駆け落ちを決意したお嬢様 [感動]
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「昨日のこと親に話してくれた?」
僕はテーブルにつくと真っ先にそう聞いた。
冴香はトレイからアイスカフェオレを移すと、その横にペーパーナプキンを丁寧に重ねた。
少し沈んだ顔をしているのが気になる。
昨晩、冴香にプロポーズした。
交際を始めて2年になり、結婚するのは時間の問題だろうなと思っていたから、プロポーズも緊張しなかった。冴香もOKしてくれた。
僕はすでに冴香のことを親に話していたし、結婚の約束をしたといったら喜んでくれた。
だから冴香の親のことが気になる。
喜んでくれただろうか。
「話したよ・・・ちゃんと。でもね」
「でも?」
飲み物に口をつけようとしない。
「でも?・・・どうした?」
ボサノバの曲が始まって彼女の声が聞き取れない。
「なに?もう一度」
「反対された」
冴香が涙ぐんだ。
ボサノバの軽快なメロディには似合わない顔をして泣いた。
古臭い理由だった。
彼女は大学院を卒業した大学講師。
僕は高卒の工員。
釣り合わないというのだ。
彼女の父は大学教授。
母親は百人以上の生徒をたばねる華道の師匠をしている。
僕の父ももと工員。母は主婦だ。
二人がいいといっても、家同士が釣り合わない。
それが理由。
「冴香もいずれその男のことが物足りなく日が来る。妻は最終的には、夫の社会的地位と収入に安堵するものだ。愛など恋など語ってのぼせていられるのは最初のうちだけ。結婚とはそういうものだ」
と父親が豪語したらしい。隣に座っていた母親も、基本的には同じ表情だった。
僕もとたんに飲み物に口を付ける気が失せた。
紙コップのふちを見つめながら、冴香の鼻水とボサノバの音を聞いていた。
無言の時間が流れた。
「でも、結婚は本人同士の意思でできるはず。僕たちが良かったらそれでいい」
沈黙を破ってそういった。
「そりゃそうだけど。そんなことできるのかしら」
昨日の幸せムードが一気に暗転した。
昨日、これから幸せに満ちた日々が始まるものと信じて疑わなかった。
双方の両親が納得したら、改めて婚約指輪を買おうと決めていた。
彼女のサイズが9号だということもチェック済みだった。
親の横やりなんてどうにでもなるだろう。
なんでそんなに悩む?
そんなに深刻なことなのか?
それとも冴香自身、本音では親と同じ意見なのか?
「君はどう思うの・・・お父さんの発言が正しいと思うの」
ぱっと僕を視た。
その目は僕の心の中をのぞいている。
「どうしてそんなこというの。そんなわけないじゃない」
少しほっとする。
でもこんなに暗い顔をした冴香を今まで見たことがない。
いつも明るくて前向きだったのに。
彼女にとって「親」の存在はとてつもなく大きいのかもしれなかった。
「お父さんに会ってみようかな」
といってみた。
「会って、僕の思いをすべて打ち明ける。きっとわかってくれる」
そういうと、冴香が少し笑った。
「ありがとう」
やっとアイスカフェオレのふたをあけた。
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世田谷にあるしっかりした家だった。
客間に通され、父親を前に冴香と二人で並んでこしかけた。
母親は華道教室のパーティで不在とのことだった。
紅茶を用意したのは冴香だった。
「単刀直入に申します。冴香さんと結婚したく思います。お父さんにも認めていただきたく、ご挨拶にまいりました」
「お父さんですか。まあいいでしょう。では私も単刀直入に言わせてもらいます。娘と別れて頂けませんか。もう会わないでほしいのです」
ゴングが鳴ったと同時に強烈な右フックをくらったような衝撃だった。
いつ倒れるかわからなかった。
思いつく限りの言葉をかき集め、ぶつけた。
「冴香さんが好きです。死ぬほど好きです。絶対に後悔はさせません」
「そんな感情論だけで結婚生活を維持できると思うんですか?」
父親は冷静だった。
冷静にグサッと来ることを語った。
頭もよさそうだった。
僕がひとつ考えている間に十も二十も考える思考力の持ち主に思えた。
次々と的確なジャブを打ってきた。
