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祖母の教え [感動]

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私が小学生の頃、まだ祖母が生きていた時の話です。

祖母は今時珍しく毎日きちんと着物を着ている人でした。
食事は家族と一緒に摂らず、母が毎食お膳に乗せて自室まで運んでいました。
少し頑固で厳格な雰囲気が漂うような女性だったと思います。
歳の割には背筋がしゃんとのびた背の高い祖母。

そんな彼女もやはり年齢には勝てず、晩年には重度の認知症を患っていました。
まだ幼かった私にはよく理解出来なかったようですが、両親は祖母の行動や言動に大変苦労をしたようです。
あるときは粗相した衣類をこっそり浴槽で洗ってしまったこともあったようで、父がお風呂の蓋を開けてみるとそこは汚物まみれになっていたそうです。
認知の度合いが進んでも、プライドの高い部分が祖母には残っていたのでしょう。
粗相した自分が許せない気持ちと、羞恥心がそうさせたのだと思います。

また、祖母はたびたび近所の人にもご厄介になっていました。

いつからそうなったのか分かりませんが、買い物をなんでも「一円」で済ませて来る様になりました。
認知は進んでも足腰は丈夫で歩行に支障はまったく無かった為、少し目を離すと一人で徘徊してしまうのです。

その時、必ず近所の人が見つけて連れて帰ってくれたのですが、いつも孫の私にお土産を買っているのです。
いつも同じ近所の小さな商店で買い物をしているようなのですが、お支払いは毎回「一円」のみ。
それで何でも買えると思っているのです。

近所の皆さんの理解がなければ、と思うと、今でも頭が下がります。
祖母が私に買おうとしてくれたお土産は、当然どれも一円で買えるものではありません。
時には週刊誌、時にはお菓子、たまたま近所を走っていた石やきいものおじさんも一円でやきいもを2本も売ってくれていました。

家族を含め、色々な人に祖母は大変な迷惑をかけてきたと思います。
それが病気のせいだとしても、なかなか理解するのは難しいでしょう。
もともとが気丈な性格の祖母ですから、きっと口調も強く、たくさんの人に不快な思いをさせたと思います。
それでも私は、誰かが祖母を悪く言った言葉を聞いたことがありません。
いつも「おばぁちゃん、おばぁちゃん」と優しく笑いかけてくれていましたし、そんなやり取りを見ているのが好きでした。

ある時、祖母が私に言いました。

「一円玉には神様がいるから、一番大事にしなきゃだめなんだよ」。その時の教えが今の私の心には深く残っているので、一円玉にはなんとなく特別な思い入れがあるのです。


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たった一円では何も買えないかもしれないけれど、一円玉を大切にすることは「お金の価値をしっかり理解すること」のような気がするのです。
一円玉を大事にしないことは、祖母のことを忘れてしまうことのような気がするのです。
幼い私の為に、どこまでも一円玉を握り締めて行ってくれた祖母の後ろ姿と重なるような気がするのです。

祖母が亡くなった日のことは、今でもぼんやりと覚えています。

いつもと同じ朝のはずなのに、親戚がどんどん集まってきました。
今日は一体何があるんだろう?でも、みんなの様子がなんだかおかしい。
楽しいことで集まっている訳ではないのだということが分かりました。
次々と人が集まり始め、みんなそろって祖母の部屋へと向かいます。
あとからこっそり祖母の部屋を覗いてみると、皆泣きながら祖母の枕元で話しかけています。
その様子で私にもなんとなく理解できました。

ああ、おばあちゃんはもうすぐ死ぬんだな。そう思いました。

私は家の外に出て、いつも祖母が座っていた庭の石の上に立ってみました。
その時の空の色は、今でもはっきりと覚えています。
とても青く高く、こんな綺麗な空なのに、私の祖母は死ぬんだろうか。
なんだか信じられなくて、でもきっとその時はもう近い。
そう思うと、自然と涙が溢れてきました。物心ついた私が始めて触れた「人の死」でした。

