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老人ホームへのボランティア [感動]

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私たちは、いわゆる「戦争を知らない世代」と言われています。
生まれたときからなんでも身の回りに揃っていて、何不自由なくここまで過ごして来ることができました。
どうにも出来ないような天災を除き、個人的な不運やトラブル、ちょっとした小さな幸せに一喜一憂し、時には「私って駄目な人間だ」「私には何もないんだ」なんていうセンチメンタルな気持ちに悩んだこともあますが、総じて「幸せ」な日々を過ごして来ることができたと思っています。


ただ、そんな毎日を送れること、当たり前のように明日がくるということが、実は誰かの犠牲の積み重ねの上にあるのだと言うことも確かなのではないでしょうか。


まだ私が学生だった頃、学校の課外活動の一環として老人ホームへの慰問やボランティアにお邪魔する機会が多くありました。
小さい頃からおじいちゃん、おばあちゃん子だった私ですが、老人ホームのあの独特の雰囲気や匂い、なんとなく自分たちの過ごす日常とはかけ離れた世界のような印象を受け、その活動があまり得意とは言えませんでした。


学生の私たちに出来ることと言えば、施設内のちょっとした掃除や洗濯の手伝い、そして、入居者たちの話し相手になることでした。
掃除や洗濯なんかはいくらでも出来ましたが、入居者たちを相手に過ごす時間は私にとってとても苦痛でした。
まともに会話が成り立つ相手ではあるのですが、どうしても同じ話の繰り返しだったり、急に感極まって泣き出してしまわれたりするとどうしていいかまったく分からずパニックです。

特に困ってしまったのが、「戦争」の話をされたときです。

テレビの再現ドラマや、毎年終戦記念日になると組まれる特番で何度か見たことがあるので、戦争の悲惨さや恐ろしさ、そういったことに対しては私なりに理解しているつもりでした。
しかし、実際に経験した人から当時の話を聞くと、なんだか分からないけれど「違和感」を感じてしまうのです。
このおじいちゃんがそんな勇ましいことを?と、どうしても結びつかないのです。

今、こうして誰かの手を借りなければ身の回りのことが出来ない人たちが、本当に…と。
きっと、心のどこかで私はひとつの「物語」のように受け取ってしまっていた部分があるのだと、今にして思います。


そんなある時、私たち学生は、入居者の方々、スタッフの方々に向けて歌の発表をする機会を設けてもらいました。
話し相手になるよりはこちらのほうが気が楽だと思い、その日は随分リラックスして参加することが出来た私。
家に帰ったらあのテレビ番組を見ることができる、なんてのんきに考えていました。

私たちが歌ったのは、誰もが口ずさめるような童謡です。
入居者の多くが手拍子をしながら聴いてくれていましたが、ある人が途中から歌を口ずさみながら涙を流していることに気が付きました。
周りをよく見ると、そのような人がたくさんいるのです。
またいつものように何か思い出したのだろう、いつものことだ…と思っていました。


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けれども、その施設からの帰り道で、同行していた先生からこんな話を聞きました。
泣いている入居者の中でひとり、違った意味で泣いていた方がいたのだということ。

多くの人が昔を懐かしみ、思い出し、切なくなって泣いている中、その人だけは私たち学生に対して「悔しい」という想いを抱いて泣いていたのだのというのです。

自分の子供が生きられなかった年月を生きている私たちに対する悔しさ。
歌を歌うことさえも注意されていたあの頃、歌は何よりも自分の支えだった。

その大切な歌を、何の気持ちも込めずに歌う私たちへの怒り。
その方は気が付いていたのだそうです。
私たち学生の多くが、「仕方なしにボランティアに来ている」という事実に。

そして、もしこれからもそんな気持ちなら、もう二度と来ないで欲しいと、何度も何度も先生とスタッフの皆さんに掛け合っていたのだそうです。


そのことを聞いて、私は心底恥ずかしい気持ちになりました。

すべて見抜かれていたのです。
二度と来ないで欲しいと拒否までされたのです。


私たち学生の多くが、そのことを聞いてとても深く反省しました。
気持ちを入れ替える必要性を、素直に感じたのです。


その後も私たちは慰問を続けましたが、今までとは違う気持ちでその施設を訪れるようになりました。
私たちに対してどの方が悔しい想いを抱いたのか、それは特定することは出来ません。

ですが、誰に対してもそれまでのようないい加減な気持ちで接することはなくなりました。
すると、不思議なことに、今までわずらわしいと感じていた様々なことがとても暖かく感じられるようになったのです。

