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看護師さんとの交換日記 [感動]

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結婚ってなんだろう、赤ちゃんを産むってどういうことだろう。
小さい頃、誰もがそんな素朴な疑問を抱いたことがあるのではないでしょうか。
私もなんとなく親が口ごもって濁してしまうようなこの質問を何度か投げかけ、困らせた経験があります。
自分が結婚するなんて想像も出来ず、その上出産なんてもはや未知の世界。
夢物語のような漠然とした不透明なものでした。

そんな私も二十代の前半に結婚し、その数ヵ月後にはめでたく妊娠することが出来ました。
それも予想外の双子というサプライズ。
家族も友人知人も皆が驚き、祝福してくれました。妊婦さんってこんなに周りに親切にしてもらえるんだ、とびっくりするほど、言い換えれば「腫れ物に触るように」気を遣ってもらっていました。

少しずつ大きくなっていくお腹をさすりながら、まだ見ぬ二人の我が子を想像しては微笑んでしまうような幸せな妊婦生活でした。

ところがある日、異常に気が付いたのです。まだ妊娠23週の時、夜中にお腹の張りと少しの痛みで目が覚めました。
初めての妊娠ですので、これが異常なことなのかもわかりません。
ですが何かあってからでは遅いと、そのまま夜間救急へと向かいました。

結果は「切迫流産」。つまり、流産しかかっているとのことでした。
そのまま緊急入院し、飲み薬と点滴で様子を見ることに。
このときはまだ事の重大さに気付いていなかった私。
数日で治まって退院出来るだろうとばかり思っていました。

ところが二日経ってもお腹の張りは治まらず、内診の結果、「ここ二、三日で産まれてしまうかもしれない」とのこと。
その病院から車で一時間半の場所にある大きな病院へ転院することになったのです。

この時点で、さすがの私も事の重大さに気が付きました。
何がきっかけで破水してしまうか分からないため、排泄用の管を入れ、そのままストレッチャーに乗せられました。
生まれて初めて乗った救急車。自分が乗った救急車のサイレンの音をぼんやり聞きながら、心のどこかで「この子達はダメになってしまうんだろうか」と思いました。
それはすべて、私がどこかで何か間違いを起こしてしまったからなんじゃないかと、酷い自責の念がこみ上げてきました。

到着した大学病院では、産婦人科、小児科、NICUそれぞれの医師や看護師たちが大勢待ち受けていました。
強めの点滴と張りを抑える為の座薬で様子を見ることに。
今、産まれてしまったら、いくらこの病院でも助けることは難しいかもしれない。
そう言われました。私に出来ることは静かに横になっていることと、祈ることだけでした。
それしか出来ない歯がゆさと恐怖は、今思い出しても相当のものでした。


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そんな私の担当看護師になってくれたのは、私よりも若く、まだ新人さんなのではないかと思えるほど可愛らしい女の子でした。
当時の私は色々なことに対して余裕がなく、面会に来てくれた両親でさえも追い返してしまうほどの精神状態でしたので、正直誰が担当看護師でもどうでもいい、と荒んだ気持ちでいました。
こまめに様子を見に来てくれる彼女に対して冷たい態度をとってしまったことも多々あります。

そんなある日、彼女が私に「交換日記」を準備してくれました。
何も書かなくてもいい、毎日交換して、もし何か吐き出したいことがあればここに書いて欲しいと。

起き上がることもままならないのに、そんなことが出来るはずがない、と、何も書かずに渡す日々。
その間、彼女は事細かに私の状況の説明や、お腹の中の双子の様子、先生の見解などを書いてよこしてくれました。

そんな彼女に、私も次第に心を許すようになり、本当はすごく不安だということ、苦しいことをそのノートに書いていきました。

入院してから一度もシャワーを浴びることができず、頭も洗えないままに一ヶ月…。少し状況が落ち着いたところでシャンプーをしてもらうことができました。
もちろんストレッチャーにのったままです。
それでも一ヶ月ぶりの洗髪はとても気持ちが良かったです。