昨日笑っていた人が明日には居ないということが、「人が死ぬということ」なんだな、と、なんとなく思ったことを覚えています。

大人たちが忙しく葬儀の準備に駆け回っていることに、なぜかとても腹が立ちました。
誰も悲しんでないんじゃないかという風に思えてしまったのです。
大人になった今なら、そういった現実の流れが理解出来ますし、忙しく動き回ることで悲しみを一瞬でも忘れることが出来るのだと言うことも知りました。

ただただ純粋に悲しんでいられたのは、子供の私だけだったのかもしれません。

あれから長い年月が過ぎ、その間にも大事な人たちが旅立って行きました。
一人の人の人生が終わりを告げることの深さが少し分かってきたような気がしています。

お財布を開けて支払いをするとき、あの時私が祖母から教わった「一円玉を大事にしなさい。」という教えを思い出します。
いつか私がこの人生を終えるとき、誰かが私の言葉を胸にしまってくれたらいいなと思っています。
私にとって祖母がそうだったように、私も芯のある凛とした女性として生きて生きたいものです。


一円玉.jpg


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先生のお願い [感動]

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子供の頃は、善悪の判断がつきにくいものです。
これを言ったら相手が傷つくだろうということを予測することも下手なので、悪意はなくてもぽろっとこぼした一言で誰かを深く傷つけてしまうことも多いと思います。
「子供は正直」という言葉を耳にすることがありますが、思ったことをすぐに口に出してしまうという性質を持った、まさに「小さな爆弾」とも言えるのではないでしょうか。
そんな子供たちに、善悪の判断や、相手を思いやる気持ち、言って良いことと悪いことの区別といったことを教えるのは、両親や家族だけでなく、特に子供たちと関わることの多い学校の先生の大切な役目だと思うのです。

私が小学生だった頃、同じクラスに生まれつき髪の毛が生えてこないクラスメイトがいました。
遺伝の関係だと思うのですが、髪の毛だけでなく、眉毛に睫毛、体毛、すべてが生えてこないのです。
そういった特徴のある仲間がいたわけですが、小さな町の小さなその小学校は、ほとんどの生徒が幼稚園からそのまま持ち上がりなので、そんな仲間に対して違和感を覚えることなく一緒に過ごしてきていました。
髪の毛がない頭を衝撃から守る為、その子はいつも網状のネットを被って生活しています。
そんなスタイルも含め、幼い頃から一緒に過ごしてきた仲間の姿はもう私たちにとっては自然だったのです。
他の人の目には一種の驚きをもたらすかも知れないその風貌に疑問を抱く人はおらず、そのことを馬鹿にしたりいじめたりするような子もいませんでした。


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その子は物凄い努力家でもあり、特にマラソンの能力は群を抜いていました。
毎朝お父さんとマラソンの練習をしており、その子に敵う子は誰一人いません。
マラソンに打ち込んだ理由を、「容姿のことで誰かに何かを言われても負けない強い心を作るため」だったと、後にその子のお父さんが教えてくれたことがあります。
子供心にも素晴らしい教育だと思ったことを今でも覚えています。
私たちはその子に髪の毛や眉毛がなくてもおかしいと思ったことはありませんし、馬鹿にする人が現れるなんて思ってもみませんでした。
あまりにも自然に私たちの中に溶け込んでいたのです。

ある日、その子が風邪で学校を休んだ日がありました。
普段あまり体調を崩すことのない丈夫な子でしたので、欠席は珍しいことでした。
その日、放課後のホームルームの時間、担任の先生が「○○のことで話しておきたいことがある」といいました。
改まって、いったいなんだろうと思っていると、先生がこんなことを話し始めました。

「○○に髪の毛や眉毛がないことを、このクラスの皆は誰一人からかったりいじめたりしない。それはとても素晴らしいことです。先生も、こんなクラスを持てた事を嬉しく思う。ただ、これから中学、高校へと上がっていく際、いろんな場面で○○は嫌な思いをするかもしれない。容姿の事で傷つくことを言われるかもしれない。そんな時、どうかみんなで○○のことを守ってやってください。先生のお願いです。」そう言って、私たちに向かって頭を下げました。
このとき、私たち生徒には、一種の強い連帯感のような使命のようなものが生まれました。
これから先、○○くんがいじめられたり笑われたりしたら、必ず私たちが盾になるんだという強い思いがこみ上げてきました。