手を握られれば嬉しいと思い、泣いている方を見ると胸がきゅっと痛みました。
それは同情ではなく、心が近付いた証拠なのだと、先生は私たちに教えてくれました。


この人たちが居たから今の私たちが生きているんだということ。
感謝や敬意、そして、どんなに歳をとって行動がのんびりになってしまっても、尊敬の気持ちを持って接することの大切さは、一緒に過ごしてみなければわからないことなのかもしれません。


老人ホーム.jpg


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雪ころがしの雪だるま [感動]

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これは私の友達Rちゃんが経験したと言う話です。

Rちゃんは小さい頃から体が弱く、すぐに高熱を出したりしていました。

遠足や運動会はほとんど見学。
まり入れなら大丈夫だろうと思って参加すると、運動会が終わる頃には顔色が真っ青になって保健室へ・・というようなことばかりだったそうです。
生まれてすぐに大手術を経験していることもあり、Rちゃんのご両親はまるで真綿にくるむようにしてRちゃんを大事に大事に育ててくれていた様子。
それがRちゃんには時にとても重苦しく、そして煩わしく思えてならなかったそうです。

私は小さい頃から風邪を引くのでさえ年に数回程度という「健康優良児」でしたので、ちょっぴりRちゃんが羨ましくも思えました。


そんなある冬のこと。
Rちゃんは急に高熱を出し、何日も何日も熱が下がらないという日々を送っていました。
数日の入院にてようやく落ち着き、無事退院できたものの、自宅療養を余儀なくされてしまったのです。

その年は珍しくRちゃんが住んでいる町にとって大雪の年で、外は一面美しい雪景色が広がりました。
あんなにどこまでも広がる銀世界を見たのは初めてだったと、Rちゃんは嬉しそうに教えてくれました。

私は東北出身なので、雪を見るのも嫌なくらいなのですが…。
とにかく、そんな雪がとても魅力的に見えたのだそうです。


Rちゃんはご両親にお願いしました。
一緒に雪だるまを作りたい、と。

小さい頃に大好きだった雪だるまが出てくる絵本。
あの絵本に出てくるような、大きくて優しそうな雪だるまを作りたい。
そうおねがいしたRちゃん。

ですが、当然ながらご両親がそれを許してくれるはずがありません。

何日も何日も高熱で意識が混濁していた娘を、こんな雪の中に出すでしょうか。
それが意地悪ではないことは、大人になった今なら分かりますが、当時はまだまだ幼かったRちゃん。
お父さんとお母さんは自分がまた熱を出すと面倒だから許してくれないんだ。

そんな風に思ってしまっていたんだそうです。

ご両親の気持ちも、Rちゃんの気持ちもどちらも分かります。
お互いの気持ちがすれ違うということは、背景にどんな理由があったとしても切ないものです。

まして愛してやまない愛娘の些細な願いもかなえてあげられないとなると、ご両親はきっと身を裂かれるような気持ちにもなったでしょう。

ですが、Rちゃんはその時、自分の弱い体は両親のせいだと腹を立て、しばらく口を利かなくなってしまったのだそうです。


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話しかけられても完全無視。
それでもご両親は怒ることもなく、ただただ気まずい空気の中で家族は過ごしたそうです。
いつまでも腹の虫が収まらないRちゃんでしたが、ある日妙なことに気が付きました。
Rちゃんの部屋の窓から見える花壇のところに、小さな雪のボールがころがっているのです。

その時のことを、Rちゃんは、「フンころがしみたいに、雪ころがしっていう虫がいるのかと思った」と笑いながら教えてくれました。
雪ころがしという虫を思い浮かべるあたりがRちゃんらしいところです。

その雪のボールは毎日そこにあり、なんとなく少しずつ大きくなっているようでした。

雪ころがしがころがしているんだなぁと思うとなんとなく面白くて、Rちゃんはそのボールを毎日観察するようになりました。


数日間変化が無いときもあれば、急に大きくなったようなときも。
そして気が付くと、そのボールはとても「雪ころがし」という虫が転がせるような大きさではなくなっていたのです。

それはまだまだ大きくなっていきました。

そして、ある日その大きなボールの隣に、また小さな雪のボールが生まれていたのです。
その小さなボールも少しずつ大きくなっていきました。

そしてとうとうある日、それはふたつ重なり、大きな大きな雪だるまの形になりました。

その翌日には片方に目が入り、もう片方の目も入りました。
鼻の部分にはオレンジ色のにんじんが刺さり、微笑む形に口も出来上がりました。

最後にバケツの帽子をかぶったその雪だるまは、昔読んだ絵本の雪だるまにそっくりだったそうです。


Rちゃんは、途中からすでに気が付いていました。

その雪だるまは、毎日遅くに仕事から帰ってきたお父さんが少しずつ少しずつ作ってくれているのだということに。
自分が出来ない変わりに、毎日疲れて帰ってきているはずなのに、夜中に一生懸命に雪だまを転がしていることに。