ベッドに寝せられている産まれたばかりの赤ちゃんを見せてもらったり、同じく多胎児妊娠で早くから入院していたというお母さんに会わせてもらったり、私の担当になってくれた彼女は本当にたくさんのフォローをしてくれました。
時には私と一緒に涙を流し、大丈夫、大丈夫と何度も繰り返してくれました。

そして、一ヶ月早くはありましたが、無事に双子の赤ちゃんを出産。
低体重ながら障害も無く、元気な赤ちゃんでした。
旦那、家族のほかで誰よりも早く私のところに駆けつけてくれたのは、もちろん他でもない彼女です。
自分のことのように喜んでくれました。

退院の日、交換日記の最後のページは彼女の明かせなかった気持ちが綴られていました。私がなかなか心を開いてくれずに悩んだこと、私の笑顔が見られたとき、涙が出るほど嬉しかったこと、私の部屋へ行くことが、いつの間にか唯一の楽しみになっていたこと。こんなに私を支え、考え、そして悩んでくれていたことに、改めて感謝しました。
私一人ではきっと乗り越えられなかった三ヶ月の入院生活。
彼女が居てくれたことに、今も心から感謝しています。

あの交換日記は、今でも私の宝物です。


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家族の形 [感動]

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家族。
それは一番自分に身近な存在で、かけがえの無い大切な人たちだというのが一般的な考えなのでしょうか。
「友達親子」「まるで姉妹のような母娘」などというフレーズをよく耳にします。
一緒に買い物に行ったり携帯メールのやり取りをしたり、何でも隠さず話し合うことが出来るような親密な親子関係。
それは、私の目にはとても眩しく、時に羨ましく映ります。それと同時に、少し冷めた目で見てしまうことも事実です。

私の両親は共働きで、小さい頃から両親よりも祖父母によく懐いていた私。
祖父母と一緒に近所の小さなお店に買いものに行ったり畑についていったり、幼稚園バスのお見送りもお迎えも祖母の役目でした。
祖父母に育ててもらったという感覚のほうが強くあるような気がします。
どんな時でも優しく朗らかな祖父母。

そんな二人とは対照的に、いつもなんだかイライラしている母と無頓着な父のことは幼いころからどうしても好きになれずにいました。
必要以上に厳しい母は私の左利きという個性を徹底的に矯正しました。
少しでも左手を使おうとするとものすごい勢いで叱られます。

「お母さんは怖い人。お父さんはいつも家にいない人。」というのが両親に対するイメージとして私の中では出来上がってしまっていました。
その頃、父は建設会社の部長としてしょっちゅう転勤や単身赴任で飛び回っていましたので、一緒に遊んでもらった記憶はあまりありません。
こんなことを言ったら笑われるかもしれませんが、「お父さん」と呼ぶことが出来ない子供だったことを覚えています。

高校生になり、初めて仲の良い友達の家に泊まりに行った時の驚きは今も忘れられません。
家族団らんの賑やかな時間。
皆で同じテレビを見て笑い合っている光景に、軽いカルチャーショックを覚えました。

私の家では、食事が終わればそれぞれの部屋に引っ込んでしまいますし、テレビを見て笑い合うなんて考えられないことだったのです。
もちろん会話もほとんどありませんでしたし、特に私の父親は一言も喋らずご飯を静かに食べているか新聞を読んでいるような人でしたので、友達と彼女のお父さんが冗談を言い合っている姿にはなんだか戸惑ってしまったものです。

「これが普通の家族の在り方なんだ」ということに気づかされ、私ももっと頑張って両親に歩み寄れば、こんな風に楽しい時間を作る事が出来るのだろうか、と、想像してみたりもしました。
でも今更どんなに努力したところできっと何も変わりはしないだろう、という諦めの気持ちが、すぐにそんな私の淡い期待を飲み込んで消してしまったのでした。
もう十数年も、この形が私の家族の姿としてここにあったのだから、それを変えることに力を注いでも意味はないだろうと思ってしまったのです。


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そんな私も高校を無事に卒業し、その後は二年間県外の専門学校に通いました。
初めての一人暮らし、初めての県外での生活。始めは不安だらけで寂しくもありましたが、家族が恋しくなるといったことはほとんどありませんでした。
時々、「じいちゃんばあちゃん元気かな」と、年老いた祖父母を思い出すことはあっても、両親のことを考えることはなかった気がします。

