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水槽の住人 [感動]

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息子の翔が小学校5年生の頃の話です。

季節は夏の盛りでした。

近所の夏祭りの縁日で金魚すくいをやっていました。
ビニール製のプールの周囲には翔とほぼ同世代の子供たちが陣取り、
金魚を手に入れるために必死でした。
ヨーヨー釣りや射的とはまた違う独特の緊迫感がその一帯にただよっていました。

ある子は口を開けたまま、ある子は意味不明な言葉を口にしながら、
それぞれ独自のやり方で、狙った金魚を追いかけます。

見ていると、上手な子と下手な子に二分されているようです。
しかも後者が圧倒的に多いです。

上手な子は水に入れるタイミング、角度、水中での滞留時間をうまく計算しています。
一枚の紙で三匹ほど取っていく子もいます。

翔はしばらくその様子を見ていました。
そして私を見上げると、告白するような眼差してこういいました。

「ぼくもやってみたい」
「これやんの?金魚ほしいの?」

わが家では金魚を飼ったことがありません。
というか生きものを飼ったことがありません。
私も翔も生きものが嫌いではないですが、妻が苦手なのです。
虫や魚、鳥、猫、犬に至るまで毛嫌いするのです。

もし翔が金魚を獲得したらどうしよう、と一瞬ためらいました。
金魚をわが家に持ち込んだときの妻の表情が目に浮かぶようです。

でも他の子どもたちの様子を見ていると、そう簡単に取れるものでもなさそうです。
金魚すくい未経験の翔が成功する確率はほぼゼロに近いでしょう。
財布から参加費の100円を取り出すと、足を広げてデンと構えた人の良さそうな
おじさんに渡しました。

すでに子どもたちはまばらになっており、翔をふくめて2〜3人しかいませんでした。

水色のプールの中では、朱色の金魚が同じ方向にすいすい泳いでいます。
これを取るのは至難のわざだろうなと思いました。
私でも取る自信はありません。

案の定、翔は負けました。
金魚たちは、まともな勝負をさせてくれませんでした。
翔は一度も金魚をすくっていません。
水の中でむやみに紙を動かした結果、破れたのです。

残念な顔をする翔。

「帰ろうか、翔」

するとおじさんがニコッと笑って
「残念賞あげよう」
と金魚を一匹救うと、透明のビニール袋に水と一緒にいれました。

時間も押してきて少しでも金魚をさばいてしまいたいと思ったのでしょうか。
他の子供たちにも「残念賞」を授けていました。

金魚すくいをやったのも、金魚を持ち帰るのも生まれて初めての体験です。
その瞬間、童心に還ったのかもしれませんが、私も不思議な喜びを感じました。

妻も驚くだろうな、と思いました。
また別の意味で。

「金魚もらってきてどうすんの?」

 開口一番その言葉。そして予想通り困惑した顔。

「うち水槽ないのよ。餌もないわ・・・わかってるの?」

金魚すくいの「残念賞」を手に入れて凱旋帰宅したつもりの翔も、
母親の意外な反応に肩を落としていました。

「まあそういうなよ。明日買ってくるよ金魚グッズ。翔、明日買いに行こうな」
「金魚一匹のためにどれだけお金がかかるのかしら」

妻の気持ちもわかります。
私と翔は、金魚を持って帰った先のことを何も考えていませんでした。
それから先、どう飼っていけばよいのかなど頭にありませんでした。

翌日、小型の水槽と水草、砂、エアーポンプ、餌を買ってきました。
激安の量販店で買ったのですが、それでも全部で4千円ほどかかったと思います。

「水は水道水じゃだめらしいよ。本当は一週間ほど空気にさらしてから水槽に
入れた方がいいらしい」
 砂で遊ぶ翔にむかってそういいました。
「一週間も待てないよね」
「昨日もらってきた水を混ぜるか。そしたら多少はいいだろう」

ひと通り金魚が暮らす環境ができ上がり、その新居の住人を水槽の中に
放しました。金魚は戸惑いながらも、尾びれをせわしく振りながら、あちこち泳ぎ回りました。

餌をあげてみたり、エアーポンプの位置を変えてみたり、二人でしばらく水槽の中を
観察しました。


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それからネットで調べ、カルキ抜きの薬を使えば金魚によい水質をすぐに作れる
ことが分かりました。でもそのことに気づいたのはすでに夜中。
翌日は会社だったので、妻に頼むしかありませんでした。

「なんで私がそんなもの買いに行くわけ?」

最初は渋っていた妻も、それがないと金魚は死ぬかもしれないとわかると、OKしました。

「じゃあ、今日お願い」
「なんだっけ・・・カル・・・カル」
「カルキ抜きだ」

翌朝出社するとき念を押しました。

金魚との同居が始まりました。
わが家に生きものが加わったのはかつてなかったことです。

たぶんこうなるんじゃないかな、とは思いましたが、想像した通りになりました。
金魚の世話は妻の役目になりました。

翔はほぼ金魚への関心を失くしていました。
最初のうちは餌をがむしゃらに食べる様を物珍し気に見ていましたが、
だんだん水槽に近づかなくなりました。

私も平日は終日家にいないので、金魚と水槽の管理は自ずと妻に回ってきます。

「もう・・・だから嫌だったのよね。絶対こうなると思った。なんで私が金魚のお世話を
しなきゃいけないわけ?」

文句をいいたい気持ちはよくわかりますが、しかたのないことです。

「掃除は休日に僕がやるからいい。餌だけあげて、餌だけ」

そう宣言したはいいですが、私も翔のことを攻められない立場になりました。
水槽の掃除はなかなか厄介で、あまり積極的にはなれませんでした。

「結局掃除も私がやるのね」

金魚の世話はすべて妻の仕事になってしまいました。

翔も私も金魚への関心を失くしていきました。
妻も水槽が汚れてどうしようもなくなるまで放置し、必要最低限の手入れしかしなくなりました。
餌は毎朝、機械的に放り込むだけでした。
金魚は薄汚れた水の中で、与えられた餌をぱくぱくと機械的に口にしました。

家庭内別居ではないですが、家の中に水槽という赤の他人の住居があるようでした。

金魚に異変が起きたのは秋も深くなった頃です。

会社に妻からメールが来ました。

「金魚が大変。これ病気だわ」
「どうしたの。どんな風に変なの」
「お腹を上にむけてじっとしてる」
「死んでるの?」
「呼吸してるから、生きてる」

それから金魚のことが気になってしかたありませんでした。
まるで家族の一員が病にかかったような気になりました。

転覆病、という金魚の病気があるらしいです。
お腹を上に向け、まともに泳げず、餌も積極的には食べなくなりました。
エアポンプの振動でできた水流に身を任せ、ゆらゆら漂っているだけでした。
もはや金魚には見えませんでした。

妻はあらゆる努力をしたようです。
水を変えたり、水草を増やしたり、ペットショップのお兄さんに相談したり、
なんとか小さな命を回復させようと必死だったようです。
考えてみたら金魚に一番近いところにいたんですからね。

水槽を覗きこみ、お腹を上に向けてゆっくり口をぱくぱくさせる金魚を見つめ、
「よしよし、よしよし」
と子どもをあやすような声をかける妻でした。

金魚が死んだのはそれから一週間後です。

朝水槽を見ると、砂の上に静かに身を横たえていました。
ときどきゆらゆらとひれが揺れますが、それは水の流れによるものです。
金魚の命は、もうそこにはありません。

「だから嫌なのよね、生きものは。死んじゃうから」
少し涙を浮かべる妻。

「かわいそうに・・・金魚の知識がない人間に飼われて不幸だったわね」

翔は水槽の中を神妙な目でじっと見ていました。

金魚は水の生きものだから土に埋めるのでなく水葬がいいだろうということになって、
翔と一緒に近所の川に葬りました。

金魚はぽちゃんと音をたてて水に沈み、姿を消しました。

たとえ一匹のお祭り金魚でも、いったん飼ってしまえば情が移ってしまうことを知りました。関心がなくても、知らずしらず家族のようになっていくのですね。

「もう二度と生きものは飼わないからね」


生きものを毛嫌いする心理の底には、生きものに対する深い愛情があるのかもしれません。

からっぽになった水槽と金魚グッズはベランダに置いてありますが、
ときどき強めの風が吹くと、カッタンカタカタと愛嬌のある音を立てます。

その音を聞くと、あの金魚が楽しそうに遊んでいるような気になるから不思議です。


金魚.jpg


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大切なお父さんに出会った日 [感動]