出来上がった雪だるまは、緑色のマフラーを巻いていました。
それはRちゃんが使わなくなったマフラーです。
それを少し編み足して雪だるまに巻いてくれたのはお母さんでしょう。
両親の切ない気持ちを思うと、なんだか聞いていた私まで胸がきゅんとなってしまいました。


それから数年後、Rちゃんはもうあの時のように体調を崩すこともなくなり、すっかり元気に成長しました。
毎年ご両親とその時の雪だるまの話をしているそうです。

「雪ころがし」という虫の話は、もう欠かせない笑い話になっているとのこと。
いつか私もRちゃんと一緒に「雪ころがし」になって大きな大きな雪だるまをつくりたいなぁと思っています。


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車椅子と不良 [感動]

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体に障がいを持つ人と関わる機会というものは、案外あるようでないものではないでしょうか。

なんとなく自分とはあまり関係の無い話だと、テレビで見るような話だと思っている人も少なくないかもしれません。
私も中学まではそういった気持ちでいました。
周りは当たり前のように皆五体満足で、特に体が弱かったりという仲間もいませんでした。
一緒に遊ぶこと、出かけること、学ぶことが当たり前。
皆一緒が当たり前。
そんな感覚で過ごしていました。

そんな意識が変わったのは、高校に入学してからのことです。

こんな身近に障がいを持つ人が現れるとは思ってもみませんでした。


私が入学したのは私立の女子高です。
歴史ある古い校舎と、校門に建てられた設立者の銅像が目印の、いわゆる「お嬢様学校」でした。

挨拶や目上の方への対応にはとても厳しい学校で、淑女としての在り方、佇まいを細かく指導されていました。
そんな学校ではありましたが、やはりどこにでもいわゆる「不良」は居るもので、当時も同学年に数名「怖い雰囲気」を醸し出している人がいました。

髪型や制服の着方、授業中の態度や先生方への接し方など、事あるごとに注意されている様子を、いつも遠巻きに眺めていたものです。


そんなある日、私のクラスに転校生がやって来ました。
その子は、一度見たら忘れられないような特徴のある子でした。
なぜなら、車椅子に乗っていたからです。

肌は青白く少しぽっちゃりとした外見と、あまり笑わなそうな暗いイメージと、無機質な車椅子のその様子は瞬く間に話題になってしまいました。
当時はバリアフリーが今のように充実しておらず、私の学校にもそのような設備は整っていませんでした。


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幼い頃に事故で両足の機能を失ってしまったというMさんは身の回りのことはほとんど自分で出来るようでしたが、唯一階段を上ったり降りたりする際は人の手を借りなければなりません。

数人で車椅子を抱えて移動するのです。

初めのころは主に男の先生がその役割をしていましたが、Mさんがクラスに馴染んでくるとクラスメイトたちが交代で手伝うことになりました。

なんせ車椅子を見ること自体が初めての私たち。
戸惑いながら恐る恐るといった感じで手伝っていたのですが、徐々にそれが「私達の使命」のように思えてきました。
皆が率先して車椅子を抱える役割を果たそうとしていましたが、クラス内の「不良」と呼ばれているメンバーたちは決して手伝おうとしませんでした。
それどころか、「遅い」「邪魔」という言葉を口に出すことさえあったのです。

私達のほとんどがそんな彼女たちに対して憤りを感じていましたが、誰も直接注意することはありませんでした。

Mさんも、「私のせいで嫌な思いをさせている」と、申し訳なさそうに俯きながら階段を抱えられていました。


そうして数ヶ月が過ぎた頃、学校の入り口にある短い階段に手作りのスロープが設置されたのです。
技術の先生の手作りの木のスロープ。

それが設置されたということ自体が私たちにとっては大ニュースでした。
まだまだ介助しなければならない場面のほうが多いけれど、そのスロープが設置された一箇所だけは自分で上ることが出来ると、Mさんは顔を綻ばせて喜んでいました。
Mさんにとって、クラスメイトに迷惑をかけているという気持ちはどうしてもあるようで、玄関だけは自分で…。
という意思でそこを通っているようでした。

私たちも、あえてその部分だけは手を貸さないようになりました。


そんなある日、部活ですっかり遅くなって帰ろうとしていたときのことです。
玄関で靴を履き替えようとしていると、例の不良グループがスロープに腰をかけて雑談している様子が目に入りました。
出来るだけ関わりたくないメンバーでしたので、出るに出れずにいた私。
彼女たちが早くそこから去ってくれないだろうかとヤキモキしていると、そこに技術の先生が通りかかりました。
彼女たちを注意してくれることを祈りながら様子を見ていると、こんな言葉が聞こえてきました。