「古いかもしれませんがね、娘には完璧な幸せを与えてあげたいのでね。新井くん、でしたか?君は本気でうちの冴香を幸せにできると思いますか?精神的、かつ経済的に」
僕はリングに沈んだ。
二人で国道466号線を瀬田にむかって歩いた。
二子玉川駅方向ではないが気にならなかった。
僕は男としても社会人としても自信を無くし、疲労困憊していた。
結婚なんてもうどうでもいいと思えてくる。
結婚せずに、このまま友達のような関係でもいいかななんて考えている。
「だめかもしれないね」
と口にし、顔を上げてまっすぐ前を向いた。
多摩美大の学生がカンバスを抱えて校舎から出て来るのが見えた。
「どうして・・・どうして」
冴香が立ち止まる。
「もう戦ってくれないの?」
僕は止まらなかった。どんどん歩いた。
冴香の父親の言葉を思いだした。
−妻は最終的には、夫の社会的地位と収入に安堵するものだ−
戦えない男に妻を持つ資格はないのだろうか。
今になって考えると、冴香は親の権威や実力によってここまで安寧に生きてきたお嬢様なのだ。つまるところ彼女のバックボーンは親であり、親なくして彼女の過去も未来もないのかもしれない。
結婚を反対され涙するが、どこか親の箴言に従順になろうとする雰囲気もある。父親と対峙したときにも感じたが、冴香は意外に落ちついていた。実の父の前で、もっと取り乱してほしかった。
一晩考えた。
もうこの方法しかないと思った。
これを冴香に提案し、もし同意してくれなかったら別れようと思った。
僕のことを本当に愛し、信じてくれているのなら同意するはずだ。
「一日も早く家を出て、どこかで二人で暮らそう。さっさと結婚しよう。そして入籍しよう。既成事実を作ってしまおう。僕の親を含めて親を無視しよう。そのうちきっとわかってくれる。幸せになれば認めてくれる」
冴香は予想した通り即答はしなかった。
考えたいといった。
1日、2日、3日と過ぎていった。
あれから音信不通だった。
もう返事はないだろう。返事が来ても前向きな内容じゃないだろう。
僕は別れの言葉を考えていた。
そんな矢先、メールが来た。
「大学は辞めたくない。だから家借りるなら都内がいい。私も居場所は親に告げないから、あなたも同じ条件にして。あなたの親御さんも駆け落ちには反対のはずだから、居場所を伝えたら必ずものとの場所に引き戻される」
涙が零れ落ちた。
冴香もなかなかやるなあ、と思った。
それから江戸川区の築10年の賃貸マンションを借りた。
居場所は教えないが、ちゃんと暮らしていることを各々の親には電話で伝えた。僕の父親は「しっかりやるんだぞ」といってくれた。
入籍も済ませ、正式に夫婦となった。
好きな人と一緒に暮らせる幸福。
いろいろ壁もあったが、僕たちはちゃんと乗り越えた。
ある種の夫婦のほこりみたいなものを感じていた。
やがて長男が生まれた。
冴香の母親から
「孫の顔を見せに遊びに来なさい。お父さんも、もう怒ってないわよ」
というメールが来たのは、駆け落ちから1年半後のことだった。
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ミカリンが母になった日 [感動]
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「最近ムカムカするんだけど」
とお腹をさすりながら寝室に入ってくるミカリン。
胃の具合が悪いなんて結婚してから一度もなったし、結婚前もなかった。
「だいじょうぶ?」
ベッドの中から声をかける。
「と思うけど」
本当に胃が悪かったらそんな平然とした表情していないし、手のひらに就寝前のクリームを塗るしぐさもいつもと変わらないので、僕も布団の中に深々ともぐりこんだ。
「電気消す?」
「うん。もう寝る。明日早いから」
僕の妻、美香の愛称はミカリンだ。
出会ったとき、彼女の一歳下の妹が「ミカリン」と呼んでいたので僕もまねするようになった。
美大を出てイラストの仕事をしているせいか感性豊かで雰囲気も個性的なので「ミカリン」という呼び方が妙にフィットする。
本当にミカリンという名前なのではないかと思うこともある。
結婚して4年目を迎えた。
僕は35歳。ミカリンは31歳になっていた。
子どもはいない。
結婚後4年もたてば子供がいてもおかしくない。
でも、そのことで焦ったことは一度もなかった。