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私はお父さんの気持ちをまじめに考えていなかったかもしれません。
その存在を真っ向から感じていなかったかもしれません。
それが少し悔やまれます。

夜遅く会社から帰ってくると、
「ただいま」
といって静かにお風呂に入り、お母さんが用意した夕飯を一人で食べ、
ビールを飲みます。お母さんは雑事で忙しいので、いっしょにテーブルに座って
相手をするようなことはほとんどありません。テーブルの横を右へ左へ歩きながら
断片的な会話をするだけです。

「もっと食べる?イカフライ」
「いや、今日はあまり食欲ないから」

お父さんはときどきテレビ画面に目を向けて気になるニュースをチェックしますが、
あとはもさもさと口を動かしビールをすすりながら新聞を読んでいます。

私立の女子高に通う私は試験勉強で忙しく宿題もたくさんあるので
その時間帯は居間の隣の部屋で勉強です。

「お父さんお帰りなさい」
「ああ、ただいま」

一息入れにテレビの前に来ると、お父さんはソファで文庫本を読みながらウイスキーを
飲んでいます。テレビの前にいるくせにテレビは見ていません。

私が隣に座ると、ああ、もうこんな時間か、みたいな顔をして、栞を本に挟みます。
いつもだいたい23時すぎに休憩をとるので、私が時計代わりになっているのだと思います。

「美鈴、勉強大変か」
「けっこうね」
「肩揉んであげようか」
「じゃあちょっとお願い」

お父さんの肩揉みは上手なのか下手なのかわかりません。
ただ指の力が強いだけなのかもしれません。
肩の壺に一気に迫ります。

「痛っ・・・もういい、もういい」
「じゃあ寝るから。勉強無理すんなよ」
「今無理しないとあとで後悔するから」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 あくびしながら寝室に行く静かな背中。
 
朝は誰よりも早く起きて自分でご飯食べて出かけるので、
私がお父さんを見かけるのは、夜のひとときだけです。

休日は基本、家族に予定を合わせてくれます。

買い物に行くことになると、車の運転をしてくれます。
重い荷物は積極的に持ってくれます。
何時まででも付き合ってくれます。

いつだったか郊外のアウトレットモールに出かけたときでした。
可愛いブラウスを探していた私は、お母さんと一緒にとある専門店に
入りました。

「お父さん、いっしょに来る?」
「いやいや。そこのベンチで待ってるよ」

店の前のベンチで、むこうを向いて座りました。

20分くらいそのお店にいたでしょうか。
これといったものが見つからず、他の店を探すことにしました。
人気店なのでお客さんが多く、人波に流されてお父さんから離れてしまいました。

「お父さんに声かけたほうがいいんじゃない」
と母にいいました。

「大丈夫じゃない?わざわざ移動してもらうのもね。あまり意味がないというか」
「そうね、そこにいてもむこうにいてもあんまりかわらないもんね」

お父さんは文庫本を読んでいます。

私とお母さんは別の店を数軒回り、またもとのお店に戻り、お父さんのベンチに
近寄りました。あれから50分ほどたっています。


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「時間かかったな。服は買ったのか」
「うん。ほら」

明らかに違うお店のロゴマークが入った買い物袋を見せると、
「ここはお客さんが多いから、買うのもひと苦労だな」
と微笑みました。

私はお母さんと目を合わせてくすっと笑いました。

5月の連休、つつじを見に行きました。
いたるところにつつじが咲く遊歩道があって、花好きにはたまらない公園でした。
陽光も風も爽やかで、ぜっこうの散策日和でした。

三人でお弁当を食べた後、ちょっと遠くまで歩いてみようと母がいいました。
その日は母もスニーカーとパンツルックではりきっています。

「お父さんはどうする?」
「ここで待ってるよ、荷物もあるしな。それに、最近ちょっと腰と背中が痛くて」
「毎日お疲れだもんね。ゆっくり休んでて」

とお父さんの背中にそっと触れると、母と一緒に歩きだしました。
お父さんお背中は汗ばんでいました。
しばらく歩いて振り向くと、いつもの文庫本を読んでいました。

一時間ほど歩きまわって戻ってくると、お父さんは空を見ていました。
閉じた文庫本を膝の上に置いて、寂しそうな目で空を見ていました。

「お父さん、どうしたの?」
 そう声をかけると笑顔が戻ります。

「ちょっと歩けば気分も変わるんじゃないかしら」
 とお母さん。

「人ごみが苦手だからね」

疲れているな、って思いました。
顔色もそんない良くなかったと記憶しています。

お父さんが胃がんになって入院することになったのは
それから2週間後のことでした。
胃の具合が悪くて病院で検査してもらったら、悪性の腫瘍が見つかったのです。
幸い初期のもので他臓器への転移もなく、手術で根治可能とのことでした。

これには私もお母さんも強いショックを受けました。
お父さんの存在が急に大きなものに見えたのです。
それはとてつもなく大切なものだったのです。
それはまるで空気のようにそこにあって、私たちは漫然とその恩恵に
すがっていました。当たり前のように。

ふだん私たちは空気を意識しないですよね。
当たり前のように呼吸しています。

でもその空気がなくなったらどうなりますか?
待っているのは死です。

入院して、精密検査待ちの父がベッドに横になっています。

「美鈴、お父さんにもしものことがあったら、母さんを頼んだぞ」

なんて弱気な顔をする父。
少し笑みが混じっているので冗談半分だとは思いますが、そこにいられなくなって
トイレに入って涙ぐみました。

お父さんが死ぬなんて、考えられない。
絶対生きていてほしい。
目立たなくていいから、特別なことしてくれなくていいから、一緒にブラウス選んでくれなくていいから、ウイスキー飲んで、文庫本読んでていいから、そばにいてほしい。
そばにいてくれたら、それだけでいい。

手術は成功しました。
日々元気を取り戻しています。
顔色も良くなりました。

退院してきたお父さんとどんなことしようか。

もう少し時間をかけて肩を揉んでもらいたいな、なんて考えています。


父親.jpeg


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母の日のお返し [感動]

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「お母さん、どんなものが喜ぶかしら」

GWに入ったある日、美子と二人で東京駅近所の百貨店に足をのばした。
美子は職場の同僚だが、その年の3月下旬に結婚を約束した仲だ。

美子は私の母への贈り物を考えているようだ。
連休が明けると、すぐに母の日が来る。

交際を始めたのは半年前。
人事異動で彼女がチームに加わり、意気投合した。
お互い30歳を過ぎており、最初から結婚を意識していた。

「私、結婚しても仕事続けたい人だから」

聞いてもいないのに、2度目のデートでそんなことをいった。

理系の大学を卒業し、システム開発の現場でばりばり仕事をする彼女。
人柄も良く、顧客からの評価も高い。順当にいけば管理職も夢ではない実力派女性である。

「城見さんと一緒にいると、気持ちがなごむんです」

彼女は私に癒しを求めているようだ。
かつての日本では、夫の疲れを妻が癒すという夫婦構造が一般的だったと思うが、
現代ではそうではないらしい。
家事を分担し合うのは当然のこと、お互いに癒し癒され合わなくてはならない。
夫婦は完全に平等なのだ。

ところで結婚を約束したといっても、結納や指輪を交わしたわけではない。
口約束だ。
だがそれで十分なのだと美子はいう。

「お互いの気持ちがしっかりしていれば大丈夫よ。結納とかエンゲージリングも大切なんでしょうけど、そんな形ばかりにこだわって安心するより、私はもっと深い信頼が欲しいの」

新しい夫婦のかたちがここにあるのかもしれない。
美子は婚姻届すら出さないかも。
さすがとそれはないと思うが、そんなことをまじめに想像したりする。

母の日ギフトコーナーを訪れるのは、もともと美子の計画にあったようだ。
大きな百貨店に行ってみたいというから、自分の服やバッグを見るのかと思いきや
そうではなかった。

「これも気持ちが大事なのよね。高いもの贈ればいいってもんじゃないわ」
「そうだそうだ。安物でいい。贈らなくてもいいくらいだ」

照れくささからそういったのだが、「贈らなくてもいい」といったのには明確な理由があった。

「結婚を約束したからよろしくだなんて、おままごとじゃあるまいし。物事には順番があるでしょう」
親に美子のことを打ちあけた日のこと、母が目をつりあげた。
母としては、ちゃんと段階を踏んで結婚の話をしてもらいたかったようだ。
恋人として紹介を受け、結婚したいむね相談を受け、息子の嫁にふさわしいか、自分の義理の娘として問題ないか見極め、先方の両親とも話をし、結納の席を設け正式に婚約。
そういう昔ながらの流れを期待していたようだ。