「先生、これ(スロープ)作ってくれてありがとう。でもここちょっと歪んでてだめだよ」


そう言ってスロープの不備を指摘しているのです。
思わず身を乗り出すようにして聞いてみると、なんと、そのスロープの設置を学校側に打診したのが彼女たちだったのです。
手伝ってあげるだけでは女子の力では限界がある。
もっと学校側に出来ることがあるはずだ、と、彼女たちが訴えたのだということがわかりました。
私たちが、誰よりMさんが一番喜び、必要としていたものを生み出すきっかけが彼女たちの声だったのです。
そして、「私たちが頼んだことは、絶対に誰にも言わないように」と念を押している声まで聞こえて来ました。


それは彼女たちの精一杯の応援と優しさ、そして強がりだったのでしょう。
その後も彼女たちがMさんを手伝うようなことはありませんでしたし、相変わらずでしたが、もう彼女たちを「不良」という目で見ることはありませんでした。
誰よりも優しく、恥ずかしがり屋だということが分かってから、自分の中でも何かが変わったようでした。
そして、ただ手を貸すだけが優しさではないのだということを彼女たちに教わったような気がしたのです。


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捨てられた命の重さ [感動]

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ペットは私たちにとって素晴らしいパートナーであり、かけがえの無い家族であり、とても身近な存在です。
私の家ではずっと猫を飼い続けていました。
猫が生活の中から途切れたことはなく、そのほかにもハムスター、金魚、ウサギ…。
たくさんの動物と触れ合いながら生活してきました。


ある日、父の友人が活動している「動物保護団体」の譲渡会に行くことに。

保健所から引き取って保護している犬や猫の里親を探したり、世話をしている団体で、父も時々その活動を支援しているようでした。
その団体が定期的に開催している譲渡会、以前から興味があった私はこのタイミングに是非連れていって欲しいと父に頼んだのでした。

足を運んだその先には、たくさんの犬や猫たちがゲージの中で私たちを待っていました。

まだ小さい子猫、子犬から成犬、成猫まで、種類も雑種のみならずおそらく血統書つきだろうと思われるような子まで、実に様々でした。
ホワイトボードには、その場に連れてこられなかったであろう子達の写真や情報がたくさん掲載されています。
私が知らない現実が、そこでとてもリアルに感じられました。


ゲージに入れられている子達は眠っていたり、元気そうにくるくるまわっている子もいましたが、隅のほうで不安そうに小さくなっているような子もいました。


そんな中、私が目を引かれたのは、ある白い子犬です。
少し広めのゲージにそっくりな白い二匹の子犬の姿。
片方は、人々に向かってキャンキャン吠えているのですが、もう片方は少しビクビクした様子で上目遣いに行きかう人たちをみています。
なんとなくその様子が気になってその場から離れずに居ると、父の友人のKさんが挨拶にきてくれました。

Kさんはとても優しそうな女性で、この団体の責任者でもあります。
なんとなくこの白い子犬たちのことを聞いてみると、おそらく兄弟らしく、二匹一緒に捨てられていたのだそうです。
片方は凶暴な面もありながら元気なのだそうですが、もう片方は常に何かを怖がっており、職員にもなかなか心を開かないのだとか。

おそらく男性に殴られたことがあるようで、男性職員がふと手を動かすだけでビクッと体を硬くし、しばらく震えているのだそうです。
そんな状態もようやく落ち着き始め、この子にとっては初めての譲渡会なのだとか。


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なんだかどうしてもこの子のことが気になり、その日以来、都合をつけて会いに行くようになりました。

私の家にはすでに猫が二匹いましたので、飼ってあげたいけれどそれは難しいのです。
父には情が移るからむやみに行くものではないと注意されましたが、あの日の様子がいつも胸のどこかにひっかかっているようで、なんだかいてもたってもいられないような気持ちだったのです。

私にも何か出来ることはないだろうかと、少しずつ学校でも声をかけ始めました。
友人たちも賛同してくれて、一緒に情報を拡散したり、休みの日にはその団体のお手伝いとして小屋やゲージの掃除、餌やトイレの始末などをさせてもらいました。

お手伝いをさせてもらっている間も、やはりあの白い子犬たちが気にかかっていた私。

一緒に手伝いに来てくれている友人たちも、それぞれに気になる子が出来たようで、帰る前には必ずその子に声をかけて帰るというのがお決まりのようになりました。


その間、めでたく新しい飼い主さんに引き取られていく子もいましたが、悲しいことに外にでることなくその命を終えてしまう子もたくさんいました。
病気を抱えている子もおり、それが原因で捨てられたであろう子達がたくさんいたのです。

