが理解出来ますし、忙しく動き回ることで悲しみを一瞬でも忘れることが出来るのだと言うことも知りました。

ただただ純粋に悲しんでいられたのは、子供の私だけだったのかもしれません。

あれから長い年月が過ぎ、その間にも大事な人たちが旅立って行きました。
一人の人の人生が終わりを告げることの深さが少し分かってきたような気がしています。

お財布を開けて支払いをするとき、あの時私が祖母から教わった「一円玉を大事にしなさい。」という教えを思い出します。
いつか私がこの人生を終えるとき、誰かが私の言葉を胸にしまってくれたらいいなと思っています。
私にとって祖母がそうだったように、私も芯のある凛とした女性として生きて生きたいものです。


一円玉.jpg


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先生のお願い [感動]

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子供の頃は、善悪の判断がつきにくいものです。
これを言ったら相手が傷つくだろうということを予測することも下手なので、悪意はなくてもぽろっとこぼした一言で誰かを深く傷つけてしまうことも多いと思います。
「子供は正直」という言葉を耳にすることがありますが、思ったことをすぐに口に出してしまうという性質を持った、まさに「小さな爆弾」とも言えるのではないでしょうか。
そんな子供たちに、善悪の判断や、相手を思いやる気持ち、言って良いことと悪いことの区別といったことを教えるのは、両親や家族だけでなく、特に子供たちと関わることの多い学校の先生の大切な役目だと思うのです。

私が小学生だった頃、同じクラスに生まれつき髪の毛が生えてこないクラスメイトがいました。
遺伝の関係だと思うのですが、髪の毛だけでなく、眉毛に睫毛、体毛、すべてが生えてこないのです。
そういった特徴のある仲間がいたわけですが、小さな町の小さなその小学校は、ほとんどの生徒が幼稚園からそのまま持ち上がりなので、そんな仲間に対して違和感を覚えることなく一緒に過ごしてきていました。
髪の毛がない頭を衝撃から守る為、その子はいつも網状のネットを被って生活しています。
そんなスタイルも含め、幼い頃から一緒に過ごしてきた仲間の姿はもう私たちにとっては自然だったのです。
他の人の目には一種の驚きをもたらすかも知れないその風貌に疑問を抱く人はおらず、そのことを馬鹿にしたりいじめたりするような子もいませんでした。


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その子は物凄い努力家でもあり、特にマラソンの能力は群を抜いていました。
毎朝お父さんとマラソンの練習をしており、その子に敵う子は誰一人いません。
マラソンに打ち込んだ理由を、「容姿のことで誰かに何かを言われても負けない強い心を作るため」だったと、後にその子のお父さんが教えてくれたことがあります。
子供心にも素晴らしい教育だと思ったことを今でも覚えています。
私たちはその子に髪の毛や眉毛がなくてもおかしいと思ったことはありませんし、馬鹿にする人が現れるなんて思ってもみませんでした。
あまりにも自然に私たちの中に溶け込んでいたのです。

ある日、その子が風邪で学校を休んだ日がありました。
普段あまり体調を崩すことのない丈夫な子でしたので、欠席は珍しいことでした。
その日、放課後のホームルームの時間、担任の先生が「○○のことで話しておきたいことがある」といいました。
改まって、いったいなんだろうと思っていると、先生がこんなことを話し始めました。

「○○に髪の毛や眉毛がないことを、このクラスの皆は誰一人からかったりいじめたりしない。それはとても素晴らしいことです。先生も、こんなクラスを持てた事を嬉しく思う。ただ、これから中学、高校へと上がっていく際、いろんな場面で○○は嫌な思いをするかもしれない。容姿の事で傷つくことを言われるかもしれない。そんな時、どうかみんなで○○のことを守ってやってください。先生のお願いです。」そう言って、私たちに向かって頭を下げました。
このとき、私たち生徒には、一種の強い連帯感のような使命のようなものが生まれました。
これから先、○○くんがいじめられたり笑われたりしたら、必ず私たちが盾になるんだという強い思いがこみ上げてきました。

彼は私たちの前では弱音を吐くことはなく、いつも笑ってクラスの中心にいるような明るい生徒でした。
ですが、家では自分が皆と違うことで悩んだり、買い物などで普段行かないような場所に行くことを嫌がることもあるのだということを知りました。
知らない人の目を気にしているのだという事実を知り、その子の底知れない明るさと強さの裏に潜む弱さや恐怖、疎外感を、幼い私たちは知らないでいたのです。

特に子供の頃というものは、周りと同じであることが何よりも重要だったりします。
みんなと同じがいい、皆とお揃いがいい。そんなことにこだわる時期です。
そんな時に、外見上の違いというものを抱え、それでもその不安を私たちに悟らせずにいた○○くん。
あまりにも自然な姿に気付かなかったけれど、きっと小さな心はいつも小波だっていたことでしょう。
そんな彼の精神的なサポートとして毎日毎日マラソンを一緒に続けていたお父さんの愛情、彼をどうか守っていってほしいと子供の私たちに頭を下げた先生。私たちに出来る最大限のことをしなければならないと思わせられました。

その後私たちは中学、高校と進学しました。

数名が○○くんと同じ高校まで一緒でしたが、彼が嫌な思いをしてしまいそうな場面では、必ずさりげなく傍にいたそうです。
大人になり、外でお酒を飲むことを嫌がる○○くんに対して、「お前がお前を恥じるなら、オレも自分を恥じる」と泣きながら話した友人もいました。
皆、あの時の先生の「お願い」を、今でも守り通しているのです。
それはクラスの全員に課せられた使命なのだから。
彼はその時の先生のホームルームの内容を今も知らずにいるでしょう。でも、それでいいのだと思います。
大切な仲間は、外見がどうであれ何も変わりはないのです。