いきなり結婚を約束した女性の話をされても困るというわけだ。

「まあ、一番大事なのは当事者同士の気持ちだからな。雄一がいいというんならそれでいい」

父は寛容だったし、母に比べればまだ頭が柔らかい。
会社人としてはまだ現役であり、若い世代とも交流する機会があるせいかもしれない。

だが昔ながらのやり方で父の妻となり、爾来主婦として生きてきた母には、自分が経験した嫁入り作法以外ありえないと考えている。

「母さんはね、雄ちゃんの結婚、反対しないけど賛成もしないからね」
「おいおい澄美子。そんないい方するなよ」
 と父。
「理工学部を出て毎日コンピュータいじってる女に家事ができるの?」
 女なのに、女への偏見を持っている母だった。 

それから父と酒を飲んだが、
「可愛いひとり息子をよその女に奪われるのがお気に召さないだけだ」
と父が耳打ちするようにいった。

だから母の日のプレゼントが、今の母を喜ばせるとはとても思えない。
逆効果になる可能性もある。
「正式に」結婚するまでは、赤の他人でいたほうが無難な気もする。

美子が選んだのは帽子だった。
紺色でつばが広く、後部にケープがついているお洒落なデザインで、
いちおうブランドのロゴ名がついている。

値段は張るが
「私の気持ちだから」
と美子がいった。


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贈り物は彼女を自宅に招いた際、一緒に手渡した。

母は美子に軽く頭を下げただけで、ほとんど視線を向けなかった。
贈り物へのお礼も美子でなく私にいった。

「こんな素敵なお帽子、自分では買えないわ」

と私に満面の笑みをむけた。

美子がうつむき加減になった。
テーブルの下で、そっと手を握ってあげた。

母の日から数日がたった。

「私のこと嫌いなのかしら」

パブのカウンターでダイキリを傾ける美子。
酒は何でも飲むが、特にカクテルが好き。

「意地をはってるだけだ。君とはりあってるんだ」
「私とはりあう?」
「そのうち負けを認めて降参するさ」
「あのね・・・私ね。雄一さんのご両親と同居してもいいと思ってるのよ」

これには驚いた。
いまどき珍しい選択だと思う。
それだけ私を信頼し愛しているということか。

さっそくそのことを母に話した。
他でもない美子の意思であることも伝えた。

結婚したら同居してもらいたいようなことを昔いっていたから、
きっと喜ぶだろう思った。

しかし母は、口先をゆがめて

「ふんっ!・・・点数稼ぎね。その手には乗らないわよ」

とふて腐れたいいかたをした。

「お父さんも母さんもね。まだまだ元気で若いんだからね」

どこまで意地をはり続けるのだろう。

私の母に食べさせたい料理があるといい、美子が夕食をともにしたいといった。
何週間か前から料理の研究を始め、腕もだいぶあがったとか。
料理は不得意だが、楽しさがだんだんわかってきたとか。

美子を自宅に招いて、披露してもらうことになった。

「痛っ!」

包丁を流し台に落とす音がした。

「どうした?・・・大丈夫?」

左手の人差し指を切っていた。鮮血が指を伝った。

「気を付けないと!・・・・あわてて切るからそうなるのよ」

と脱脂綿と絆創膏を持ってきた母が注意する。

「すみません。最近怪我ばっかりで」
「ほかの指も傷だらけじゃない・・・」
「なれないもので」
「あわてたらだめよ、包丁は」
「すみません」

2週間ほどして、母から電話が来た。

母の日のお礼がしたいという。

「久しぶりに家族で温泉でもどうかしら。東北あたりに」

温泉は嫌いじゃないが、東京に美子ひとり残して東北旅行にでかけるのはいかがなものか。

「気持ちはうれしいけど」
「美子さんの都合も聞いておいて」
「え・・・・?いいの?」
「あの帽子、雄ちゃんが選んだとはとても思えないから」

私の家族に美子も加えて山梨県の温泉に一泊の旅をした。

母は相変わらず勝気な態度をくずさなかったが、
東京に戻る車の中で、美子にむかって話しかけた。
珍しく優しい口調だった。

「同居なんてばかなこと考えなくていいからね。あなたの本当の希望を優先させなさい」
「お母さん・・・・」

美子がハンカチで鼻の下をおさえた。

「それと雄一は放っておくと偏ったものばっかり食べるから。
美子さん、しっかりとお願いしますね」

家族が「正式に」一人増えた瞬間だった。


帽子.jpeg


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タグ:感動 結婚
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働きに出た妻 [感動]

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比較的安定していた家庭生活が暗転したのは暮れもおしせまった頃だった。

私は部長から連絡を受け、会議室に呼ばれた。
伝えておきたいことがあるという。

もしかしたらそんなことがあるかもしれないと考えたことはあったが、
それは取り越し苦労に過ぎないとも考えていた。
まさか管理職から外されることはあるまい。
会社がそんな冷たいことをするとは思えない。
この会社は人を大切にする会社で通っている。

しかしそれは現実のものとなった。

がらんとした会議室で部長と二人。

「残念なことになった」

部長の第一声ですべて理解した。
それから先は聞く必要はなかった。

リーマンショックに端を発する不況で、ユーザーの投資控えが顕著になったのは
半年前のこと。
それまで私が手がけていたA社の第五次システム開発計画もゼロベースでの見直しとなった。事実上A社との取引がなくなり、プロジェクトは解散した。

「うちの会社では、役職は役割に付くのであって、人に付くのではない。これはわかっているね。プロジェクトがなくなれば、それを束ねる課長も不要になる。すなわち君も課長ではなくなる。これはとても単純な論理だ」

開いたノートに意味もなく
「役割」
と書いて○で囲み、その○を幾重にも書き加えた。

「来年からは一般職になるので内々に伝えておく。
人事からは来年早々にも通達があると思う」

頭をかいた。

「質問は」
「いえ。特に」

今さら何をいっても無駄だった。
部長に文句をいったところで、また会社の人事制度に異議をとなえたところで
それは愚痴にしかならない。

会議室を出るとめまいがした。
とんでもないことになったと思った。

どのくらい年収に影響が出るのだろう。
頭の中で計算しようと試みたが、空回りしてうまくいかない。
冷静にそろばんをはじく余裕がない。
屋上に出て、止めていた煙草を吸った。

「いくら年収が下がるの?」
その夜、寝室で妻に打ちあけたらすぐにその質問が来た。

「100万から150万円くらいかな」

「そんな・・・」

妻が視線をベッドに落とした。
彼女もすぐにはそろばんをはじけない様子だった。

「年収はどのくらいになるの」
「ざっと計算すると、680万くらいに落ちる」

「ははは・・・680万の生活をするしかないわね」

妻が少し明るい顔をしたので救われた気がした。
「ごめん。迷惑かける」
といって細い肩をだいた。

しかし妻の前向きな笑顔に甘んじている場合ではなかった。
打開すべき問題はいくらでもある。

まず娘の学費をどうするか。
高校は私立の女子高に行きたいといって、ずっと私立型の受験勉強を
続けてきた。いまさら志望を公立に変えてくれなどといえない。
そもそもこの時期になって方向転換などできるはずもない。
来年早々には受験が始まるのだ。

マンションのローンをどうするか。
月々の返済はどうなるか。払えるのか。

来年は車検だが、もう8年も乗っているので新車に変えようと思っていた。
その計画を見直すかどうか。

数日たった夜、妻が静かな顔で一枚の紙を私に差し出した。
A4サイズの白紙に、計算結果が書かれていた。
左上の書きだしは丁寧な字だが、書き進むにつれて、殴り書きになっていく過程が
うかがわれた。

「完璧に赤字になるわ。何度計算しても同じ。何度やり直しても」

楽観的な顔はすでになかった。
目には涙さえ浮かべていた。

「残業すれば何とかなるさ・・・残業代出るから」
「残業なんてできるの?今時生活残業なんて認められるわけないでしょう?」

正論だった。



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「有希はどうなるの?・・・私立に行けるの?3年間学費払えるの?」