そのことは私たちに大きなショックを与え、同時に激しい憤りを感じさせました。
亡骸を見たときは、その子があまり関わりのない子であろうとも涙が出てきました。

人間の優しさを知り、その上で裏切られ、言葉を持たない彼らはここで何を思っているのだろう…。
その疑問は日に日に大きくなり、少しずつ、私の足はその施設から遠のいてしまったのです。


そんなある日、Kさんから連絡が入りました。
私が気にかけていたあの白い子犬が、今朝冷たくなってしまっていたのだそうです。

原因は分からないけれど、前日までは普段と変わらない様子だったと。
時々、私の知人たちが手伝いに行くと、誰かを探しているような素振りをみせていたということを電話の向こうで教えてくれました。

たぶん、いつも一番熱心に世話をしてくれていたあなたを探していたのではないかと。

そのことを聞いたとき、今までにないほどの大きなショックと後悔の念が私を襲いました。
私も、あの子達を捨てた飼い主と同じだったということに、ようやく気付いたのです。


命を預かることは簡単なことではなく、生半可な気持ちで情をかけることはとても愚かしいことなのだということ、その無責任さは捨てた人と同等だということに気付くのが、私は遅すぎたのです。
そんな意味で、あの子は預かった命の重さを私に教えてくれました。
生き物を飼うと言うこと、育てると言うこと、一緒に生きると言うこと。

一人ひとりの意識が変わることを祈りつつ、今も私はあの団体のお手伝いをさせてもらっているのです。


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タグ:ペット 感動
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私たちの救世主 [感動]

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私が生まれ育った町は、「町」というより「田舎」と言ったほうがしっくりするようなとても辺鄙なところでした。
見渡す限りの田んぼに周囲を囲む山々。
隣の家まで数分歩かなければならないようその町が、幼い私にとってはすべてでした。


そんな私が通う中学校は、木造の古い造りのなんともレトロ感漂うような校舎でした。
冬は窓ガラスの隙間から入りこむ冷気と雪を遮断すべく新聞紙が詰め込まれます。
夏は都会と比べると比較的涼やかではあるかもしれませんが、すぐそばの山から飛んでくる虫の恐怖が待っています。
避暑地と言われれば魅惑的かもしれませんが、現地に住む私たちにとってはなかなか厳しい現実がたくさんあるわけです。


そんな私達のクラスには、少し風変わりな男の子がいました。

名前をKくんといいます。

運動もだめ、勉強もだめ、何をするにも人の二倍、三倍時間がかかっていました。
時々、ひとりで「チャンバラごっこ」をしていたり、グラウンドを猛ダッシュしていたり、「?」 と思うような行動をとることが多く、いつも男子にからかわれていました。
それでもニコニコ笑っているばかりで、それが余計に男子の癇にさわるようでした。
女子は女子でKくんとは極力関わらないように勤め、「危うきには近付かず」という態度をとっている子がほとんど。
私もその中のひとりでした。
子供は時々、大人より残酷だったりします。

それでも、Kくんはどんな時でも笑っていましたし、いわゆる「自分の道」を歩いていました。


私達の学校は、毎年秋になると「校内合唱コンクール」が行われていました。
学年ごとに「課題曲」と「自由曲」の二曲を歌います。

なぜか毎年この合唱コンクールは私達の闘志にメラメラと火をつけます。

他のクラスには絶対負けたくない!と、毎日遅くまで練習を重ねるのです。

各クラスにひとりはピアノが弾ける子がいますので、なんとなく毎年同じ人がピアノを弾く役割を担います。
ピアノを弾くことが出来ない私は、いつもその子達を羨望の眼差しで見つめていたものです。
流れるような指の動きと、ピアノの前に座る堂々とした姿は同い年とは思えない貫禄のようなものを感じましたし、何よりその様子は一枚の絵のように美しく思えました。
その人が織り成すメロディを壊さないように、私たちは歌を響かせよう!そんな風に思いながら練習に打ち込んでいったのです。


そんなある日、ずいぶん帰りが遅くなってしまった時のことです。
教室に忘れ物をしたことを思い出し、半分も来てしまっていた帰り道をUターンするハメになってしまったのでした。

急いで教室に入り、机の中を覗こうとしたその時。
かすかにピアノの音が聞こえてきました。

瞬時に「学校の怪談」を思い浮かべてしまったのですが、なぜか私の足は自然と音楽室へと向かったのです。
音楽室に近付くに連れて大きくはっきりと聞こえるその曲は、私達のクラスが練習している自由曲のあのメロディであることが分かりました。
しかも、とても流暢で、相手は先生だろうと思いながら覗いたその先にあった姿に、私は息を呑みました。

そこにいたのは、なんとKくんだったのです。


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その時の衝撃は、今でも忘れられません。
いつもの笑顔は封印され、見たことの無いような表情のKくん。