ホームルーム.jpg


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私らしさ [感動]

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遠距離恋愛というものに、自分は縁がないと思っていました。

もともとそんなに恋愛経験が多いほうではなかったですし、性格的にも外見的にもあまり女性らしいとはいえないと自分でも思っていましたので、こんな自分を好きだと思うようになるには、時間をかけて近くでずっと見てきた人でなければ無理だろうと思っていました。
そうでなければ、私も素直にはなれないし、幼馴染がなんとなくそのまま付き合う形になっちゃった、というのが理想の形でした。
お互いに無理することなく、背伸びすることなく付き合っていって、いずれそのまま無難に結婚してしまって、同じ土地で生まれ育った者同士が同じ土地で死んでいくというのが一番自然なんじゃないだろうかと思っていました。
なんせ私はこんな片田舎から出たことがないので、この土地の言葉や風習がもう身に染みてしまっています。
それを相手によって変えてしまうことは到底無理だと感じていました。

そんな私でしたが、友人、知人は県外にもたくさんいるもので、その中の一人となんとなく付き合う形になってしまいました。
まさか県外の相手と、しかも遠距離恋愛に身を投じることになるとは、まったく予想外の展開でした。
一抹の不安を覚えながらも一年、何とか頑張ってきました。
時々会いにいっては短い時間を一緒に過ごし、その時間を楽しむことも出来ました。
なんだ、意外と自分は遠距離恋愛向きなのかもしれない、まだ続けていけるかもしれない、と思っていたのですが、なかなか事はうまくいかないものです。

一年を過ぎた頃から、小さなケンカが多くなってきました。
なかなか会えないのだから仕方が無いのだと思い、いつも最後は私が折れるようにして収束していたのですが、ある時彼が許しがたいことを言ったのです。
「お前の言葉づかいは汚い。」
それは、私の住むこの土地の方言を指して言った言葉でした。
今まで無理をして標準語を使うように努力してきたし、そんな私に対して、「気にすることないから、そっちの方言で喋っていいよ。」と言ってくれていたのに、ここにきて「言葉づかい」を馬鹿にされたのです。
それは、私自身を否定されたも同然でした。
そのあまりのショックに言葉を失いましたが、好きだという気持ちがあったからか、悔しい気持ちよりも「悲しい」という気持ちの方が大きかった気がします。


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一人で悶々と考え続ける日々が続きました。
そういえば、最近連絡するのはいつも私の方からだったな、ということにもなんとなく気が付きました。

そんな時、いつも私の相談にのってくれていた友人が会いに来てくれ、話を聞いてくれたのです。
友人いわく、いつも私が無理をしているように見えたとのこと。
無理してお金を作って会いに行くけど、向こうがこちらに来てくれることはなかったこと、髪形を変えろ、服装をもっとこうしろ、と、ありのままの私を見てはくれなかったこと、ここまで頑張ってきたのに、「方言」を馬鹿にされるのはルール違反だと、自分のことのように怒ってくれていました。
そんな彼女が最後に私にこう言いました。

「縁のないところに結ぼうとすると、どこかに無理が生じるんだよ。」

それは、なんだかとても腑に落ちる言葉でした。私が私で居られないような付き合いをしていくことに意味はあるのだろうか、お互いを高めあえるのならそれでも良かったけれど、これでは一方的に私が蔑まされて終わるだけだということに気が付きました。

その友人は、中学の頃から私をずっと見てきてくれていました。
だから今更言葉にしなくても分かり合えるし、お互いのいいところも悪いところも分かっています。
そうなるには時間がかかるし、短時間で同じ距離感を感じることが出来る人間はきっと限られているのだということが分かりました。

「あなたはあなたでいいんだよ、言葉遣いが重要なんじゃない。あなたの人柄がちゃんと分かる人なら、方言なんか問題にならない。あなたの本当の気持ちがちゃんと分かる相手じゃなきゃ必要ない。」

そう言ってもらえた時、色々な思いがこみ上げてきて、ついその友人の前で泣いてしまいました。
本当は遠距離恋愛が辛かったこと、自分の言葉で言いたいことが伝えられなくてもどかしかったこと、向こうからも会いに来てほしかったこと、実はずっと不安だったことが、全部溢れ出てくるような気がしました。

その後、私の方からお別れを言いました。
彼は止めることもなく、思った以上にあっさりと納得したようでした。
本当は最後に、思いっきり地元の方言で言いたいことを言ってやろうかと思ったのですが、たぶん通じないだろうなと思って止めました。
この一年ちょっとの遠距離恋愛は、私にとってはやはり辛い思いをしたという記憶のほうが強く残っています。
自分の在り方を恥じた一年でもありました。と同時に、「私らしさ」をちゃんと分かってくれる人が居ることのありがたさ、地元に生きる私を恥じないことを、改めて考え直すきっかけにもなったような気がします。


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子猫が教えてくれた [感動]

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ある日、我が家に小さな小さな訪問者がありました。
微かなその泣き声は、行きかう車の騒音に簡単にかき消されてしまうほど弱々しく、聞き逃してしまってもおかしくないほどのものでした。
その泣き声に最初に気が付いたのは、小学五年生になったばかりの私の娘で、「お母さん、赤ちゃんが泣いてるみたい」との声に耳を澄ましてみると、確かに小さな泣き声が聞こえるのです。慌てて外の様子を見に行くと、灰色の綿ぼこりの塊の様な存在がうずくまっているではありませんか。
なんだろう?と思って恐る恐る近付いて見たそれは、生まれてそれほど経っていないであろう子ねこだったのです。