というか、子どもがほしいと思ったことがないのだった。
計画的に子作りをする意思もなく、自分たちのことだけを考えて暮らしてきた気がする。
「私、子どもいらないから」
とミカリンは平然といい放つ。
女性は子どもを欲しがるものだと漠然と考えていたけど、そういう生き方もあるんだなと思い、4年間ミカリンに合わせてきた。
別に不満はなかった。
子どものいない生活は気楽で楽しかった。
「子ども作るんなら早いほうがいいわよ」
とミカリンの母からいわれたことがある。
彼女の他の親戚も勝手なことをいった。
「美香は変わってるからな。小さい頃からそうだったけど」
「絵の才能があっても、ママになる才能はないってわけね」
僕の父母にいたっては、結婚して子どもを作らない人間は犯罪者のようないいかたをする。
だけど二人に危機感はなかった。
僕はミカリンの生き方を支持した。
ところが神様はよく考えているものだ。
下界にいる人間に平等の愛を与えるが、試練も平等に与える。
神様はお気楽に生きようとする人間に待ったをかけるようだ。
ミカリンのムカムカの原因は、妊娠だった。
もしやと思って妊娠検査薬を試してみたところ、陽性反応のハートマークが出たらしい。
「本当なの?」
僕は正直嬉しかった。父親としての正直な気持ちだった。
「ああ、本当に妊娠してたらどうしよう・・・」
少し顔をゆがめるミカリン。
「ミカリンは嬉しくないの?」
「ママになるのが嫌」
「そんなこと、子どもに失礼だよ」
しっかりしろといいたくて、両肩を強くつかんだ。
神様はミカリンのわがままを許さなかったのだ。
陽性反応が出た週末、産婦人科に検査に行った。
妊娠3か月に入ったところだといわれた。
ミカリンに赤ちゃんができたことはたちまち親戚縁者に広まった。
「よかったねえ。4年もあきらめずによく頑張ったねえ」
「美香ちゃんてどんなママになるだろうね。想像できない」
みんな、自分の思惑で好き勝手なことをいった。
ミカリンはつわりと戦いながら
「なんでこんな思いをしなきゃならないの」
とブルーになっていたが、少しずつ大きくなっていくお腹を見るうちに
覚悟が決まったのか、自分の妊娠を自覚し、前向きになっていった。
もともと細身の体なので、丸く突き出たお腹が重そうだった。
よくそんな状態で生活できるものだと思う。
「こんなにパンと膨らんで、どんな感覚なの?」
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「どんな感覚って・・・中に赤ちゃんがいる感覚。ときどきね、チチチッって音たてるのよ」
ミカリンの話では、お腹の奥の方からときどきチチチッと音がするらしい。
「何の音だろう」
そっとお腹の表面をさすってみる。
「嬉しくて笑ってるんだと思う」(笑)
「まさか。胎児が笑うかよ」
「笑ってるの。私はそう信じてる」
「ミカリンらしい発想だけど」
ミカリンの骨盤が狭く、赤ちゃんが産道を通れない可能性があることがわかったのは臨月に近づいてからだった。
「帝王切開が安全です」
「帝王切開って・・・お腹切るの?やだああ・・お腹切るなんて」
顔面を蒼白にして泣きじゃくったが、そのほうがはるかに安全と説明され同意書にサインした。
手術の予定日は11月20日だったが、ミカリンの調子がよくないため、3日早めて11月17日に実施することになった。
臨月に入ってから、ミカリンはきついといって横になることが多かった。
「13時が手術なの・・・あと1時間かな」
病院の静かな個室でミカリンと会話。
優しいバロック風のBGMが流れている。
「頑張ってね、ミカリン」
「もうちょっとで、楽になれるから」
少しむくんだ顔が静かに笑った。
12時30分すぎると、看護師が来て麻酔室に連れて行った。
誰もいない病室で一人待っていた。
正直、赤ちゃんのことよりもミカリンのほうが心配だ。
赤ちゃんは取り上げるだけだし、産道を通る負担もないからきわめて安全だろう。
しかし母体は腹を切るのだ。
13時になったが、しんとした病室で何が始まるでもなかった。
時計の針が13時になったというだけのことだった。
13時11分だった。
部屋の電話が鳴った。
出ると手術室からだった。
血が引いた。
直感的にミカリンに何かがあったと思った。
それとも子どもに異常があったのか?