まるで別人でした。

そしてその指の動き。
今まで見ただれよりもなめらかで自由で、強弱の付け方、テンポの変化など、そのどれもが誰よりも優れているように思えました。
いつまでも聴いていたいような、誰にも話してはいけないような、そんな不思議な感覚でした。

そして私は、このことは誰にも言うまいと心に決めたのです。

なんだか、自分だけの宝物にしたいような気持ちでした。


合唱コンクールをあと数日後に控えたある日、予想もしていなかったような問題が起こりました。
ピアノ担当の生徒が肺炎にかかり、入院してしまったのです。
クラス内が急にざわめきました。
その人以外に、ピアノを弾ける人は居ないと思っていたからです。

私と、Kくんを除いて。


先生が代打で演奏することも出来るけれど、そうした場合は大きく減点されてしまいます。
今まで真剣に打ち込んできただけに、減点は最小限にとどめて優勝を手にしたい、皆その思いでした。


ですが、どうすればいいのか。


だれもが途方に暮れています。
ふと、Kくんの方に目をやると、Kくんは相変わらずニコニコへらへら…。

なんだか、無性に腹がたってしまいました。

演奏出来るくせに、皆がどれだけ頑張ってきたか知っているくせに。
私はKくんの腕を掴んでぐいぐいとピアノの前に引っ張っていきました。

そして一言だけ「弾いてください」と言いました。

皆、言葉も出ない様子で私たちを見ています。
自分の顔がほてっているのが分かりました。
自然と目には涙が溜まってきました。


ゆっくりと椅子に腰掛けたKくん。
次の瞬間、あの時のようにピアノを弾き始めたのです。


「えーーーっ!」
「マジで!?」
と、誰もが声をあげました。


ざわざわとしたざわめきが徐々に静かになり、その場にいた全員がKくんのピアノに引き込まれました。

静かに弾き終えたKくん。

自然と拍手が沸き起こりました。
そして、誰からとも無く頭を下げ始めました。

「お願いします、ピアノを弾いてください」いたるところからそんな声が聞こえてきました。

私もKくんに向かって頭を下げました。
するとKくんは、いつもと変わらない様子で、悩むこともなく「いいよーー」と言って笑ったのです。


合唱コンクールの結果は、見事に学年優勝、全体優勝、そして、Kくんは伴奏賞をもらいました。

その賞状を、Kくんは帰り道で丸めてチャンバラごっこに使っていました。
そんな様子を見て、もう誰もKくんをからかったりすることはありませんでした。
その日から、Kくんは私達の救世主となったのですから。


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介護の現場にて [感動]

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私は長年介護の仕事に就いてきました。
今はその業界から離れ大分たちますが、今でも介護をしていた時のことを様々思い出します。


介護の現場は日々いろんなことを学べるところです。
と同時に、常に死と一番近いところにあるとも言えるのではないでしょうか。
介護は、自分の倍以上生きてきた「人生の先輩」の生活上の手助けをする仕事です。
慣れるまでは戸惑いの連続、ためらいの連続です。
顔を背けたくなるようなことも多々ありました。
離職率が高いことで有名な仕事ですが、実際介護の現場に身を置くと、そのことが本当によく分かります。
報われないな、と思うことも多く、自分のスキルの低さ、経験の少なさを痛感させられることで落ち込んでしまうこともしょっちゅうなのです。


これは、私がまだ介護の専門学校に通っていた頃の話です。
授業の一貫として、それぞれの施設で介護実習を受ける期間が設けられるのですが、私の実習先はとある特別養護老人ホームでした。
初めての実習という事で初日から緊張でガチガチの私たち。
教科書や授業で頭に入っていること、練習してきたことが、実際に入所者相手にするとまったくうまくいかないのです。
オムツもうまく交換できない、食事介助では咽させてしまう。
着衣交換の際は「痛い!」と怒られてしまう。
毎日毎日疲労と気疲れでヘトヘトでした。


そんなある日のこと。
朝の掃除で各部屋を周っていた私。
あるベッドの女性が、ベッドサイドにナースコールを落としてしまっていることに気付きました。
これでは不便だろうと思い、枕元にそっと戻しました。
その部屋を後にしようとすると、「がしゃん!」と音がして、振り返るとまたそのナースコールが下に垂れ下がっているのです。
もう一度そのベッドに近付き、ナースコールを戻そうとすると、ベッドに横になっている女性の利用者さんが物凄い形相で私を睨んでいるのです。
この女性Sさんは、失語症で話すことが出来ません。
その為、声の変わりに表情で意思疎通を図ろうとするのです。
その時のSさんは、あきらかに私を怒っている様子でした。
正直、その表情がとても怖かった私。
逃げるようにその部屋を後にしました。