小刻みに震える体は痩せ細り、骨が浮き出るほど。
両目は多量の目ヤニでつぶれ、時々か弱いくしゃみをしています。
直感的に、「このまま放っておいたら近いうちに死んでしまう」と思いました。
どうしたらいいだろうと迷っていると、隣にいた娘がすかさずその汚れた子猫を抱き上げ、しっかりとその胸にかかえました。

「お母さん、病院に連れて行って。」

もともと動物好きの私ですので、電話帳で調べた一番近くの動物病院へと車を走らせました。
初めて足を踏み入れたその病院は、明るく清潔感のある綺麗な病院でした。戸惑っている私を、優しそうな先生が診察室へと誘導してくれます。
たどたどしい手つきで診察台にその子猫を乗せると、体重はわずかに400グラム。重い結膜炎と、感染症に犯されていることが分かりました。

病院が準備してくれた子猫用の餌をすごい勢いで食べている姿にホッとした私たち。
保護した猫だと伝えると、「どうされますか?」と聞かれました。

娘に言われるままに病院へ連れて来たものの、その後のことはまったく考えていなかったものですから、すぐに返事をすることが出来ずに迷っていると、ふと壁に貼られたたくさんの里親募集のチラシが目に入りました。

犬に猫、こんなにもたくさんの小さな命が、行く先もなく増え続けているという現実がそこにはありました。
隣で心配そうに子猫を見ている娘。私は、とりあえず里親募集も視野に入れながらいったん自宅へ連れて帰ることに決めました。
その時の安心したような先生の顔がとても印象的でした。

点眼薬と飲み薬を処方され、使い方や飲ませ方をとても丁寧に教えて下さいました。
「無理にお宅で飼われなくても、もし里親募集されるなら当院でも協力しますので」と心強い声をかけて頂きました。
大きな手で優しく子猫を撫でながら、「お前、いい人に見つけてもらったな」と笑う先生の隣で少し誇らしげな表情の娘に、なんだか私もついつい笑顔になってしまいました。


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とは言え、今まで猫を飼った経験の無い私たち。
すべてのことに戸惑ってしまいました。それよりもなによりも、何も知らないまま帰宅した私の旦那は、子猫の姿を見た瞬間に石のように固まってしまいました。
「俺は知らない。俺は何もしない」とまるで無関心。
そんな旦那の態度にがっかりしたりイライラしたり。それに加えて、薬を飲ませる、目薬をさす、トイレをさせる、ご飯を食べさせる…。すべてが手探り状態です。

自宅へ連れ帰ってしまったことを早くも後悔し始めた私。
命を預かるということを安易に考えてしまった自分がとても情けなくなってしまい涙ぐんでいると、娘が積極的に子猫の世話を焼き始めました。

「お母さん、大丈夫だから。お母さんは私のことをちゃんとここまで育ててくれたんだよ。この子は私も一緒に育てるから。」

私の不安そうな顔を見て、何かを感じとってくれたのでしょう。
五年生になったばかりの娘が、急に頼もしく見えました。そしてこう思いました。
この子猫がここにやって来たのもきっと運命。捨てる人がいるなら、私は助ける人になろう。
娘に後押しされたようにも感じました。日に日に子猫は元気になり、少しずつ目ヤニも少なくなっていきました。
ヨタヨタと頼りない歩き方も、次第に力強くなってきました。
小さな目、小さな口、すべてのパーツがミニサイズで儚げなのに、この子はしっかり命をもってここにいる。
そのことが、なんだかものすごく大きな事を伝えてくれているように思える日々。

始めのうちは無関心で否定的だった旦那も、その子が回復していくに連れて情が移ったようで、積極的に手伝ってくれるようになりました。
いつもの日常に、新しい色が増えたようです。

すっかり元気になったその子をきちんと我が家の家族として迎え入れる事を決めた日、娘が私にこんな事を打ち明けてくれました。
「お母さん、私、大人になったら動物のお医者さんになるよ」。キラキラ輝く笑顔で、「キラ」と名づけた子猫を抱きながら言う娘。
キラが我が家に来た時、なんの迷いもなく汚れたキラを抱きあげた時の娘の顔と重なりました。
きっとこの子は、その将来の夢を叶えるだろう。その時、大きくなったキラがまだこの家で元気にしていてくれたらいいな。そんな風に思えたのでした。


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看護師さんとの交換日記 [感動]

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結婚ってなんだろう、赤ちゃんを産むってどういうことだろう。
小さい頃、誰もがそんな素朴な疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか。
私もなんとなく親が口ごもって濁してしまうようなこの質問を何度か投げかけ、困らせた経験があります。
自分が結婚するなんて想像も出来ず、その上出産なんてもはや未知の世界。
夢物語のような漠然とした不透明なものでした。

そんな私も二十代の前半に結婚し、その数ヵ月後にはめでたく妊娠することが出来ました。
それも予想外の双子というサプライズ。
家族も友人知人も皆が驚き、祝福してくれました。妊婦さんってこんなに周りに親切にしてもらえるんだ、とびっくりするほど、言い換えれば「腫れ物に触るように」気を遣ってもらっていました。

少しずつ大きくなっていくお腹をさすりながら、まだ見ぬ二人の我が子を想像しては微笑んでしまうような幸せな妊婦生活でした。

ところがある日、異常に気が付いたのです。まだ妊娠23週の時、夜中にお腹の張りと少しの痛みで目が覚めました。
初めての妊娠ですので、これが異常なことなのかもわかりません。
ですが何かあってからでは遅いと、そのまま夜間救急へと向かいました。