一人暮らしにもようやく慣れてきた頃、突然ふらりと父が私のアパートを訪ねて来た事があります。
なんの連絡もなく唐突にやってきて、「焼肉食べに行こう。」と言うのです。

実家から電車を乗り継いで二時間の距離を、わざわざ焼肉に連れ出す為にやって来たのでしょうか。
というか、考えてみたら、今まで父と二人きりでどこかに行ったことなどありません。
一体父は何を考えているんだろう。
二人で何を話せというんだろう。
色々な思いが私の頭の中を交錯しているうちに、気付いたらもう焼肉屋さんの前でした。

一人暮らしを始めてから節約の為に外食などは控えていましたので、こんな高そうなお店に入るのか!という気持ちと、断ることも出来ずにここまで着いてきてしまったという軽い後悔を胸に入店しました。

思った通り会話が弾むことはなく、ただひたすら焼き肉を口に運ぶ無言の二人。
気まずいという思いしかありません。
何だって急にこの父親はこんな事を思いついたのか、なんだかイライラしてきました。
早く帰りたい、という思いだけで必死に肉を食べていた私にむかって、突然父がポソリと言いました。

「お前が居なくなってから、家は火が消えてしまったみたいだ。」

一瞬、耳を疑ってしまいました。
そんな風に父が思っていたなんて、そんな風に実家が静まってしまっていたなんて。

私がいたっていなくたって、何も変わることはないだろうとばかり思っていました。

父が言うに、祖父母はすっかり気落ちしてしまい、母は少し痩せてしまったそうです。
驚きと、なんだか恥ずかしさと、複雑な思いで返事に困っていると、また父が言いました。

「今日一緒にご飯が食べれて、元気な姿を見ることができて良かった。」

そう言って、また無言で肉を焼き始めた父。
実はこの時まで、専門学校を卒業したらこのまま地元には戻らずここに就職先を見つけようと思っていました。
そんな気持ちがぐらぐらと揺れるきっかけの日になってしまった気がします。

そして今、私は生まれ育った町で介護の仕事に就いています。
慣れ親しんだ風景とそこに住む人たち。そんな町並みを見ながら、時々母と出かけたりしている最近の私なのでした。


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タグ: 家族 感動
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恩師の手紙 [感動]

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高校三年間を陸上に費やしてきた私。
当時は部則が厳しく、色々なことを制約されていました。校則を守ることは大前提であり、スカートの丈、靴下の種類もきっちり守っていました。髪形は常に短髪。少しでも耳に被さるようなら床屋へ直行です。毎朝の体重管理も厳しく、前日の食事内容を事細かくチェックされていました。

青春を謳歌したいこの年頃の私たち、なんと男女交際も禁止されており、男子と話すこともNGでした。挨拶は大きな声でしっかりと、先輩よりも早くグラウンドへ行き、先輩より遅く帰宅しなければならず、荷物持ちは当たり前という世界。それもこれもすべては「勝つ為」でした。

私は幼い頃から足が速く、「オレの遺伝だな」と父は色々な人に自慢していました。誰にも負けることがなかった私、特に努力をしなくても、生まれ持った資質だけで一位を勝ち取っていた中学時代。それがガラリと一変したのが高校に入ったときでした。

まず、自分のレベルの低さを思い知りました。一位で当たり前だった頃が嘘のようです。チームメイトは皆私よりも早く走ることができましたし、いつも努力をしていました。それまでの自分の驕りとレベルに愕然としたものです。それからは、人が変わったように毎日一人で練習しました。部活が終わってヘトヘトの状態でも、欠かさずトレーニングをしました。また一位になりたい。その想いが日に日に強くなっていたのです。努力は才能を上回るのだと信じて、毎日が陸上漬けの日々でした。

そんな努力が少しずつ実り、私の記録もどんどん上がっていきました。試合で優勝、入賞する機会も増え、大きな大会まで駒を進めることも可能になりました。ですが、そんな私にある日、事件が起こったのです。
いつもの練習風景、いつものように走り出した私の足に、突然激痛が走りました。あまりの痛みにその場にうずくまる私。マネージャーやチームメイトに両脇を抱えられなければ足を着くこともままなりません。自分の身に起きた突然の出来事に、私はパニックになりました。奇しくも大きな大会を目前に控えた大事な時期。とにかく急いで受診する事に。診察の結果、「疲労骨折」だということが分かりました。長年の無理と疲れがこのタイミングで表に表れたのです。高校三年、最後の年の最後の大会が、絶望的に思えた瞬間でした。