彼は私たちの前では弱音を吐くことはなく、いつも笑ってクラスの中心にいるような明るい生徒でした。
ですが、家では自分が皆と違うことで悩んだり、買い物などで普段行かないような場所に行くことを嫌がることもあるのだということを知りました。
知らない人の目を気にしているのだという事実を知り、その子の底知れない明るさと強さの裏に潜む弱さや恐怖、疎外感を、幼い私たちは知らないでいたのです。

特に子供の頃というものは、周りと同じであることが何よりも重要だったりします。
みんなと同じがいい、皆とお揃いがいい。そんなことにこだわる時期です。
そんな時に、外見上の違いというものを抱え、それでもその不安を私たちに悟らせずにいた○○くん。
あまりにも自然な姿に気付かなかったけれど、きっと小さな心はいつも小波だっていたことでしょう。
そんな彼の精神的なサポートとして毎日毎日マラソンを一緒に続けていたお父さんの愛情、彼をどうか守っていってほしいと子供の私たちに頭を下げた先生。私たちに出来る最大限のことをしなければならないと思わせられました。

その後私たちは中学、高校と進学しました。

数名が○○くんと同じ高校まで一緒でしたが、彼が嫌な思いをしてしまいそうな場面では、必ずさりげなく傍にいたそうです。
大人になり、外でお酒を飲むことを嫌がる○○くんに対して、「お前がお前を恥じるなら、オレも自分を恥じる」と泣きながら話した友人もいました。
皆、あの時の先生の「お願い」を、今でも守り通しているのです。
それはクラスの全員に課せられた使命なのだから。
彼はその時の先生のホームルームの内容を今も知らずにいるでしょう。でも、それでいいのだと思います。
大切な仲間は、外見がどうであれ何も変わりはないのです。


ホームルーム.jpg


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私らしさ [感動]

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遠距離恋愛というものに、自分は縁がないと思っていました。

もともとそんなに恋愛経験が多いほうではなかったですし、性格的にも外見的にもあまり女性らしいとはいえないと自分でも思っていましたので、こんな自分を好きだと思うようになるには、時間をかけて近くでずっと見てきた人でなければ無理だろうと思っていました。
そうでなければ、私も素直にはなれないし、幼馴染がなんとなくそのまま付き合う形になっちゃった、というのが理想の形でした。
お互いに無理することなく、背伸びすることなく付き合っていって、いずれそのまま無難に結婚してしまって、同じ土地で生まれ育った者同士が同じ土地で死んでいくというのが一番自然なんじゃないだろうかと思っていました。
なんせ私はこんな片田舎から出たことがないので、この土地の言葉や風習がもう身に染みてしまっています。
それを相手によって変えてしまうことは到底無理だと感じていました。

そんな私でしたが、友人、知人は県外にもたくさんいるもので、その中の一人となんとなく付き合う形になってしまいました。
まさか県外の相手と、しかも遠距離恋愛に身を投じることになるとは、まったく予想外の展開でした。
一抹の不安を覚えながらも一年、何とか頑張ってきました。
時々会いにいっては短い時間を一緒に過ごし、その時間を楽しむことも出来ました。
なんだ、意外と自分は遠距離恋愛向きなのかもしれない、まだ続けていけるかもしれない、と思っていたのですが、なかなか事はうまくいかないものです。

一年を過ぎた頃から、小さなケンカが多くなってきました。
なかなか会えないのだから仕方が無いのだと思い、いつも最後は私が折れるようにして収束していたのですが、ある時彼が許しがたいことを言ったのです。
「お前の言葉づかいは汚い。」
それは、私の住むこの土地の方言を指して言った言葉でした。
今まで無理をして標準語を使うように努力してきたし、そんな私に対して、「気にすることないから、そっちの方言で喋っていいよ。」と言ってくれていたのに、ここにきて「言葉づかい」を馬鹿にされたのです。
それは、私自身を否定されたも同然でした。
そのあまりのショックに言葉を失いましたが、好きだという気持ちがあったからか、悔しい気持ちよりも「悲しい」という気持ちの方が大きかった気がします。