結果は「切迫流産」。つまり、流産しかかっているとのことでした。
そのまま緊急入院し、飲み薬と点滴で様子を見ることに。
このときはまだ事の重大さに気付いていなかった私。
数日で治まって退院出来るだろうとばかり思っていました。

ところが二日経ってもお腹の張りは治まらず、内診の結果、「ここ二、三日で産まれてしまうかもしれない」とのこと。
その病院から車で一時間半の場所にある大きな病院へ転院することになったのです。

この時点で、さすがの私も事の重大さに気が付きました。
何がきっかけで破水してしまうか分からないため、排泄用の管を入れ、そのままストレッチャーに乗せられました。
生まれて初めて乗った救急車。自分が乗った救急車のサイレンの音をぼんやり聞きながら、心のどこかで「この子達はダメになってしまうんだろうか」と思いました。
それはすべて、私がどこかで何か間違いを起こしてしまったからなんじゃないかと、酷い自責の念がこみ上げてきました。

到着した大学病院では、産婦人科、小児科、NICUそれぞれの医師や看護師たちが大勢待ち受けていました。
強めの点滴と張りを抑える為の座薬で様子を見ることに。
今、産まれてしまったら、いくらこの病院でも助けることは難しいかもしれない。
そう言われました。私に出来ることは静かに横になっていることと、祈ることだけでした。
それしか出来ない歯がゆさと恐怖は、今思い出しても相当のものでした。


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そんな私の担当看護師になってくれたのは、私よりも若く、まだ新人さんなのではないかと思えるほど可愛らしい女の子でした。
当時の私は色々なことに対して余裕がなく、面会に来てくれた両親でさえも追い返してしまうほどの精神状態でしたので、正直誰が担当看護師でもどうでもいい、と荒んだ気持ちでいました。
こまめに様子を見に来てくれる彼女に対して冷たい態度をとってしまったことも多々あります。

そんなある日、彼女が私に「交換日記」を準備してくれました。
何も書かなくてもいい、毎日交換して、もし何か吐き出したいことがあればここに書いて欲しいと。

起き上がることもままならないのに、そんなことが出来るはずがない、と、何も書かずに渡す日々。
その間、彼女は事細かに私の状況の説明や、お腹の中の双子の様子、先生の見解などを書いてよこしてくれました。

そんな彼女に、私も次第に心を許すようになり、本当はすごく不安だということ、苦しいことをそのノートに書いていきました。

入院してから一度もシャワーを浴びることができず、頭も洗えないままに一ヶ月…。少し状況が落ち着いたところでシャンプーをしてもらうことができました。
もちろんストレッチャーにのったままです。
それでも一ヶ月ぶりの洗髪はとても気持ちが良かったです。

ベッドに寝せられている産まれたばかりの赤ちゃんを見せてもらったり、同じく多胎児妊娠で早くから入院していたというお母さんに会わせてもらったり、私の担当になってくれた彼女は本当にたくさんのフォローをしてくれました。
時には私と一緒に涙を流し、大丈夫、大丈夫と何度も繰り返してくれました。

そして、一ヶ月早くはありましたが、無事に双子の赤ちゃんを出産。
低体重ながら障害も無く、元気な赤ちゃんでした。
旦那、家族のほかで誰よりも早く私のところに駆けつけてくれたのは、もちろん他でもない彼女です。
自分のことのように喜んでくれました。

退院の日、交換日記の最後のページは彼女の明かせなかった気持ちが綴られていました。私がなかなか心を開いてくれずに悩んだこと、私の笑顔が見られたとき、涙が出るほど嬉しかったこと、私の部屋へ行くことが、いつの間にか唯一の楽しみになっていたこと。こんなに私を支え、考え、そして悩んでくれていたことに、改めて感謝しました。
私一人ではきっと乗り越えられなかった三ヶ月の入院生活。
彼女が居てくれたことに、今も心から感謝しています。

あの交換日記は、今でも私の宝物です。


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家族の形 [感動]

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家族。
それは一番自分に身近な存在で、かけがえの無い大切な人たちだというのが一般的な考えなのでしょうか。
「友達親子」「まるで姉妹のような母娘」などというフレーズをよく耳にします。
一緒に買い物に行ったり携帯メールのやり取りをしたり、何でも隠さず話し合うことが出来るような親密な親子関係。
それは、私の目にはとても眩しく、時に羨ましく映ります。それと同時に、少し冷めた目で見てしまうことも事実です。

私の両親は共働きで、小さい頃から両親よりも祖父母によく懐いていた私。
祖父母と一緒に近所の小さなお店に買いものに行ったり畑についていったり、幼稚園バスのお見送りもお迎えも祖母の役目でした。
祖父母に育ててもらったという感覚のほうが強くあるような気がします。
どんな時でも優しく朗らかな祖父母。

そんな二人とは対照的に、いつもなんだかイライラしている母と無頓着な父のことは幼いころからどうしても好きになれずにいました。
必要以上に厳しい母は私の左利きという個性を徹底的に矯正しました。
少しでも左手を使おうとするとものすごい勢いで叱られます。

「お母さんは怖い人。お父さんはいつも家にいない人。」というのが両親に対するイメージとして私の中では出来上がってしまっていました。
その頃、父は建設会社の部長としてしょっちゅう転勤や単身赴任で飛び回っていましたので、一緒に遊んでもらった記憶はあまりありません。
こんなことを言ったら笑われるかもしれませんが、「お父さん」と呼ぶことが出来ない子供だったことを覚えています。