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医師の診察では、完治までには数ヶ月とのこと。それでは私の最後のシーズンが終わってしまう。なんとかしてくれと泣いて頼みましたが、疲労骨折は時間をかけて骨が自然と修復されるのを待つしかなく、その間走ることはご法度だと言われてしまいました。何の為にここまで努力してきたのか、なぜこの時期にこんな失敗をしてしまったのか。どう頑張っても前向きな考えは生まれてきません。私にとって、それまでの経過が大事なのではなく、重要なのは「記録」であり「結果」でした。それが残せないのなら、もうなんの意味もないと思えたのです。

失意のどん底にありながらも、何とか練習には顔を出していました。ですが、走ることが出来ないのに練習風景をただ見ているだけというのは辛いものがあります。
本来ならあの場に私も居たし、大会に向けて具体的に予想しながら練習していたはずなのです。日に日に私の中には「敗北感」が大きく圧し掛かり、ついには部活に行くことも出来なくなりました。

そんな私を、チームメイトたちがなんとかしようとしている雰囲気が痛いほど伝わってきたのですが、当時の私にはそれを邪険に扱うことしか出来ませんでした。そのまま最後の大会も終わり、私は以後一度もグラウンドに足を踏み入れることなく退部したのです。

退部してから、残りの高校生活はあとわずかでした。
今まで出来なかったことを思う存分やってやろう、陸上で裂かれていた時間を少しでも取り戻そう、と、色々なことをしました。スカート丈は皆と同じくらい短くしましたし、靴下も流行のものを履きました。髪も伸ばしてカラオケや買い物、買い食いなどなど、制約されていたたくさんのことを楽しみました。ですが、楽しいはずなのにどこかで楽しみきれない自分がいるのです。やり残した何かを、いつもどこかに感じていました。

とうとう卒業を間近に控えたある日、チームメイトだった一人が一通の手紙を持ってきました。それは、陸上の監督からの手紙でした。
監督が生徒に手紙を書いたことは初めてだとのこと。あんな形で退部してしまった私に、最後に叱責の手紙なのだろうかと思いながら封を開きました。短いその手紙には、三年間の私の頑張りについて誰もが認めていたこと、最後の大会に出してやることが出来ずに残念だったこと、そして、こんな言葉が書いてありました。「お前は敗者ではなく勝者なのだから、何があっても胸を張って生きろ」。読み終えたとき、色々な想いがこみ上げてきました。

私にとっては結果がすべてだったけれど、最終的にはその三年間のすべてが「私」という人間を作り上げてくれていたのだということに気付かされました。
そして、大会に出る出ないに関わらず、最後まできちんと見届けたかったのだという、本当の気持ちにも気付いたのです。逃げた私を責めることなく追うこともなく、すべてを認めてくれていた恩師に、改めて感謝の気落ちがこみ上げてきました。

そして今、家庭を持った私の子供は陸上をしています。あの頃の私の姿を時に重ねつつ、眩しく思いながら同じグラウンドに送り出しているのです。


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愛犬ムギとの思い出 [感動]

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小さい頃から、「犬が飼いたい」というのが私の夢でした。
私の家には常に2、3匹の猫を飼っている状態だったのですが、犬を飼って一緒に散歩したり、色々なところに連れて行ったりということに対する強い憧れを抱いていたのです。猫の可愛らしさも十分わかっていましたし、猫の気まぐれさや手のかからないところも魅力として好きではあったのですが、やはり犬を飼ってみたいという気持ちは社会人になっても常に心にあったのでしょう。

そんな私は、初給料でついに念願の犬を買おうと決心し、家族の反対を押し切って強硬手段に出たのです。
「世話は私がするから」「お金出すのは私なんだから文句は言わせない」と着々と犬用のアレコレ準備を整えていきました。昔から言い出したら聞かない性格ですので、両親の反対も説得もまったく耳に入りませんでした。