何のトラブルだろう。
「もしもし。ご主人さまですか?お嬢様が誕生されましたよ!おめでとうございます」
電話のむこうから空気を切り裂くような産声が聞こえた。
目を閉じて息を吐いた。
「ミ、ミカリ・・いや、その、何だっけ。妻は大丈夫ですか?」
「問題ございません!」
電話を切ると、うるっと涙がこぼれた。
ミカリン、よくやった。
よくここまで頑張った。
それから1時間ほどして、手術台に乗ったミカリンが出てきた。
看護師さんが娘を抱いていた。
娘は2,638グラムで小柄だった。
体全体が真っ赤で、狂ったように泣き叫んでいた。
ミカリンも泣いていた。
かつてこれほどの涙を流したミカリンを見たことはない。
「ごくろうさん・・・痛かった?」
涙は腹を切った痛みからくるものだと早計していたが、そうではなかった。
「痛くない」
「じゃあなんで泣いてるの?」
「安心したから・・・ちゃんと赤ちゃん産めたから」
母の責務を果たした女の涙だった。
ずっと不安だったのだろう。
親戚の声を思いだした。
「美香ちゃんてどんなママになるだろうね。想像できない」
どんなママって、こんなママだ。
立派なママだ!
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忘れられない祖父の思い出 [感動]
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私はいわゆる「おじいちゃん、おばあちゃん子」で、小さい頃は忙しい両親に代わって祖父母が私の面倒をよくみてくれていました。
特に祖父はとにかく優しくて、叱られた記憶はほとんどありません。
働き者の祖父は、私が登校する時間から帰宅する時間まで外で畑仕事をしたり庭を造ったり、木を切ったりしていました。
私が学校から帰ると、決まって玄関先に腰を下ろしてタバコとコーヒーで休憩していました。
夏の暑い日の夕暮れに、祖父と一緒にホースから水を巻くのが日課になっていて、それがなんだかとても楽しかったことを今でも覚えています。
優しくて暖かい祖父は、ちょっと天然キャラな部分があり、遊びにきた友人たちの人気者になっていました。
そんな風に誰からも愛されるような祖父はいつも私の自慢であり、心から尊敬出来る人でもあったのです。
そんな祖父の小さな変化に気付き始めたのは、私が社会人になってしばらく経った頃でした。祖母と一緒にお墓の草むしりに出かけた祖父。
二人でお墓周りの草を片付け、一足先に祖父が車に戻って祖母を待っていたのだそうですが、祖母が遅れて車に戻ると、運転手であるはずの祖父が助手席に座ってボーっとしているのです。
祖母は車を運転することが出来ませんので、祖父のいたずらだと思ったそうです。
「じいさん、私運転できないよ、どうしたの?」と声をかけると、助手席に座っているつもりがないような口ぶりの祖父。
なんだか変だな、と、祖母は思ったそうです。
それから、なんだか変だな、と思える行動が少しずつ増えていった祖父。
真夏の暑い日に真冬の格好で起きてきたり、友人との約束をまるで無かったことのようにすっかり忘れてしまっていたり、あんなに温和な祖父が急に怒鳴りだすようになったり…。
普段忙しくて家にあまり居ることのない私の父でさえ、祖父の変化に気が付き、ある日病院へ連れて行きました。
診断結果は「アルツハイマー型認知症」とのことでした。
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年齢的にも予想していたことではありますが、実際に自分の祖父が認知症だと専門家の口から聞いてしまうと、さすがに家族のショックは大きかったように思います。
責任感が強く、老人クラブの会長を務めるような祖父だったのに、大事な約束を嘘のように忘れて相手を罵る様になってしまったり、あんなに大好きで一番風呂に入るのを楽しみにしていたのに、お風呂に何ヶ月も入らないようになってしまいました。
何より私が一番ショックだったのは、当時介護の仕事をしていた私が、自分の祖父の面倒をどう見ていいのか分からなくなってしまったことです。