後で職員さんにそのことを伝えると、Sさんは自分が使いやすいように、いつもわざとナースコールを下に垂らしておくのだそうです。
それを知らずに枕元に置いてしまったことがSさんを怒らせたのでしょう。
申し訳ないことをしてしまった、と反省しましたが、あの時のSさんの顔がどうしても忘れられず、以降自然とSさんを避けるようになってしまいました。
話をすることが出来ない利用者さんを相手にすることにも躊躇いがありましたし、自分の中には「どうせ一ヶ月と言う実習期間だけのことだから」という逃げの気持ちがあったのだと思います。
結局Sさんとは関わることがないまま、最終日を迎えました。


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最終日は実習生担当の職員さんたちを交えての反省会がありました。

学生ひとりひとりが反省と感想を述べ、代表の職員さんが講評するのです。
そこで、なんと私は、学生の中でただ一人だけ、「何も褒めるところがない」と切り捨てられてしまったのです。

「あなたは介護には向いていない。今のうちに違う道を探したほうがいいのではないか」と、冷たく言い放たれてしまいました。
他の学生たちは未熟ながらもあんなところが良かった、ここが評価できたと、なんらかの褒めるポイントがあったのですが、私にはそれがまったく無いと言うのです。


あの時の私のショックは相当なものでした。
なぜ私だけがあんな言い方をされなければならないのか。
ひとつもいいところがなかったなんて言い過ぎではないのか。
一人の学生の未来を一ヶ月で見限ってしまうのか…などなど。

怒りと悔しさと、疑問ばかりが頭の中をぐるぐるめぐりました。

そして気が付くと、私はなぜかSさんの部屋の前に来ていたのです。


これでもう会うことはないのだから、最後に顔だけ見ていこう。
そう思った私は、そっとSさんのベッドに近付きました。
私に気が付いたSさんは、無表情に私を見つめます。
なんとなく投げやりな気持ちで、「Sさん、今日で私の実習は終わりなので、ご挨拶にきました。」と話しかけると、Sさんがパッと表情を変え、優しい顔で大きく何度も何度もうなずいてくれたのです。
それは「お疲れさま」と言ってくれているのだと、私にも伝わりました。

思わず、私は泣きながらSさんに謝ってしまいました。
うまく出来なくてすみません、何も出来なくてすみませんと。
その度にSさんは笑顔でうなずいてくれました。


その時ようやく私は、職員さんに「違う道を探したほうがいい」と言い放たれた意味がわかりました。

私は一ヶ月ずっと逃げ腰で介護をしていたのです。
怒られるのがいやだから、面倒なことがいやだから。

一ヶ月過ぎ去ってくれるのをただ待つだけの日々。
そんな私の態度を見抜かれていたのでしょう。

そのことに気付かせてくれたのが、言葉を持たないSさんだったのです。

その時の経験は、私の中にずっとずっと残りました。

学生時代を終え、数年間介護の現場に身を置き、何かにつけてその時のことを思い出してきました。
介護は単なる身の回りのお世話だけでは済まないのです。
相手の心に寄り添い、気持ちを汲み上げ、傾聴すること。

そこには、それぞれの人間関係が成り立つのです。
相手が認知症であっても、体が不自由であっても、尊敬と尊重の気持ちを持つことが大切なのだと、今でも思っています。


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プチカウンセラーYちゃん [感動]

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私の知人のYちゃんはいつも明るく朗らかで、誰からも好かれるような人です。

そのYちゃんと居ると私はいつもとても居心地が良く、どんな話も親身になって聞いてくれる様子に、勝手に「プチカウンセラー」というあだ名をつけたりしていました。
本当に、彼女に話を聞いてもらうだけで心がなんだかスッと軽くなり、すんなり解決に向かうような安心感を得ることが出来るのです。
同じ年齢なのにこの落ち着きと大きさ、信頼感…。
どうやったらこんな人になれるんだろうと、いわば私のひそかな憧れでもあったのです。


Yちゃんとの出会いは社会人になってから参加したバーベキュー大会でのことでした。
知人が知人を誘って、というフランクな集まりで、初対面でも気楽に話が出来るような雰囲気ではあったのですが、もともと人見知りの私はどうしても端っこのほうでみんなの様子を眺めていたり、手持ち無沙汰になってしまっていました。
そんな私に声をかけてくれたのがYちゃんだったのです。
無理に人の輪の中に引っ張っていくわけでもなく、自然と周りとの架け橋になってくれたYちゃん。
すぐに大好きになってしまった私は他の男性の連絡先よりもまずYちゃんの連絡先をゲッドし、そこから交流を深めていったのでした。


私にとってはまるで陽だまりのような、たんぽぽのようなYちゃん。
そんな彼女が、こないだふと、以前自分がどんな風だったかを教えてくれました。
今の彼女からは想像も出来ないような打ち明け話を。