高校生になり、初めて仲の良い友達の家に泊まりに行った時の驚きは今も忘れられません。
家族団らんの賑やかな時間。
皆で同じテレビを見て笑い合っている光景に、軽いカルチャーショックを覚えました。

私の家では、食事が終わればそれぞれの部屋に引っ込んでしまいますし、テレビを見て笑い合うなんて考えられないことだったのです。
もちろん会話もほとんどありませんでしたし、特に私の父親は一言も喋らずご飯を静かに食べているか新聞を読んでいるような人でしたので、友達と彼女のお父さんが冗談を言い合っている姿にはなんだか戸惑ってしまったものです。

「これが普通の家族の在り方なんだ」ということに気づかされ、私ももっと頑張って両親に歩み寄れば、こんな風に楽しい時間を作る事が出来るのだろうか、と、想像してみたりもしました。
でも今更どんなに努力したところできっと何も変わりはしないだろう、という諦めの気持ちが、すぐにそんな私の淡い期待を飲み込んで消してしまったのでした。
もう十数年も、この形が私の家族の姿としてここにあったのだから、それを変えることに力を注いでも意味はないだろうと思ってしまったのです。


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そんな私も高校を無事に卒業し、その後は二年間県外の専門学校に通いました。
初めての一人暮らし、初めての県外での生活。始めは不安だらけで寂しくもありましたが、家族が恋しくなるといったことはほとんどありませんでした。
時々、「じいちゃんばあちゃん元気かな」と、年老いた祖父母を思い出すことはあっても、両親のことを考えることはなかった気がします。

一人暮らしにもようやく慣れてきた頃、突然ふらりと父が私のアパートを訪ねて来た事があります。
なんの連絡もなく唐突にやってきて、「焼肉食べに行こう。」と言うのです。

実家から電車を乗り継いで二時間の距離を、わざわざ焼肉に連れ出す為にやって来たのでしょうか。
というか、考えてみたら、今まで父と二人きりでどこかに行ったことなどありません。
一体父は何を考えているんだろう。
二人で何を話せというんだろう。
色々な思いが私の頭の中を交錯しているうちに、気付いたらもう焼肉屋さんの前でした。

一人暮らしを始めてから節約の為に外食などは控えていましたので、こんな高そうなお店に入るのか!という気持ちと、断ることも出来ずにここまで着いてきてしまったという軽い後悔を胸に入店しました。

思った通り会話が弾むことはなく、ただひたすら焼き肉を口に運ぶ無言の二人。
気まずいという思いしかありません。
何だって急にこの父親はこんな事を思いついたのか、なんだかイライラしてきました。
早く帰りたい、という思いだけで必死に肉を食べていた私にむかって、突然父がポソリと言いました。

「お前が居なくなってから、家は火が消えてしまったみたいだ。」

一瞬、耳を疑ってしまいました。
そんな風に父が思っていたなんて、そんな風に実家が静まってしまっていたなんて。

私がいたっていなくたって、何も変わることはないだろうとばかり思っていました。

父が言うに、祖父母はすっかり気落ちしてしまい、母は少し痩せてしまったそうです。
驚きと、なんだか恥ずかしさと、複雑な思いで返事に困っていると、また父が言いました。

「今日一緒にご飯が食べれて、元気な姿を見ることができて良かった。」

そう言って、また無言で肉を焼き始めた父。
実はこの時まで、専門学校を卒業したらこのまま地元には戻らずここに就職先を見つけようと思っていました。
そんな気持ちがぐらぐらと揺れるきっかけの日になってしまった気がします。

そして今、私は生まれ育った町で介護の仕事に就いています。
慣れ親しんだ風景とそこに住む人たち。そんな町並みを見ながら、時々母と出かけたりしている最近の私なのでした。


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恩師の手紙 [感動]

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高校三年間を陸上に費やしてきた私。
当時は部則が厳しく、色々なことを制約されていました。校則を守ることは大前提であり、スカートの丈、靴下の種類もきっちり守っていました。髪形は常に短髪。少しでも耳に被さるようなら床屋へ直行です。毎朝の体重管理も厳しく、前日の食事内容を事細かくチェックされていました。

青春を謳歌したいこの年頃の私たち、なんと男女交際も禁止されており、男子と話すこともNGでした。挨拶は大きな声でしっかりと、先輩よりも早くグラウンドへ行き、先輩より遅く帰宅しなければならず、荷物持ちは当たり前という世界。それもこれもすべては「勝つ為」でした。

私は幼い頃から足が速く、「オレの遺伝だな」と父は色々な人に自慢していました。誰にも負けることがなかった私、特に努力をしなくても、生まれ持った資質だけで一位を勝ち取っていた中学時代。それがガラリと一変したのが高校に入ったときでした。

まず、自分のレベルの低さを思い知りました。一位で当たり前だった頃が嘘のようです。チームメイトは皆私よりも早く走ることができましたし、いつも努力をしていました。それまでの自分の驕りとレベルに愕然としたものです。それからは、人が変わったように毎日一人で練習しました。部活が終わってヘトヘトの状態でも、欠かさずトレーニングをしました。また一位になりたい。その想いが日に日に強くなっていたのです。努力は才能を上回るのだと信じて、毎日が陸上漬けの日々でした。

そんな努力が少しずつ実り、私の記録もどんどん上がっていきました。試合で優勝、入賞する機会も増え、大きな大会まで駒を進めることも可能になりました。ですが、そんな私にある日、事件が起こったのです。
いつもの練習風景、いつものように走り出した私の足に、突然激痛が走りました。あまりの痛みにその場にうずくまる私。マネージャーやチームメイトに両脇を抱えられなければ足を着くこともままなりません。自分の身に起きた突然の出来事に、私はパニックになりました。奇しくも大きな大会を目前に控えた大事な時期。とにかく急いで受診する事に。診察の結果、「疲労骨折」だということが分かりました。長年の無理と疲れがこのタイミングで表に表れたのです。高校三年、最後の年の最後の大会が、絶望的に思えた瞬間でした。