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一人で悶々と考え続ける日々が続きました。
そういえば、最近連絡するのはいつも私の方からだったな、ということにもなんとなく気が付きました。

そんな時、いつも私の相談にのってくれていた友人が会いに来てくれ、話を聞いてくれたのです。
友人いわく、いつも私が無理をしているように見えたとのこと。
無理してお金を作って会いに行くけど、向こうがこちらに来てくれることはなかったこと、髪形を変えろ、服装をもっとこうしろ、と、ありのままの私を見てはくれなかったこと、ここまで頑張ってきたのに、「方言」を馬鹿にされるのはルール違反だと、自分のことのように怒ってくれていました。
そんな彼女が最後に私にこう言いました。

「縁のないところに結ぼうとすると、どこかに無理が生じるんだよ。」

それは、なんだかとても腑に落ちる言葉でした。私が私で居られないような付き合いをしていくことに意味はあるのだろうか、お互いを高めあえるのならそれでも良かったけれど、これでは一方的に私が蔑まされて終わるだけだということに気が付きました。

その友人は、中学の頃から私をずっと見てきてくれていました。
だから今更言葉にしなくても分かり合えるし、お互いのいいところも悪いところも分かっています。
そうなるには時間がかかるし、短時間で同じ距離感を感じることが出来る人間はきっと限られているのだということが分かりました。

「あなたはあなたでいいんだよ、言葉遣いが重要なんじゃない。あなたの人柄がちゃんと分かる人なら、方言なんか問題にならない。あなたの本当の気持ちがちゃんと分かる相手じゃなきゃ必要ない。」

そう言ってもらえた時、色々な思いがこみ上げてきて、ついその友人の前で泣いてしまいました。
本当は遠距離恋愛が辛かったこと、自分の言葉で言いたいことが伝えられなくてもどかしかったこと、向こうからも会いに来てほしかったこと、実はずっと不安だったことが、全部溢れ出てくるような気がしました。

その後、私の方からお別れを言いました。
彼は止めることもなく、思った以上にあっさりと納得したようでした。
本当は最後に、思いっきり地元の方言で言いたいことを言ってやろうかと思ったのですが、たぶん通じないだろうなと思って止めました。
この一年ちょっとの遠距離恋愛は、私にとってはやはり辛い思いをしたという記憶のほうが強く残っています。
自分の在り方を恥じた一年でもありました。と同時に、「私らしさ」をちゃんと分かってくれる人が居ることのありがたさ、地元に生きる私を恥じないことを、改めて考え直すきっかけにもなったような気がします。


失恋.jpg


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タグ: 感動 恋愛
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子猫が教えてくれた [感動]

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ある日、我が家に小さな小さな訪問者がありました。
微かなその泣き声は、行きかう車の騒音に簡単にかき消されてしまうほど弱々しく、聞き逃してしまってもおかしくないほどのものでした。
その泣き声に最初に気が付いたのは、小学五年生になったばかりの私の娘で、「お母さん、赤ちゃんが泣いてるみたい」との声に耳を澄ましてみると、確かに小さな泣き声が聞こえるのです。慌てて外の様子を見に行くと、灰色の綿ぼこりの塊の様な存在がうずくまっているではありませんか。
なんだろう?と思って恐る恐る近付いて見たそれは、生まれてそれほど経っていないであろう子ねこだったのです。

小刻みに震える体は痩せ細り、骨が浮き出るほど。
両目は多量の目ヤニでつぶれ、時々か弱いくしゃみをしています。
直感的に、「このまま放っておいたら近いうちに死んでしまう」と思いました。
どうしたらいいだろうと迷っていると、隣にいた娘がすかさずその汚れた子猫を抱き上げ、しっかりとその胸にかかえました。