さしせまった問題はそれだった。

「私が働くしかないわね」

静かにいった。

策はそれしかないと思う。
でも現実問題として彼女に労働が可能だろうか。

彼女に社会人経験はない。

音楽大学を出てすぐピアノ講師になった。
それも社会人経験のひとつなのかもしれないが、
少なくとも子供相手の仕事にすぎない。

「保険の仕事することになったわ」

 と妻がいったのは2月に入ってからだった。
 明るさと沈鬱さとがうまくつりあった表情だった。

「何か月か研修受けてね、6月くらいから先輩と一緒に活動するみたい」
「どのくらいの収入になるの」
「その人次第だって」

保険の外交か。
確かに成績がよければ右肩上がりだろう。
しかし彼女に保険の外交が務まるのか。
子供たちにドレミを教えていた女性が、大人相手に保険を売れるのか。

現実が甘くないことはすぐにわかった。

研修中はお気楽ムードだった妻も、現場に出るようになると顔色が変わった。

暗く沈んだ顔をすることが多く、たまに一人で涙ぐんでいた。

娘の有希も異変に気づいたようだった。
「ママ、保険の仕事してるみたいだけど、なんで?なんでそんなことしなきゃ
いけないの?」

有希にはわが家の年収が激減したことをきちんとは説明していない。
まして私立の学費が重く家計にのしかかっていることは口が裂けてもいえない。

「パパの収入が減ったんだ。しかたないんだ」
「ママかわいそう」

普通に考えればわかる。
生命保険などそう簡単に売れるわけがない。
辛いだろう。

土日もでかけていくことがあった。
保険加入者が土日しか時間が取れないとなると、土日に訪問するしかない。
基本フルタイム勤務だから朝晩が大変だ。
有希の弁当をこしらえるため、朝は5時起きだった。

その妻もいよいよ限界を感じたようだ。

「ねえ・・・・この仕事辞めてもいい?辞めてもいい?」

有希が部活で不在のある日曜日、妻が泣きだした。
「もう私、この仕事できない。できない。できない」

保険の外交はやめさせたほうがいい。
最近では帰宅してからアルコールを飲むようになっている。
放置しておくと精神的に破たんする可能性もある。

家計はまた見直すしかなかった。

しかし回復の兆しもあった。

残業は月に15時間ほど発生しており、これだけで5〜6万にはなる。
月収ベースでは「管理職時代よりやや減った」レベルでおさまっている。

マンションのローンの借り換えも行い、借金を数百万レベルで落とした。
旅行や遊興をひかえ、月々の貯蓄額も減らした。

中・短期的にはやっていけなくはない気はする。

しかし有希の大学進学のことを考えると妻の労働がどうしても必要だった。

保険会社から逃げるように去った妻はしばらくぼんやりして過ごしていた。

妻がまた働きだしたのは秋になってからだった。
幼稚園児に算数や文字を教える会社に採用されたのだ。
特に保育士や教員の資格は不要らしい。

採用されるのも普通の主婦が多いようだ。

だが妻にはピアノ講師経験があり、そこいらの主婦より即戦力に近い。
「子どもにものを教えた経験」があった。

妻はその仕事を淡々とこなした。
以前のような辛そうな顔をすることはなくなり、

「ああ、明日も大変!」

などといって首をひねってポキッと音を鳴らす様子などは、ある意味
働く充実感に満ちていた。
単価は安く、月に2〜3万円程度にしかならないが、ないよりはいい。

「今の仕事楽しいのか?」
「どうだろう・・・楽しくはないけど、辛くもないわ」

ある夜有希が
「パパとママ・・・いつもありがとう」
といった。

かわいそうなくらい真剣な顔でそういってくれた。
自分の学費を払うために親が奮闘していることを薄々感じているのだろうか。
妻の目が少しうるんだ。

自転車操業に近いが、なんとか家計は維持できている。
そして和やかな家庭も維持できている。

家族の大切さ、ありがたさが身に沁みてわかる。
ある意味、私たちは幸せなのかもしれない。
一般職になって、本当の家族に出会った気もする。


家族.jpg



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貝がらの積木 [感動]

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妊娠9か月を過ぎた妻は福岡の実家にもどっていた。
ここで臨月を迎え、地元の産婦人科で産む予定だ。
夫婦にとって二人目の子。
一人目も、その病院で産んだ。
検査ではまた女の子みたいだが、産んでみないとわからないらしい。
でも私は100%女児だろうと頑なに信じていた。

福岡県糸島市志摩町。

妻の様子を見に2週間に一度ここを訪れる。
週末、金曜の夕方の飛行機に乗り、日曜の夜戻ってくる。
福岡に飛ぶ週末は疲れるが、いい気分転換になる。
一人目のときもそうした。

「ちょっと海岸に出てみないか」

妻をさそって裏庭から外に出て、海岸にむかってゆっくり歩いた。
その海は船越湾の内海で、一年を通して風や波も穏やかだが、
大きなイカが海岸に打ち上げられていることがあり、地元の住民は早朝からバケツを持って海沿いを歩く。

私も獲物を狙って朝海岸に行ったことがあるが、すでにイカを引きずった跡が
残っていたりし、代りにわかめを持って帰ったりした。

「気分が悪くなったらいうんだぞ」
「今日はなんか落ち着いてみるみたい。昨日は圧迫感があってイヤだったけど」

妻は日傘をさして、私が持ってきた折りたたみの椅子に身重の腰を乗せた。
短めに切った髪が妊婦っぽい。

少し離れた岩のくぼみで色とりどりの貝がらを見つけた。
ちょっと思うところがあって、拾って帰ることにした。
小さいもの大きいものあるが、なるべく均一のものを20枚ほど手のひらに乗せた。

「あら、きれいな貝がらね」
「東京に持って帰る」
「珍しいわね。あなたにそんな趣味あるの?」
「貝がらにはちょっと思い入れがあって」
「こないだ早紀ちゃんと拾ったものがあるから一緒に持って帰って」
 早紀ちゃんとは妻の姪。
「ありがとう」
「ねえ、どんな思いれがあるの」
 日傘の中で含み笑いした。

そのことを話していいのかどうか少々迷ったが、そろそろ二人目も生まれることだし、
話しておいてもいいかと思った。

妻が最初に産んだ長女、菜々実は目がクリクリとした母親似の子だった。
将来が楽しみだった。
きっと美人になると確信した。

だが菜々実はわずか3年で夭折してしまった。

先天性の左室緻密化障害。

心筋の成長不全で隙間が多く、血栓などが発生しやすく脳梗塞などを起こす病気だ。
その3年間、菜々実はずっと医師の監視のもとに生きてきた。
いったい何のために生まれてきたのだろうと、今でも悲しいし、神様を恨んでしまう。

あれは約3年前。
私と菜々実が過ごした最後の日。

菜々実は3歳の誕生日が過ぎたころから容体が悪くなり、入院が続いていたが、
だいぶ落ち着いてきたし、病室でも母親と元気に遊ぶので、とりあえず3日だけという
条件で帰宅が許された。
金曜の木曜の午後から土曜の午前中までだった。

「パパにあいたい。パパにあいたい」

菜々実は病院を出たときそういったそうだ。
自宅に戻ると、妻の実家から荷物が届いていた。
果物や、魚介の燻製などが入っていたが、海岸で拾った貝がらも入っていた。

菜々実はその貝がらがとても気にいったようで、すぐに遊びだした。
積み重ねたり、ばらばらにしたり、飽きもせずにまじめに遊んだ。

「パパとカイジャラ(貝がら)であそぶ」
と張り切っていたようだ。

しかしその頃私はプラントの海外事業プロジェクトが立ちあがったばかりで
多忙を極めていた。
妻からは菜々実が会いたがってるから早く帰ってきてと強くいわれたが、
木・金と帰宅は23時すぎとなり、菜々実の寝顔を見ただけだった。

「明日は休めるから。午前中、菜々実としっかり遊ぶよ」

菜々実は痩せて体も小さく見えた。
目だけが大きくて活きいきしていた。


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「パパ、カイジャラ、カイジャラ」
 貝がらを何十枚も私の目の前にひっくりかえし、得意そうな目をした。

「じゃあ、お願い、12時には戻るから」

菜々実の新しい下着やガーゼなどを買いに行くのらしい。
妻の留守中、菜々実の相手を任された私だった。

でも、ほとんど一緒に遊んだ記憶がない。

「パパあそぼ。カイジャラであそぼ」
「じゃあ、貝がらの積木を作ろう」

といって重ねだした。

しかし一週間の疲れのせいか、そして菜々実に会うために今朝早めに起きたせいか
睡魔が襲ってきたのだ。
うとうとし、貝たちが重なって見えた。

「菜々実・・・こうやって重ねてごらん。重ねてごらん・・・」

あくび。

「菜々実ごめん。10分間だけパパおねんねするね。またあとであそぼうね」

そういってとなりの和室に移動して横になった。

眠り際、耳元で
「パパあ、パパあ・・あそぼお、あそぼお」
と執拗な声がしたような気もするが、波のうねりのように押し寄せる睡魔には勝てなかった。

気が付くと10分どころが30分ほど経っていた。
ばっと起きると、菜々実はすぐそばで寝ていた。

「菜々実、大丈夫か・・・」

一瞬心臓のことが気になったが、すやすや息をしており、ただ寝ているだけらしかった。

見ると私が寝ていた枕の周りに貝がらが円を描いて並んでいた。
遊んでもらえずに、たいくつしのぎで頭の周りに貝をならべたようだった。
しまいには父親のまねをして寝たわけか。