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医師の診察では、完治までには数ヶ月とのこと。それでは私の最後のシーズンが終わってしまう。なんとかしてくれと泣いて頼みましたが、疲労骨折は時間をかけて骨が自然と修復されるのを待つしかなく、その間走ることはご法度だと言われてしまいました。何の為にここまで努力してきたのか、なぜこの時期にこんな失敗をしてしまったのか。どう頑張っても前向きな考えは生まれてきません。私にとって、それまでの経過が大事なのではなく、重要なのは「記録」であり「結果」でした。それが残せないのなら、もうなんの意味もないと思えたのです。

失意のどん底にありながらも、何とか練習には顔を出していました。ですが、走ることが出来ないのに練習風景をただ見ているだけというのは辛いものがあります。
本来ならあの場に私も居たし、大会に向けて具体的に予想しながら練習していたはずなのです。日に日に私の中には「敗北感」が大きく圧し掛かり、ついには部活に行くことも出来なくなりました。

そんな私を、チームメイトたちがなんとかしようとしている雰囲気が痛いほど伝わってきたのですが、当時の私にはそれを邪険に扱うことしか出来ませんでした。そのまま最後の大会も終わり、私は以後一度もグラウンドに足を踏み入れることなく退部したのです。

退部してから、残りの高校生活はあとわずかでした。
今まで出来なかったことを思う存分やってやろう、陸上で裂かれていた時間を少しでも取り戻そう、と、色々なことをしました。スカート丈は皆と同じくらい短くしましたし、靴下も流行のものを履きました。髪も伸ばしてカラオケや買い物、買い食いなどなど、制約されていたたくさんのことを楽しみました。ですが、楽しいはずなのにどこかで楽しみきれない自分がいるのです。やり残した何かを、いつもどこかに感じていました。

とうとう卒業を間近に控えたある日、チームメイトだった一人が一通の手紙を持ってきました。それは、陸上の監督からの手紙でした。
監督が生徒に手紙を書いたことは初めてだとのこと。あんな形で退部してしまった私に、最後に叱責の手紙なのだろうかと思いながら封を開きました。短いその手紙には、三年間の私の頑張りについて誰もが認めていたこと、最後の大会に出してやることが出来ずに残念だったこと、そして、こんな言葉が書いてありました。「お前は敗者ではなく勝者なのだから、何があっても胸を張って生きろ」。読み終えたとき、色々な想いがこみ上げてきました。

私にとっては結果がすべてだったけれど、最終的にはその三年間のすべてが「私」という人間を作り上げてくれていたのだということに気付かされました。
そして、大会に出る出ないに関わらず、最後まできちんと見届けたかったのだという、本当の気持ちにも気付いたのです。逃げた私を責めることなく追うこともなく、すべてを認めてくれていた恩師に、改めて感謝の気落ちがこみ上げてきました。

そして今、家庭を持った私の子供は陸上をしています。あの頃の私の姿を時に重ねつつ、眩しく思いながら同じグラウンドに送り出しているのです。


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愛犬ムギとの思い出 [感動]

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小さい頃から、「犬が飼いたい」というのが私の夢でした。
私の家には常に2、3匹の猫を飼っている状態だったのですが、犬を飼って一緒に散歩したり、色々なところに連れて行ったりということに対する強い憧れを抱いていたのです。猫の可愛らしさも十分わかっていましたし、猫の気まぐれさや手のかからないところも魅力として好きではあったのですが、やはり犬を飼ってみたいという気持ちは社会人になっても常に心にあったのでしょう。

そんな私は、初給料でついに念願の犬を買おうと決心し、家族の反対を押し切って強硬手段に出たのです。
「世話は私がするから」「お金出すのは私なんだから文句は言わせない」と着々と犬用のアレコレ準備を整えていきました。昔から言い出したら聞かない性格ですので、両親の反対も説得もまったく耳に入りませんでした。

私が選んだその子は、「パピヨン」という種類の犬でした。
ですが、パピヨン独特の顔にあるべき左右対称の柄が無かった為に血統書がつけられず、ブリーダーさんもその子の事をどうするべきか考えているようでした。血統書がつかない=雑種扱いになるのかは私には分かりませんでしたが、だからといってその子の存在価値が変わるとも思えませんでしたので、迷わずそのパピヨンを譲り受けることに決めたのです。

「ムギ」と名前を付けたその子は元気な男の子で、我が家にやってきたその記念すべき第一日目、一番反対していた父の胡坐の中に丸くなって眠るという攻め方をして無事に父のハートを射抜き、その可愛らしさと愛嬌ですんなり家族の一員となったのでした。
白い体に茶色い模様、ふさふさした尻尾を振りながら我先にリードを引っ張って走る様子は、まるで私たち人間の方が散歩に連れて行ってもらっているようでした。

そんな風に一緒に過ごしているうちに、あっと言う間に3年の月日がながれました。その間に私は結婚、出産をして実家を離れていたのですが、たまに帰ったときに喜んで寄ってくるムギを邪険に扱うようになっていました。まだ1歳にも満たない我が子にムギが寄ってくるのを見て、「ばい菌がついちゃう!」と追い払ったこともありました。この頃の私のムギに対する対応は、後悔してもしきれないほど酷い扱いだったと思います。
なぜあんなに大好きだったムギのことを汚いと思ってしまったのか、邪魔者扱いしてしまったのか。駆け寄ってきたムギをなぜ抱いてあげなかったのか。
あの頃に戻ってもう一度抱きしめてあげたいと、今更ながら思います。まさかそのすぐあとに、ムギが病気で倒れてしまうなんて思いもしなかった私は、たくさんの後悔を残してきてしまったのです。