私が選んだその子は、「パピヨン」という種類の犬でした。
ですが、パピヨン独特の顔にあるべき左右対称の柄が無かった為に血統書がつけられず、ブリーダーさんもその子の事をどうするべきか考えているようでした。血統書がつかない=雑種扱いになるのかは私には分かりませんでしたが、だからといってその子の存在価値が変わるとも思えませんでしたので、迷わずそのパピヨンを譲り受けることに決めたのです。

「ムギ」と名前を付けたその子は元気な男の子で、我が家にやってきたその記念すべき第一日目、一番反対していた父の胡坐の中に丸くなって眠るという攻め方をして無事に父のハートを射抜き、その可愛らしさと愛嬌ですんなり家族の一員となったのでした。
白い体に茶色い模様、ふさふさした尻尾を振りながら我先にリードを引っ張って走る様子は、まるで私たち人間の方が散歩に連れて行ってもらっているようでした。

そんな風に一緒に過ごしているうちに、あっと言う間に3年の月日がながれました。その間に私は結婚、出産をして実家を離れていたのですが、たまに帰ったときに喜んで寄ってくるムギを邪険に扱うようになっていました。まだ1歳にも満たない我が子にムギが寄ってくるのを見て、「ばい菌がついちゃう!」と追い払ったこともありました。この頃の私のムギに対する対応は、後悔してもしきれないほど酷い扱いだったと思います。
なぜあんなに大好きだったムギのことを汚いと思ってしまったのか、邪魔者扱いしてしまったのか。駆け寄ってきたムギをなぜ抱いてあげなかったのか。
あの頃に戻ってもう一度抱きしめてあげたいと、今更ながら思います。まさかそのすぐあとに、ムギが病気で倒れてしまうなんて思いもしなかった私は、たくさんの後悔を残してきてしまったのです。


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ある日、ムギが脳の病気に侵されていることがわかりました。
先生曰く、おそらく先天的にこの子がもっていた病気で、それが今のタイミングで暴れだしたのだろうとのことでした。顔にパピヨン独特の模様がないこともそれが理由かもしれないと。気づくのが早くても遅くても、この子が助かる道はなく、発症した途端にその病気はものすごいスピードでムギを蝕んでいきました。
あっという間に立てなくなり、ご飯も食べることが出来なくなり、横たわって息をしているだけのムギ。

ある日、母親から私の携帯に電話がきました。「もうムギは長くないかもしれない。会いに来てやって」と。こんなに早くその時がくるなんて信じられない思いのまま、私はムギに会いに行きました。泣きながら家にたどり着くと、ムギはダンボールに入れられていました。弱々しく息をしているムギに、母が声をかけました。
「ほらムギ、お姉ちゃんが来たよ。」すると、もうずっと立つことが出来なかったムギが、ダンボールの中で立ち上がったのです。小さく尻尾を振って、潤んだ瞳でしっかりと私を見つめています。そんなムギの姿を見て、私たちは全員声をあげて泣きました。後悔と寂しさと、生きてほしいと言う祈りの涙を流しました。
ちゃんと世話をするからと決めたのは私、家族に迎え入れたのも私。なのに、一番ムギを遠い遠い存在にしてしまった私。そんな私に、どこまでも大きな信頼を寄せてくれる。これが「犬」なのだと、これが「命」なのだと思いました。

ほどなくして、ムギは静かに息を引き取りました。病院で数日間点滴をうけ、もうこれ以上苦しませたくないと、その管を引き抜いた数秒後のことだったそうです。硬くなったムギを箱に入れて、体の周りにはムギが好きだったおもちゃやお菓子を入れてあげました。最後に母が、ムギの体に香水をひと吹きふりかけました。海外製のその香水を日本語に直すと、「私はまた戻ってくる」という意味なのだそうです。いつかまた戻ってきて欲しい、きっとまた会えるその日を待っているよ。そんな思いで、庭の木の下にムギを埋めてあげました。
今も静かにその木の下に眠るであろうムギを、時々ふと思い出します。またいつか出会えたら、今度はもっともっと一緒に居ようね。そんな風に思います。


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