「ごめんな。菜々実。今度うちに帰ってきたときは嫌というほど遊んでやるからね」

午後から菜々実を病院に送っていった。

菜々実の心臓の状態が急変したのはそれから4日後のことだった。
会社から駆け付けたが、間に合わなかった。

心不全だった。
血の気のない小さな手が貝がらに見えた。


日傘の中の妻がハンカチを目じりにあてた。

「遊んであげられなかったことがさ!・・・今でも悔やまれる!」

海水で湿った砂をぎゅっと握りしめた。

「そんな風に考えるの、やめようよ。あの日、菜々実とふたりきりになれただけでも
 よかったじゃない。私はそう思っているわ」

と鼻をすすりながら静かに微笑む。

「生まれてくる子とはね、貝がらで死ぬほど遊んでやろうと思ってる。
菜々実の分まで遊んでやろうと思ってる」

妻にはこんなこといいたくないが、
生まれてくる子は菜々実の生まれ変わりだと信じている。

−今度うちに帰ってきたときは嫌というほど遊んでやるからね−

菜々実はこの約束を守って帰ってくるのだ。
そうまじめに思っている。

風向きが変わり、雲が広がってきた。

「ひと雨くるかもしれないな」

すると妻がゆっくりと立ち上がった。

妻の手を引いて、石段をのぼった。
ポケットの中で、貝がらが楽しそうな音を立てた。


貝殻.jpg


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マタニティマーク [感動]

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31歳女性です。

昨年長女を出産しました。
初めての妊婦経験で不安だらけでしたが、ある出来事にとても励まされました。
そのときの記憶は今でも消えず、子育てに悪戦苦闘する私を元気づけてくれています。

妊娠が分かったとき、夫はすぐにでも休職をすすめましたが、出産経験のある職場の女子社員はみな8か月くらいまでは働いていましたので、私もそれにならうことにし、上司にも報告しました。上司は理解ある人で、比較的負荷の少ない仕事をさせてくれました。

仕事より、通勤が大変でした。

会社に着くと一日の大半の仕事が終わったような気になりました。
王子から有楽町まで京浜東北線で通勤していましたが、けっこう混雑します。
すしづめを避けるため比較的早い時間帯を選んでいましたが、それでも吊革につかまれたら幸運という混み様でした。

私の場合つわりが重かったので、匂いに敏感でした。
電車内のむっとした空気や人の体臭を嗅ぐと、気分が悪くなることがありました。
香水の匂いが特に苦手で、女性専用車両を避けた第一の理由はそれです。
とくにフローラル系を嗅ぐとすぐに気持ち悪くなりました。

電車内で座れたらまだ楽だったでしょう。
安定期に入りかけてもつわりがも消えなかったので、少しでもお腹の負担を軽くしたく、席が恋しい毎日でした。

それに立っていると危険を感じます。
電車はいつ急停車するかわかりません。
妊娠前、同じ京浜東北線でしたが、御徒町と秋葉原の間で急停車したことがあります。
吊革につかまってはいましたが、どどっと倒れてくる人の体重で床にひざと手をつきました。

今あんな目に遭ったらどんなことになるでしょう。
お腹から倒れたりしたら赤ちゃんはどうなるでしょう。
とても不安でした。

でも座れることはめったにありませんでした。
席が空いたとしても有楽町直前でした。

マタニティマーク、ご存知ですか?
自分が妊婦であることをまわりに知らせるサインです。
多くの人は鞄に下げます。

私ももちろんしてました。
通勤用のトートバッグの見えやすい位置にしっかりと下げていました。

でも、あまり意味のないものでした。

席に座っている人のほとんどは寝ているか、本を読んでるか、スマホを操作しているかで、
周囲を見ませんし、見ても人に気を遣ったりしません。
私も最初のうちはマタニティマークをしていれば人が必ず席を譲ってくれるものだと
信じて疑いませんでしたが、その考えが甘かったことを思い知らされました。

それは優先席の前に立っても同じです。
恰幅のいい、いかにも健康そうな男性がぐうぐう居眠りしています。
マタニティマークに気づいても見て見ぬふりです。

「どうして譲ってくれないのかしら」
と夫に相談したことがあります。ほとんどグチだったかもしれません。

「誰だって席に座りたいからね。楽したいからね。仕方ないかもしれないね」

ネットで調べてみても、マタニティマークに批判的な意見が目立ちます。
読んでいてショックを受けることもあります。

「妊婦さん、別に病気じゃないデショ」

ならまだ納得できます。

「自分で勝手に妊娠しといて席譲ってくれはどうかと思う」

はちょっと冷たいかなって思います。
結婚すれば誰でも子供を望むものですし、別に道楽で子供を産むわけではありません。

いずれにしても、妊婦への世間の風あたりの冷たさを痛感したのでした。


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妊娠6か月目になると腰痛が出るようになりました。
立っていても横になっていても腰が痛いのです。
ホルモンバランスや、体の重心の変化が原因のようです。
医師に相談しても腰痛体操や湿布、サポートベルトの活用といった
対症療法しかないといわれました。

それに追い打ちをかけるように仕事も忙しくなりました。
時短なので残業はありませんが、席を立って慌ただしく動き回る業務も増え、
負担も増しました。
時短勤務ですから16時30分には退社できますし、通院時の休暇も認められますが、
逆にチームメンバーが残業続きなので肩身が狭い思いをしていました。

ある日上司からこんなことをいわれました。

「宮島さん、夏のイベントは社運をかけてるし、7月いっぱいまで大変だと思う。
 今のペースでやっていける?」

思いやりのある上司ですから、
「つらかったら休職を選んでも構わないよ」
と暗にいっているのだと思いました。

「夫とも相談してみます」

今休職に入ると先輩ママの「慣例」を守ることができません。
いう人は陰でいうでしょう。
宮島聡子は6ヵ月で休職したって。

マタニティマークの件もそうですが、世間とは冷たいものだと考え始めていました。

「無理はしないほうがいい。まだつわりも残ってるんだろう?」

真剣な口調でした。
夫はすぐにでも休職に入ることを望んでいるようです。
妊婦の妻が不安定な生活環境にいることに不安があるのでしょう。
私のことを考えると、落ち着いて仕事できないのかもしれません。

休職しよう、と思いました。
夫のためにもそのほうがいいのかもしれません。

そんな朝のことです。
いつものように王子駅から電車に乗りました。
季節は梅雨に入り、車内も湿気が多くむっとしていました。

マタニティマークは付けてはいましたが、ほとんど意味がないので
バッグごと網棚に乗せていました。

目の前に30代後半くらいのスーツを着た男性が座っていました。
仕事の書類をチェックしていましたが、しばらくして私のお腹を見たのです。
そのあと上を見て、私のバッグを確かめました。

そしてすっと立ち上がったのです。

「どうぞお座りください。すいません。気が付きませんで」

驚くほど爽やかな笑顔でした。
まるで陰気な梅雨の空気の中に、花びらがぱっと舞ったようでした。

嬉しさがこみ上げました。
そんなこといわれて席を譲ってもらったのは初めてだったので、感激しました。

有楽町につきました。
「ありがとうございました」
男性は書類から目を離すと、
「とんでもありません。大切になさってください」
と微笑みました。

世の中にはこんなに親切な人もいる。
妊婦を思いやってくれる人がいる。

そう思うと頑張ろうという勇気が湧いてきたのです。
世間を悲観的に見て、グチばかりこぼすのはやめようと思いました。
その男性に恥ずかしいと思いました。

仕事も予定通り8か月になるまで勤め上げ、無事に休職しました。

今でもあの男性の爽やかな笑顔と温かい言葉を思いだすと
多少のつらさは我慢できます。

ちっぽけなことかもしれませんが、今の私には、こういう人の優しさがとても嬉しいのです。


マタニティーマーク.jpg


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海が見える公園にて [感動]

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洋平と奈美恵とは大学の歴史研究会で知り合った。洋平は理工学部、奈美恵は文学部、私は商学部と、それぞれ学部は違ったが、初対面の日から馬が合い、仲良くなった。常に行動をともにし、サークルを離れた後でも個人的につきあった。