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ある日、ムギが脳の病気に侵されていることがわかりました。
先生曰く、おそらく先天的にこの子がもっていた病気で、それが今のタイミングで暴れだしたのだろうとのことでした。顔にパピヨン独特の模様がないこともそれが理由かもしれないと。気づくのが早くても遅くても、この子が助かる道はなく、発症した途端にその病気はものすごいスピードでムギを蝕んでいきました。
あっという間に立てなくなり、ご飯も食べることが出来なくなり、横たわって息をしているだけのムギ。

ある日、母親から私の携帯に電話がきました。「もうムギは長くないかもしれない。会いに来てやって」と。こんなに早くその時がくるなんて信じられない思いのまま、私はムギに会いに行きました。泣きながら家にたどり着くと、ムギはダンボールに入れられていました。弱々しく息をしているムギに、母が声をかけました。
「ほらムギ、お姉ちゃんが来たよ。」すると、もうずっと立つことが出来なかったムギが、ダンボールの中で立ち上がったのです。小さく尻尾を振って、潤んだ瞳でしっかりと私を見つめています。そんなムギの姿を見て、私たちは全員声をあげて泣きました。後悔と寂しさと、生きてほしいと言う祈りの涙を流しました。
ちゃんと世話をするからと決めたのは私、家族に迎え入れたのも私。なのに、一番ムギを遠い遠い存在にしてしまった私。そんな私に、どこまでも大きな信頼を寄せてくれる。これが「犬」なのだと、これが「命」なのだと思いました。

ほどなくして、ムギは静かに息を引き取りました。病院で数日間点滴をうけ、もうこれ以上苦しませたくないと、その管を引き抜いた数秒後のことだったそうです。硬くなったムギを箱に入れて、体の周りにはムギが好きだったおもちゃやお菓子を入れてあげました。最後に母が、ムギの体に香水をひと吹きふりかけました。海外製のその香水を日本語に直すと、「私はまた戻ってくる」という意味なのだそうです。いつかまた戻ってきて欲しい、きっとまた会えるその日を待っているよ。そんな思いで、庭の木の下にムギを埋めてあげました。
今も静かにその木の下に眠るであろうムギを、時々ふと思い出します。またいつか出会えたら、今度はもっともっと一緒に居ようね。そんな風に思います。


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水槽の住人 [感動]

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息子の翔が小学校5年生の頃の話です。

季節は夏の盛りでした。

近所の夏祭りの縁日で金魚すくいをやっていました。
ビニール製のプールの周囲には翔とほぼ同世代の子供たちが陣取り、
金魚を手に入れるために必死でした。
ヨーヨー釣りや射的とはまた違う独特の緊迫感がその一帯にただよっていました。

ある子は口を開けたまま、ある子は意味不明な言葉を口にしながら、
それぞれ独自のやり方で、狙った金魚を追いかけます。

見ていると、上手な子と下手な子に二分されているようです。
しかも後者が圧倒的に多いです。

上手な子は水に入れるタイミング、角度、水中での滞留時間をうまく計算しています。
一枚の紙で三匹ほど取っていく子もいます。

翔はしばらくその様子を見ていました。
そして私を見上げると、告白するような眼差してこういいました。

「ぼくもやってみたい」
「これやんの?金魚ほしいの?」

わが家では金魚を飼ったことがありません。
というか生きものを飼ったことがありません。
私も翔も生きものが嫌いではないですが、妻が苦手なのです。
虫や魚、鳥、猫、犬に至るまで毛嫌いするのです。

もし翔が金魚を獲得したらどうしよう、と一瞬ためらいました。
金魚をわが家に持ち込んだときの妻の表情が目に浮かぶようです。

でも他の子どもたちの様子を見ていると、そう簡単に取れるものでもなさそうです。
金魚すくい未経験の翔が成功する確率はほぼゼロに近いでしょう。
財布から参加費の100円を取り出すと、足を広げてデンと構えた人の良さそうな
おじさんに渡しました。

すでに子どもたちはまばらになっており、翔をふくめて2〜3人しかいませんでした。

水色のプールの中では、朱色の金魚が同じ方向にすいすい泳いでいます。
これを取るのは至難のわざだろうなと思いました。
私でも取る自信はありません。

案の定、翔は負けました。
金魚たちは、まともな勝負をさせてくれませんでした。
翔は一度も金魚をすくっていません。
水の中でむやみに紙を動かした結果、破れたのです。