「お母さん、病院に連れて行って。」

もともと動物好きの私ですので、電話帳で調べた一番近くの動物病院へと車を走らせました。
初めて足を踏み入れたその病院は、明るく清潔感のある綺麗な病院でした。戸惑っている私を、優しそうな先生が診察室へと誘導してくれます。
たどたどしい手つきで診察台にその子猫を乗せると、体重はわずかに400グラム。重い結膜炎と、感染症に犯されていることが分かりました。

病院が準備してくれた子猫用の餌をすごい勢いで食べている姿にホッとした私たち。
保護した猫だと伝えると、「どうされますか?」と聞かれました。

娘に言われるままに病院へ連れて来たものの、その後のことはまったく考えていなかったものですから、すぐに返事をすることが出来ずに迷っていると、ふと壁に貼られたたくさんの里親募集のチラシが目に入りました。

犬に猫、こんなにもたくさんの小さな命が、行く先もなく増え続けているという現実がそこにはありました。
隣で心配そうに子猫を見ている娘。私は、とりあえず里親募集も視野に入れながらいったん自宅へ連れて帰ることに決めました。
その時の安心したような先生の顔がとても印象的でした。

点眼薬と飲み薬を処方され、使い方や飲ませ方をとても丁寧に教えて下さいました。
「無理にお宅で飼われなくても、もし里親募集されるなら当院でも協力しますので」と心強い声をかけて頂きました。
大きな手で優しく子猫を撫でながら、「お前、いい人に見つけてもらったな」と笑う先生の隣で少し誇らしげな表情の娘に、なんだか私もついつい笑顔になってしまいました。


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とは言え、今まで猫を飼った経験の無い私たち。
すべてのことに戸惑ってしまいました。それよりもなによりも、何も知らないまま帰宅した私の旦那は、子猫の姿を見た瞬間に石のように固まってしまいました。
「俺は知らない。俺は何もしない」とまるで無関心。
そんな旦那の態度にがっかりしたりイライラしたり。それに加えて、薬を飲ませる、目薬をさす、トイレをさせる、ご飯を食べさせる…。すべてが手探り状態です。

自宅へ連れ帰ってしまったことを早くも後悔し始めた私。
命を預かるということを安易に考えてしまった自分がとても情けなくなってしまい涙ぐんでいると、娘が積極的に子猫の世話を焼き始めました。

「お母さん、大丈夫だから。お母さんは私のことをちゃんとここまで育ててくれたんだよ。この子は私も一緒に育てるから。」

私の不安そうな顔を見て、何かを感じとってくれたのでしょう。
五年生になったばかりの娘が、急に頼もしく見えました。そしてこう思いました。
この子猫がここにやって来たのもきっと運命。捨てる人がいるなら、私は助ける人になろう。
娘に後押しされたようにも感じました。日に日に子猫は元気になり、少しずつ目ヤニも少なくなっていきました。
ヨタヨタと頼りない歩き方も、次第に力強くなってきました。
小さな目、小さな口、すべてのパーツがミニサイズで儚げなのに、この子はしっかり命をもってここにいる。
そのことが、なんだかものすごく大きな事を伝えてくれているように思える日々。

始めのうちは無関心で否定的だった旦那も、その子が回復していくに連れて情が移ったようで、積極的に手伝ってくれるようになりました。
いつもの日常に、新しい色が増えたようです。

すっかり元気になったその子をきちんと我が家の家族として迎え入れる事を決めた日、娘が私にこんな事を打ち明けてくれました。
「お母さん、私、大人になったら動物のお医者さんになるよ」。キラキラ輝く笑顔で、「キラ」と名づけた子猫を抱きながら言う娘。
キラが我が家に来た時、なんの迷いもなく汚れたキラを抱きあげた時の娘の顔と重なりました。
きっとこの子は、その将来の夢を叶えるだろう。その時、大きくなったキラがまだこの家で元気にしていてくれたらいいな。そんな風に思えたのでした。


子猫.jpg


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タグ:感動 子猫
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