「周一君は滑り止めでこの大学に来たんでしょ?しかも現役で。すごいと思う」

と奈美恵がアイスティーを飲みながら私を尊敬するようなまなざしで見た。
同年だが小柄で小顔なので年下に見え、まるで後輩を話しているような気になる。

「ほんとそうだ。俺なんて一浪だからな。おまけにここ第一希望だったし」

と洋平。
少々優越感に浸った。二人より一段高いところにいるような感慨にふけった。そして、奈美恵の女心を独り占めしているような気になった。三人だから、いずれかが奈美恵をものにしたら友人関係も終わるだろうななんて考えた。2プラス1の友人関係なんて聞いたことがない。

そんなことがあってから、奈美恵を愛するようになった。奈美恵も同じ気持ちだろうと勝手に考え、告白するタイミングを探していた。きっと相愛の仲になれるものと信じて疑わなかった。

だが、現実は私を打ちのめした。

クラスの知人(彼も歴史研究会にいたが、やめて落語研究会に移った)がいうには、洋平と奈美恵が二人でいるのを渋谷で見たというのだ。

「周一は歴研だから知っていると思うけど、あいつらアツアツだな」

言葉を返せなかった。
私は奈美恵と二人きりで行動したことはない。奈美恵に会うのは洋平に会うのと同じことだった。つまり何をするにしても三人一緒だったのだ。その暗黙の掟を破り、洋平と奈美恵は単独で行動したことになる。

強い嫉妬と屈辱心が生まれた。
奈美恵を思っていただけに、その気持ちは粘っこく膨らんだ。

−くそ・・・陰でこそこそしやがって−

こうなると三人のバランスは保てなくなる。
二人と行動をともにするなどとてもできなかった。
2プラス1の「1」は、洋平でなく私だったのだ。

私は二人から自然に離れた。
二人も、それがごく自然な流れであるかのような顔をした。
学食の食器返却口で顔を合わせても、二人は意識して私を見ないようにしていた。
つまり「無視」だ。
二人の恋愛を円滑に進めるためには、そうするしかないのだ。

嫉妬と屈辱はどんどん膨らんだ。
毎日つらかった。
そのしがらみから逃れ、自分を正常な状態に回復させる唯一の方法は、二人から完全に逃れることだった。
私は歴史研究会をやめた。

一枚の写真があった。

横浜の海が見える公園で撮った三人のスナップ写真だ。
中央の奈美恵をはさんで洋平と僕が並んで立っている。
背後にキンモクセイが立っていた。

「青春の記念だな」

などと洋平が顔に似合わないことをいっていたのを覚えている。
私はその写真を大事にしていた。
たまに取り出すと、奈美恵の顔をじっと見たものだ。

その奈美恵がゆがんで見えた。顔が溶けて、目と鼻がずれてグシャグシャになった。
私は涙を拭うと、自分の顔だけカッターナイフで切り取った。
でも二人だけそこにいるのがしゃくにさわり、二人の顔も切り取った。

顔のない被写体が三人。
とても不気味な写真だった。


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何か夢中になるものが欲しくなり、公認会計士試験にチャレンジしようと思ったのは二年生の夏だった。商学部ということもあり、普段の勉強がそのまま役に立つ。司法試験につぐ難関といわれている試験でもあり合格は至難だが、目的は合格だけではない。無心になり、頭の中の雑念を取り払いたい一心だった。そのためにも道のりは厳しい方がいい。
専門の受験予備校にも通い、猛勉強を始めた。

ところで落研の友人が仕入れた情報によると、洋平と奈美恵が学生結婚しようとしているらしい。
だが双方の親が反対で、話が頓挫しているらしい。
彼の話では、二人とも最近大学に来ていないとか。

「どこでなにやってんだ、あいつら」

彼は二人に関心があるようだ。

確かに関心のわく話だが、私は必死に無視した。
気にしたらきりがないし、勉強に支障が出る。
やつらの夢が学生結婚ならば、私の夢は会計士だ。

そして大学4年の秋、見事公認会計士二次試験に合格した。
在学中にこの試験に合格するのは快挙といっていい。
受験仲間も、指導してくれた先生も面食らった。
私は入学して初めて幸福を得た気がした。

そんなとき悲劇が起きた。

洋平と奈美恵が死んだのだ。

心中だと噂する者もいたが、自動車事故だった。
飲酒運転で反対車線に暴走してきた車と、二人が乗ったレンタカーが正面衝突したのだ。
即死だった。

未婚の二人であるから葬儀は両家別々に行われ、
二人が一緒に葬られることはなかった。

私は表向きは粛然としていたが、内心軽薄だった。
天罰が下ったのだと思った。

私は勝ち誇った気分で大学を卒業し、若い会計士補として大手の監査法人に就職した。

それから15年が経過した。
監査法人の中でも比較的高い位置にいて、多忙をきわめる会計士になっていた。たまに監査法人から離れ単独で仕事を引き受けることもあり、独立は時間の問題だと思う。
30歳で結婚し、子供は二人いる。
順風満帆とはこのことかもしれない。

たまに洋平と奈美恵のことが脳裏によみがえることがある。
最初のうちは思い出したくもない記憶に過ぎなかったが、時間とともに冷静な目で彼らに向き合えるようになっていった。
彼らに対する気持ちが徐々に丸みを帯びてきたのだった。

人間、年とともに変わるんだろうか、と思う。
就職し人と仕事にもまれ、結婚し、子供をもうけ、一家の大黒柱として日々努力してきた日々。人間として成長したのかもしれない。

それからさらに月日がたったある日、昔切り離した三人の顔写真が見つかった。本棚の古い本を整理していたら「経営学辞典」の中から出てきたのだ。

最初何かと思った。
その三枚の異様な写真のゆえんを思い出すまで少々時間がかかった。

あれからどのくらい時間がたったのだろう。
三人とも若かったな。
色あせたその写真を眺めるうちに、あることを思いついた。

−このあたりだったかな−

キンモクセイはだいぶ大きくなった気がする。
海が見える公園の、三人が並んで写真を写した場所だ。
遠い水平線を、白い船がゆっくりと進んでいた。
水の面がきらきらして、静かだった。

持参したミニサイズの園芸用スコップで木の根本に目立たない穴を掘った。

そしてその穴に、洋平と奈美恵の写真二枚を葬った。

「結婚おめでとう。友人として嬉しいよ」
「お前にそういってもらえると嬉しいな」
「ねえ、披露宴には必ず来てね!共通の親友としてスピーチしてもらうからね!」
 と上目遣いに見る奈美恵。
「まかせとけ。ばしっと決めてやる」

そんな明るい会話が海の方から風に乗って聞こえてきた。
穴を埋め、公園を後にした。

−気が向いたら墓参りにきてやるよ−

秋の日差しがまろやかだった。
青春が終わったと私は思った。


キンモクセイ.jpg


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学級委員長 [感動]

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人生というものはちょっとしたきっかけで大きく変わるものですね。

僕は吃音でした。

国語の時間、教科書をみんなの前で読ませられるのが最高に苦痛でした。みんながすらすら活字を音にし、一定の音読リズムが教室内にできあがる中、僕の番に来ると、そのリズムがとたんに壊れるのです。

教室内に何が起きると思いますか?
爆笑です。
先生までもがくすっと笑ったりしました。
 
当然、こういった習癖を持つ少年は自分と外界との間に一定の距離を置くようになります。なるべく言葉を使わないようにするため内向的になり、決して人前に出て行こうとはせず、心を許せる友だちも限られていきます。

小学校を卒業すると父の仕事の都合で他県に転居し、見知った人が誰もいない中学校に入学しました。

−ここにいる生徒は全員、僕の吃音を知らない−

これはとても安らかな気分でしたが、同時に強い不安をもたらしました。
吃音者だとばれるのは時間の問題だったからです。

みんなと同じ存在でいられたのはほんの数日でした。
国語の音読をきっかけに、僕の吃音は人の知るところとなりました。
僕が何かをしゃべろうとすると、みんなが好奇な目で僕を見ました。
僕の新しい学校生活は、また小学校時代に逆戻りしました。
友だちもできず、心を閉ざしました。

ある日母が急病で寝込み、弁当を持参できなかったので昼を抜いた日がありました。三時頃下校すると、ファストフードでハンバーガーを買い、少し離れた公園で遅い昼食をとりました。