残念な顔をする翔。

「帰ろうか、翔」

するとおじさんがニコッと笑って
「残念賞あげよう」
と金魚を一匹救うと、透明のビニール袋に水と一緒にいれました。

時間も押してきて少しでも金魚をさばいてしまいたいと思ったのでしょうか。
他の子供たちにも「残念賞」を授けていました。

金魚すくいをやったのも、金魚を持ち帰るのも生まれて初めての体験です。
その瞬間、童心に還ったのかもしれませんが、私も不思議な喜びを感じました。

妻も驚くだろうな、と思いました。
また別の意味で。

「金魚もらってきてどうすんの?」

 開口一番その言葉。そして予想通り困惑した顔。

「うち水槽ないのよ。餌もないわ・・・わかってるの?」

金魚すくいの「残念賞」を手に入れて凱旋帰宅したつもりの翔も、
母親の意外な反応に肩を落としていました。

「まあそういうなよ。明日買ってくるよ金魚グッズ。翔、明日買いに行こうな」
「金魚一匹のためにどれだけお金がかかるのかしら」

妻の気持ちもわかります。
私と翔は、金魚を持って帰った先のことを何も考えていませんでした。
それから先、どう飼っていけばよいのかなど頭にありませんでした。

翌日、小型の水槽と水草、砂、エアーポンプ、餌を買ってきました。
激安の量販店で買ったのですが、それでも全部で4千円ほどかかったと思います。

「水は水道水じゃだめらしいよ。本当は一週間ほど空気にさらしてから水槽に
入れた方がいいらしい」
 砂で遊ぶ翔にむかってそういいました。
「一週間も待てないよね」
「昨日もらってきた水を混ぜるか。そしたら多少はいいだろう」

ひと通り金魚が暮らす環境ができ上がり、その新居の住人を水槽の中に
放しました。金魚は戸惑いながらも、尾びれをせわしく振りながら、あちこち泳ぎ回りました。

餌をあげてみたり、エアーポンプの位置を変えてみたり、二人でしばらく水槽の中を
観察しました。


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それからネットで調べ、カルキ抜きの薬を使えば金魚によい水質をすぐに作れる
ことが分かりました。でもそのことに気づいたのはすでに夜中。
翌日は会社だったので、妻に頼むしかありませんでした。

「なんで私がそんなもの買いに行くわけ?」

最初は渋っていた妻も、それがないと金魚は死ぬかもしれないとわかると、OKしました。

「じゃあ、今日お願い」
「なんだっけ・・・カル・・・カル」
「カルキ抜きだ」

翌朝出社するとき念を押しました。

金魚との同居が始まりました。
わが家に生きものが加わったのはかつてなかったことです。

たぶんこうなるんじゃないかな、とは思いましたが、想像した通りになりました。
金魚の世話は妻の役目になりました。

翔はほぼ金魚への関心を失くしていました。
最初のうちは餌をがむしゃらに食べる様を物珍し気に見ていましたが、
だんだん水槽に近づかなくなりました。

私も平日は終日家にいないので、金魚と水槽の管理は自ずと妻に回ってきます。

「もう・・・だから嫌だったのよね。絶対こうなると思った。なんで私が金魚のお世話を
しなきゃいけないわけ?」

文句をいいたい気持ちはよくわかりますが、しかたのないことです。

「掃除は休日に僕がやるからいい。餌だけあげて、餌だけ」

そう宣言したはいいですが、私も翔のことを攻められない立場になりました。
水槽の掃除はなかなか厄介で、あまり積極的にはなれませんでした。

「結局掃除も私がやるのね」

金魚の世話はすべて妻の仕事になってしまいました。

翔も私も金魚への関心を失くしていきました。
妻も水槽が汚れてどうしようもなくなるまで放置し、必要最低限の手入れしかしなくなりました。
餌は毎朝、機械的に放り込むだけでした。
金魚は薄汚れた水の中で、与えられた餌をぱくぱくと機械的に口にしました。

家庭内別居ではないですが、家の中に水槽という赤の他人の住居があるようでした。

金魚に異変が起きたのは秋も深くなった頃です。

会社に妻からメールが来ました。

「金魚が大変。これ病気だわ」
「どうしたの。どんな風に変なの」
「お腹を上にむけてじっとしてる」
「死んでるの?」
「呼吸してるから、生きてる」

それから金魚のことが気になってしかたありませんでした。
まるで家族の一員が病にかかったような気になりました。

転覆病、という金魚の病気があるらしいです。
お腹を上に向け、まともに泳げず、餌も積極的には食べなくなりました。
エアポンプの振動でできた水流に身を任せ、ゆらゆら漂っているだけでした。
もはや金魚には見えませんでした。

妻はあらゆる努力をしたようです。
水を変えたり、水草を増やしたり、ペットショップのお兄さんに相談したり、
なんとか小さな命を回復させようと必死だったようです。
考えてみたら金魚に一番近いところにいたんですからね。

水槽を覗きこみ、お腹を上に向けてゆっくり口をぱくぱくさせる金魚を見つめ、
「よしよし、よしよし」
と子どもをあやすような声をかける妻でした。

金魚が死んだのはそれから一週間後です。

朝水槽を見ると、砂の上に静かに身を横たえていました。
ときどきゆらゆらとひれが揺れますが、それは水の流れによるものです。
金魚の命は、もうそこにはありません。

「だから嫌なのよね、生きものは。死んじゃうから」
少し涙を浮かべる妻。

「かわいそうに・・・金魚の知識がない人間に飼われて不幸だったわね」

翔は水槽の中を神妙な目でじっと見ていました。

金魚は水の生きものだから土に埋めるのでなく水葬がいいだろうということになって、
翔と一緒に近所の川に葬りました。

金魚はぽちゃんと音をたてて水に沈み、姿を消しました。

たとえ一匹のお祭り金魚でも、いったん飼ってしまえば情が移ってしまうことを知りました。関心がなくても、知らずしらず家族のようになっていくのですね。

「もう二度と生きものは飼わないからね」


生きものを毛嫌いする心理の底には、生きものに対する深い愛情があるのかもしれません。

からっぽになった水槽と金魚グッズはベランダに置いてありますが、
ときどき強めの風が吹くと、カッタンカタカタと愛嬌のある音を立てます。

その音を聞くと、あの金魚が楽しそうに遊んでいるような気になるから不思議です。


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