他人の介護なら何の疑問も抱かず出来たのに、いざ相手が祖父となると、手が前に出ないのです。
「元気な祖父」のイメージが自分の中にはあるので、心のどこかでボケてしまった祖父を受け入れたくなかったのでしょう。
日に日に症状が悪化していく祖父。
何も出来ない私。
主な介護者は、同じく年老いた祖母でした。
何かしなければならない、私がやらなければならない。
そう思えば思うほど構えてしまい、うまく体が動かないのです。
そんな自分がとても嫌でしたし、誰よりも祖父に対して申し訳なく思いました。
そんなある日、今でも忘れられない出来事が起こりました。
祖父が私に向かってこう言ったのです。
「お嬢さんはどこの娘さん?早く帰らないと叱られるよ」。
とうとう、祖父は私のことも分からなくなってしまいました。
「孫」の存在は認識しています。
ですが、それが「目の前にいる私」だという認識はもう出来なくなってしまったようです。
あんなにかわいがってくれた祖父が、私の顔も分からなくなってしまった。
その時の衝撃はどれほど大きかったことでしょう。
ついにここまできてしまったのか。
その思いが、私の中の何かを変えました。
祖父に残された時間はどれくらいだか分からないけれど、でも確実に今よりどんどん祖父は遠い人になっていくだろう。
このままでは絶対に後悔する。
その想いが、動かなかった私の体を動かしたのです。
まずは食事の手伝いから始めました。
なんとか自力で食事が摂れる状態ではありましたが、食べこぼしが多くすぐに手が止まってしまう祖父にその都度声をかけ、その手に茶碗を持たせました。
失禁が多くなり、そのことに気が付かない祖父の紙パンツの交換。寝る前の着替えの手伝い。
一度やり始めたら、なぜ今まで戸惑っていたのだろうと不思議に思うほど、私は祖父のお手伝いをすすんですることが出来るようになりました。
私が介護の仕事を目指したのは、この日のためだったのかもしれないとさえ思いました。
祖父はそれから二年後、病に倒れ、病院のベッドの上で生涯を閉じました。
入院して間もない頃、私のことをもう完全に他人として認識してしまっていた祖父でしたが、病室の窓から見える山を見て、「ほら綺麗な山だよ、あなたに見せたいと思っていたよ。」と笑ってくれました。
そのことが今でも忘れられません。
元気だった頃も認知症を発症してしまってからも、私は一度として祖父を嫌だと思ったことはありません。
どんな祖父も私の大好きなおじいちゃんで、今は写真になってしまったけれど、朗らかな笑顔で私を見てくれています。
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大切な友達とのこと [感動]
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私が通っていた小学校はいわゆる「田舎の小学校」で、自然に囲まれた緑豊かな土地に静かに立っていました。
クラスは各学年ひとクラス、小学校六年間はクラス替えも無く、卒業までそのまま持ち上がりの形だったのです。
田舎の子供はおおらかで素朴な子供たち…そんなイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。
確かに、近くに山や川があるため遊ぶ場所に困ることはなく、時には野うさぎに遭遇したり山へ探検に行ったり、思春期の敏感な子供を育てるにはとてもいい環境だと言えるかもしれません。
ですが、だからと言って何も問題が起こらないという訳では決してなく、子供間に生じる問題に、田舎も都会も大差は無いような気がします。
実際私のクラスにも様々な問題はありましたし、中でもある女の子に対する「いじめ」のような状況は長期に渡って続いたと思います。
その女の子は、名前をなつみちゃん(仮名)と言い、物静かでとても穏やかな性格をしていました。
背が高くほっそりとスタイルのいい子だったことを今でもよく覚えています。