野良猫がこっちを見ていました。ハンバーガーが気になるのでしょうか。そばに近づいてみました。人に慣れているのか微動だにしませんでした。

−この猫は僕の吃音を知らない−

また安堵感が来ました。
まして相手は猫ですから、私がどもろうがどうしようが無関心なはずです。そう考えると奇妙な親近感がわき、ハンバーガーを半分猫にあげました。猫は小さな口でちゃぷちゃぷと音を立てながら美味しそうに食べました。そのとき真の友だちのそばにいるような気になったのを覚えています。

僕のそんな生活に強烈な転機が訪れたのは二年生になってからでした。
クラス替えされた新学期二日目、学級委員長の選考がありました。

「自薦他薦どちらでもOK!」

僕は先生の生きいきした目を無関心な目で見ていました。

学級委員長の選考会。

吃音者とこれほど無縁な世界も他にありません。

ところがです。
一年生のとき同じクラスだった有田佐和子という女子が

「石木君がいいと思います」

と推薦したのです。
これには驚きました。なぜ僕を・・・?
唾を何度も飲み込み、過呼吸を繰り返しました。

ほかにも何人か候補が挙げられ、黒板には僕を含めて2〜3名の名前が並んだと思います。

それから投票が行われました。

心配には及ばない。
誰も僕がいいとは思わない。
票は確実に吃音者以外に流れる。

ところが。

結果を疑いました。
選ばれたのは僕でした。


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考えてみたらクラス替えをしたせいで、僕の吃音を知らない生徒が多く混じっていたのです。推薦されたら選ばれるリスクが十分にあったのです。
でもなぜ佐和子は僕を推薦したんだろう。
僕の吃音を知っているくせに。
学級委員長なんてできるわけないのを百も承知してるはずなのに。
なぜそんな軽挙妄動に走ったんだ?

でも佐和子を恨む気持ちは不思議にわきませんでした。
そんなことどうでもよかったのです。

不安と恐怖の中にいたのです。
これからどうしよう・・・。
思いはそれだけでした。

登下校中、ときどき立ち止まって考え込み、大きなため息をつきました。
目の前が真っ暗でした。

学級委員長ですから、人前に出て何かをしゃべることは当たり前で、それができないと物事が進まないことが多いです。

僕はみんなの前で激しくどもりました。

みんなしんとして、たがいに目を向け合っています。
いやな予感がしました。
そしてその予感通り、笑いが起こりました。

絶望とはこのことでした。
毎日、つらくてしかたありませんでした。
ストレスもたまりました。

ある朝のホームルームのことです。
僕がみんなの前て言葉を発しようとしたそのとき、一番前にいた男子が、

「どもり君、どもらないでね」

といったのです。するとどっと笑いが起きました。

その瞬間、強烈な怒りがわき起こりました。
言葉は力強く、そしてすらすらと出ました。

「僕はどもりだ!でも一生懸命やってる!がんばってる!」

吃音者でも、時と場合によっては堰をきったようにすらすら言葉が出てくることがあります。強い怒りがそうさせたのかもしれません。

それからクラスのみんなは僕を笑うことをしなくなりました。
僕も少しずつ学級委員長に慣れて行きました。

ある日先生からこんなことをこっそりいわれました。

「石木君、よくやってるな。個人日誌を読んでると、みんな君を信頼してるみたいだぞ。あと少しだからがんばれ」

励まされました。

−みんな君を信頼してるみたいだぞ−

どもりの僕でも人から信頼されるのか。
感激しました。

任期の終わりがせまったある冬の日、佐和子と話す機会がありました。僕を推薦した彼女でしたが、それまでほとんど口をきいていませんでした。僕との接点が何もない女子だったのです。

「なぜ僕を推薦したの?」

 佐和子はすぐに明るく答えました。

「石木くん、心が綺麗だから。猫に自分のお昼ご飯あげるなんて」

あの日佐和子に見られていたとは知りませんでした。

「大袈裟な。猫に餌あげただけだよ」
「誰にでもできることじゃない。心が純粋でないとできない」

どもりの僕をそんな風に見ることができるなんて、なんて優しい子だろうと思いました。

その学級委員長の体験がその後の僕に及ぼした影響ははかりしれません。それからいろいろ辛いこともありましたが、あの学級委員長の悲劇に比べたらこんなもの!と乗り越えることができたのです。

大人になると、ほぼ吃音が消えました。
今では人前でスピーチするのがむしろ得意にさえなっています。

「君が僕を学級委員長に推薦したんだぞ」
「そんなことあったかしら。忘れたわ」
「僕はどもりだったんだ」
「本当?そんな名残少しもないからわからない」

彼女が忘れるわけがありません。
僕を気遣ってそういってくれたんだと思いました。

それが妻・佐和子の優しさなんだろうなと改めて思いました。


ホームルーム.jpg


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母のトンカツ弁当 [感動]

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福岡空港から発車したバスは途中混雑したものの、高速道路に入ったら快適に走った。窓から射してくる初夏の光がやや暑い。

実家のある朝倉市までバスで約40分。
市街地から離れると、遠い山並みのかたちがはっきり見え、だんだんと田園風景が広がってきた。

−何年ぶりだろうか−

そこそこ名のある大学に合格し、高校を卒業してすぐに上京した。年一度は帰省したが、就職してからは疎遠になった。親のことが気にならないわけではないが、都会の色に染まっている方が楽しく気楽だった。

だが、事態は急変した。

2週間前の会議室。
あの日も同じように初夏の光が窓から射していた。
でもこの光とはまったく異質な、冷たい光だった。

「特に指示はしない。研修室で自分が何をすべきか考えるんだ。会社のために何ができるか知恵を出せ。そして行動しろ」

上司の仏頂面は、あきらかに僕に辞めろといっていた。
29歳という若さでいわゆる追い出し部屋に配属されるのは決して珍しいことではない。同期でも2、3人、この部屋を通して退職した。
 会社からの具体的な指示もなく、会社のために何ができるか考えて行動するなどきわめて非現実的な話だ。
すぐに退職願を出した。
 それからハローワークに通う日々が始まった。だが魅力的な職はない。しがない営業マンで、売りにできるような技術もない僕に美味しそうな仕事はないのかもしれなかった。僕は長期戦を覚悟した。
 
ふーっと息を吐いた。
母の顔が浮かんだ。

一人暮らしの母。
2年前に父が事故で他界したのをきっかけにめっきり老け込んだようにも思えるが、電話の声を聞くぶんにはむしろ気楽に暮らしているようにも思える。ずっと父に引っ張られた人生だったから、母なりの生き方を取り戻しているのかもしれない。

今回帰省したのにはわけがあった。

率直にいうと、借金の申し込みだった。
母には久しぶりに顔を見たくなったと告げたが、方便だった。

退職してから、お金に不安を感じるようになった。蓄えはあるにはあるが、就活も長期戦が予想され、経済的苦境に陥るのは目に見えていた。おまけに車持ちで高めの賃貸マンションに住んでおり、しがない失業保険では転居や廃車も視野に入れなければならない。

お金が欲しい。

当面200万円あればいい。
月に20万としても10ヶ月は食える。
車も維持できるだろう。

母には退職のことは話していないから、何といって借金を申し込もうか。いろいろ理由を考えるが見つからない。

お金のことを考えると、心が重くなる。
僕は首を左右に振った。

−とりあえず気分を変えよう−

2泊する予定だから、今日はお金のことは口にするまい。

そう決めると楽になった。
バス旅行の子供のように懐かしい風景をおいかけた。
すると時間が急速に巻き戻されて、自分とは全く敵対しない世界に包み込まれていくような感覚になり、ずっと抱えていた心の荷がとれていくのを感じた。

朝倉市の甘木で降りた。

父が生きていた頃はインターチェンジまで車で迎えに来てくれたが、母は運転ができず、片道30分の道を歩くしかなかった。
タクシーに乗れるほど裕福じゃない。
土と草の匂いがし、都会では見かけない珍しい鳥が川岸におりた。

「歩いてきたとね」

玄関で僕を出迎えた母はエプロン姿だった。
化粧もせず髪も結んだだけの最低限の格好で、田舎の家によく似合っていた。
「汗かいたろ?お湯浴びる?ビールも冷えとるよ。着替え持ってきたね?」

次々と提案と質問を繰り返す照れくさそうな母。
2年ぶりに息子に再会する母がそこにいた。

「とりあえずシャワー浴びるよ」

静かな家だった。この広い家で母一人で毎日何をしてるんだろうと思う。年金で十分暮らして行けるそうだけど、何を心の糧にしているのだろう。
夕食は好物のトンカツだった。
僕が帰省すると、必ず食卓にトンカツが出た。父は脂っこいものが苦手だったが、その日だけはトンカツに箸をのばした。母は歯が弱いといってあまり食べなかった。トンカツを食べると、家族の原風景がよみがえる。


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 母のコップにビールをつぐと、
「ちょっとでよかよ、ちょっとでよか」
 といって、両手でコップを持った。

「仕事大変ね?」

 一瞬言葉につまる。ここで退職のことをいうべきか。
でもいってしまったらそのまま借金申し込みの話に流れそうで怖い。
少なくとも今は、この温かな空気を冷ませたくない。

「まあ、なんとかやってる」
「そうね。がんばらんとね。お母さんもね、近所の靴工場から仕事もろうて内職しよると」

このだだっ広い家で靴張りの内職をする母。
その仕事は心の糧になり得るだろうか。

「はよう嫁さんもらわんとね。母さんも孫の顔ば見たか」

コップいっぱいのビールで陽気になった母だったが、そのせりふを口にしたとき、目がまじめだった。

翌日は父の墓参りをしたり、秋月あたりを散策して過ごした。
そして日が暮れ、帰省の2日間が終わろうとしていた。
母は晩ご飯のあとも台所で何かをしこんでいた。
そういえば昔から料理好きだった。

時計を見ると午後8時。

−もうそろそろ肝心なことをお願いしないと−

200万円。いや、もっとほしい。
借金でなくて、むしろそのまま返さなくていいことにならないか。
酒の酔いで、心が図々しくなっていた。

心を決めて台所に行った。

母はトンカツをひろげて表面をたたいていた。

「明日お弁当作ってやるけん、飛行機の中で食べなさい」
「弁当なんかいいよ。空港でラーメン食べるから」
「空港のラーメンやら美味しくないが。母さんの弁当が一番美味しかとよ」

昨日トンカツを食べたばかりなのに、明日の弁当もトンカツか。
僕はトンカツしか食べない人間だと思っているんだろうか。
でも、それが母だった。

借金の話は、最後までできなかった。

出発の直前、弁当ができあがった。
三段がさねの豪華な弁当だった。
トンカツ、きんぴらごぼう、筑前煮、タケノコの天ぷら。
どれもこれも東京の一人暮らしでは食べられないものだった。

「こんなに食べきれない」
「冷蔵庫に入れといて、明日の朝チンして食べなさい」
 早口でそういうと、手際よく布で包んだ。

「じゃあ帰るよ。母さん」
「またがんばりなさい」

母が少し鼻をすすった。
僕は母の顔を見ないようにした。

弁当で重くなった鞄を肩からかけると、初夏の陽を背に歩き出した。
しばらくして振り向いた。
日傘をさした母がまだこっちを見ていた。

−もういいのに。帰ればいいのに−

角を曲がって橋を渡る。
母はまだ僕を見ていた。
その橋の真ん中あたりまで来ると、実家のあたりは視界から消える。
ずっとこっちを見ていた小さな日傘が、桜並木にすっと消えた。

−あの母さんに借金なんか申しこめるか−

返さなくていいだと?
ふざけるな。
お前ってやつは。

お前はまだ限界じゃない。
まだまだ甘い。

バスの中で鞄の中の配置を変えるために手を入れた。
ふと手が止まり、それ以上何もできなくなった。

ご飯が温かかった。

涙がにじみ、ぎゅっと目をつむった。


とんかつ弁当.JPG


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タグ:感動 愛情
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陽だまりの中で [感動]

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転校先は横浜の保土ヶ谷にある小学校でした。
五回目の転校です。

その学校でも、別にいじめられたわけではありませんが、私は孤立していました。自分と周囲には常に高い壁があって、とても小学校四年生の小さな心では乗り越えられないものだったと記憶しています。

父が地方転勤の多い仕事に就いているせいもあり、転校が多いのも影響していました。一年生の頃から転校を繰り返し、一年と同じ学校にいたことがありません。もちろん友だちなんてできません。いつしか私は友だちの作り方とか、つきあい方を知らない女の子になっていたと思います。毎日学校に行くのがつらくて仕方ありませんでした。

父も母も活発で芯の強い人でした。瑣事にこだわらず、常に前を向いていて、いつも私と少し離れたところで生きているように思えました。ときどき親との距離が遠いのか近いのか確かめるために、親を困らせるようなことをしたこともあります。

私は登校班からこっそり離れて、郵便局の駐車場の車止めに腰を下ろして本を読んでいたのです。親に見つかるのは時間の問題でした。というより、見つけられたいと思っていたのでしょうね。郵便局の時計を見ると午前8時10分。そろそろかなって思いました。学校からも家に電話が行っているはずです。

「由希ちゃん、こんなところで何してんの!先生から電話がかかってきたのよ!」 

母はあわてながら、そう怒鳴りつけました。

不思議と涙は出ませんでした。

「ここで本を読んでいたの。学校に行ったら続きが読めなくなるから」

なんて適当ないいわけをしたのですが、母はそれを真に受けて

「学校から帰ったら読めばいいじゃない」

なんて私の本意を理解しようともしなかったので、泣く気が失せたのです。どうして学校行きたくないの?なんて聞かれたら、わんわん泣いたでしょうね。

その日は母につれられて学校に行きました。
みんなは静かな目で私を迎えました。

戸塚に母方のおばあちゃんが住んでいるのですが、そのおばあちゃんが近所の総合病院に入院したらしく、ある日母と二人でお見舞いに行きました。私は小さい頃何度か会ったことがあるそうですが記憶はまったくありません。

「由希子ちゃん、覚えてる?」

ベッドの上で半身だけ起こしたおばあちゃんが微笑みました。柔らかな笑顔でした。ほとんど初対面でしたし、こういうとき何といえばいいのかもわかりませんでしたから、私はただ微笑むだけでした。



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「この子人見知りするんだよね」

と母が花瓶に花を活けています。

「そんなことないよねえ?・・・ほんといいお姉さんになっちゃって」

透き通るような優しい瞳でした。
見ていると吸い込まれそうでした。

母は週に一度くらい、おばあちゃんの病院に出かけているみたいで、私もたまに一緒に行くようになりました。

昼過ぎに行くと、いつもおばあちゃんの膝のあたりに陽だまりができていました。その光がおばあちゃんの一部であるかのように見えたりし、とても温かいものがそこにいる、という感じでした。おばあちゃんと一緒にいると、私もいろんなことを口にできるようになりました。

「学校楽しいかい?・・・たくさん友だちいるんだろうねえ」
「あんまりいない。学校も楽しくない。でも本を読むのは好き」
「そうかいそうかい。本が好きかい。読書はいいことだよ。たくさん本を読みなさいね」

「おばあちゃんは学校楽しかった?」

こんな優しいおばあちゃんのことです。きっと子供の頃、楽しい学校生活を送っていたことでしょうね。でも、本音では学校は嫌いだったと答えてくれることを期待していました。
おばあちゃんは少し表情を変えてこういいました。

「戦争でね、いつ死ぬかわからなかったのよ。学校になんか行ったことなかった。いつも逃げ回ってた。生きるため。ただ生きるために毎日必死だったのよ・・・」

予想もしない異質な言葉に返す言葉がありませんでした。

戦争という言葉は聞いたことがありますが、教科書に載っている程度の知識しかなく、ぴんと来ません。ですからその日おばあちゃんが話してくれた戦争の話はほとんど記憶に残っていません。でも、この言葉だけは今でも脳裏に焼きついています。

「生きていられることを幸せと思わないとね」

四年生の私には理解できない言葉でした。でも、時折その言葉を口ずさんだのと覚えています。深い意味はわかりませんが、何か心にしみるものがありました。

中学に入ると、父親の転勤も少なくなり、ようやく私にも友だちといえる人ができました。それから受験、恋愛、就職と平凡な人生を歩いてきました。

今では結婚し、毎日子育てで大変です。因縁でしょうか、夫が転勤族で、数年おきに地方を転々とする生活をしています。親しい友人もできず、ある意味あのときと同じように孤独なのかもしれません。でも、昔のように深く考えなくなりましたし、周囲との壁もなくなりました。孤独もまた楽しいものだと考えるようにしています。

ときどき陽だまりを見つけて寛ぐことがあります。すると、あの頃のいろんなできごとがよみがえります。光を見ていると、自分の過去を寛容な気持ちで思い出すことができるようです。

「生きていられることを幸せと思わないとね」

まだまだそんなレベルじゃないかもしれません。
でも陽だまりの中にいると、今は亡きおばあちゃんに少しだけ近づいているような気もしてきます。将来自分の孫に対して同じことを言ってあげられそうな気になるのです。


ベッド.jpg


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