そんななつみちゃんには、ある「クセ」がありました。
時々、瞬きをパチパチッ、パチパチッと繰り返したり、首を左右にかくんかくんと傾けたりするのです。
無意識に「うん、うん」と唸っているような声を出すこともありました。
それは「チック症」という症状による不随運動で、本人の意思とは関係なく起こるものでした。
一説には神経が人より細やかで繊細な子供に多く見られるという説もあるようです。
しかし、当時幼かった私たちにはそんなことが理解出来ず、「なつみちゃんは変な人だ」というレッテルを貼ってしまっていたのです。
なつみちゃんはクラスでも孤立した存在になってしまい、移動の際も下校の際もほとんど一人でした。
あからさまに無視をするとか暴力を振るうとか、物を隠す、壊すなどの行為こそなかったものの、なんとなく皆親しくしたくないといった空気が蔓延していたように思います。
実は、私の祖母となつみちゃんの祖母は昔からの友達で、幼稚園の頃はなつみちゃんとばかり遊んでいました。
家も近所だった為、いつもどちらかの家で過ごしていました。
その頃からなつみちゃんにチックの症状があったかどうかは覚えていませんが、私にとってなつみちゃんは大切な友達だったのです。
それが小学生になり、なつみちゃんよりも親しい「親友」と呼べる存在が出来、少しずつなつみちゃんとの距離はひらいていきました。
自己主張をあまりしない性格のなつみちゃん、私が違う友達と仲良くしていても何も言わず、ただ静かに過ごしていました。
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少しずつなつみちゃんが一人ぼっちになっていって、私は後ろめたい気持ちを隠し持ちながら、それでも見ないふり、気付かないふりをしていたのです。
ひとりでいるなつみちゃんに対して申し訳ない気持ちを抱いていても、その状況を変えようとする勇気が当時の私にはありませんでした。
そんな時、ある事件が起こりました。学校から帰ろうと外へ出ると、校門の外でなつみちゃんがクラスの女子数名に取り囲まれているのです。
何事かと思って近付いていくと、クラス内でも気の強い子がなつみちゃんを責めています。
どうしてそんな事態になっているのか分かりませんでしたが、そのただならぬ雰囲気に声をかけることが出来ません。
なにも言わずにただ俯いているなつみちゃん。
その手から、一人がランドセルをもぎ取り、近くの川に投げ捨てました。
誰もがあっけにとられてその様子を見ています。
それまで石のように固まって動かなかった私の体が少しだけびくりと震え、その次の瞬間、私はランドセルが流されていこうとしているその川に飛び込みました。
悲鳴をあげる女子の声を背中で聞きながら、なんとかランドセルを掴んで川から戻りました。
私はずぶぬれになりながらなつみちゃんにランドセルを手渡し、誰にも何も言うことが出来ず、そこに呆然と立ち尽くすだけでした。
私の様子を見て泣き出す子もいれば逃げるようにその場を立ち去る子もいました。
気付くと、私はなつみちゃんと並んで黙って一緒に帰宅の途へついていました。
ポツリとなつみちゃんがひとこと「ありがとう」とつぶやきます。
同じようにポツリと私も「ごめんね」と返します。
会話はその二言だけでした。
きっと私もなつみちゃんも、他に何を言えばいいのか分からなかったのだと思います。
もっと責めたかったはずなのにそれをしなかったなつみちゃん。
それが彼女の優しさであり、強さなのだと知りました。
それから卒業まで、残されたわずかな時間で私たちが元通りの仲に戻ることはありませんでしたが、なつみちゃんと私の間には、なんとなく通じるものがあったように思います。
後悔と反省は、似て非なるもの。
後悔の延長線上に「反省」することが出来るかどうか。
それでその先は大きく変わるように思います。
私は、あのもの静かななつみちゃんにそんなことを教わったような気がするのです。
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