実は彼女は、両親と弟を交通事故で一気に亡くしてしまっています。
親戚の家で高校卒業までお世話になっていたのだそうですが、まったく笑わず誰とも関わらず、極力いろんなことに関心を持たないようにしながらすごしたのだそうです。
生きている人、生きている動物はいつか死んでしまうから、その時にまた大切なものを失うような思いをするなら、いっそ生き物とは関わらないようにしようと心に決めたのだそうです。
今の彼女とはまるで別人のその様子を、どうしても私は想像することが出来ませんでした。
それでも、家族を一瞬で失ってしまったという衝撃が彼女の人格を変えてしまったのだと思うと、神様を責めずにはいられません。
まだ高校生だったYちゃんが、自分の心が完全に壊れてしまわないようにととった苦肉の策だったのでしょう。
一番友達と遊びたい、色々なことをしてみたい年頃です。
自由を奪われたことも同じではないでしょうか。
今の私ならどうやって乗り越えたか、それすらも思いつかないほどです。


それでも、親しくなることが怖い、いずれくる別れが怖いという思いは日に日に彼女の心の中で大きくなっていったのです。
それが笑顔を奪い、代わりに能面のような表情を貼り付けたのです。

そんな彼女に、周りもどう接したらいいか分からなくなるのは仕方のないことかもしれません。
なんとか笑わせよう、以前のYちゃんに戻してあげようとしていた友人たちも、まるで腫れ物を扱うかのように距離を置き始めたのだそうです。
それがYちゃんには逆にありがたかったのだとか。

それを聞いて、とてもいたたまれない想いがします。


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月日が流れて卒業シーズンを迎えました。
皆次々と進路や就職先を見つけ、Yちゃんもなんとか地元の会社に就職が決まりました。
皆が思い出作りをしている雰囲気を遠巻きに眺めながら、卒業を家族と一緒に祝えないことを思うとどうしても涙が出そうになります。
こんなはずじゃなかったという思いを常に抱えながら、それでもテレビを見て笑いそうになってしまったこともあるそうです。
そんな時は、自分で自分の頬を殴っていたYちゃん。
なぜそこまでして…。
私が当時のYちゃんのそばに居たら、そんなことはさせなかったのにと思うと、無性に自分の無力さに腹が立つ思いです。


卒業式を翌日に控え、最後の担任の先生のホームルームも淡々と受けていたYちゃん。
そのYちゃんが、急に先生に前へ出るように促されたのだそうです。
訳もわからぬままに進み出たYちゃん。
すると、端の席から順番に生徒がYちゃんのもとにやってきて、一本の花を手渡していったのです。
ある人は一言添えて、またある人は握手をして。
変顔を披露する子もいたそうです。
泣いている女子がほとんどでした。
何も言えずに震える手で花を寄越してくれる子が何人もいたそうです。
その時に、Yちゃんは気付きました。
自分は皆と距離をとって、笑わない、関わらないようにしていたけど、そうすることでこんなにもたくさんの人を傷つけていたのだということに。
抱えきれないほどの花束の形になったみんなからの一輪一輪が、傷つけた人の数なんだということに気付いたのです。

涙が流れ、うずくまってしまったYちゃんに、先生はこう言いました。

「涙が流せるようになった、明日はきっと笑えるようになる。」と。

その「明日」、卒業式に、Yちゃんは久しぶりに笑顔でその場に居ました。
自分が笑うことで、こんなにもたくさんの人が同じように笑ってくれるんだということが、今までの抱えていた痛みを少しずつ和らげていってくれるようでした。


その卒業式を境に、Yちゃんはちょっとずつちょっとずつ、今のYちゃんという自分を創り上げていったのです。
想像も出来ない痛み、そしてその痛みを取り去るほどの暖かさ。
その両方を経験したYちゃんだからこそ、私の「プチカウンセラー」なのでしょう。

彼女の笑顔に、今までにはない強さをもみたような気がします。


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ねぇやの恋 [感動]

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私たちはつくづく自由な時代に生きていられるな、と思うことがあります。

私は介護の仕事に就いていますが、利用者さんの若い頃の話を聞く機会が多く、一人ひとりの過去の話を聞いていると、どうしてもそう思えてしまうのです。

好きなところへ行き、好きなことをし、好きな人と恋愛する。
そんなことが当たり前に叶う今の時代。
それがなかなか出来なかった窮屈な時代を生きてきた人たち。

そんな人たちの話はどれもがとても切なく、そして時にとてもロマンティックに聞こえます。


ある利用者さんの話を聞きました。
その利用者さんはMさんと言って、とてもふくよかな女性です。

歯が一本もない口で硬いせんべいでも、難なく食べることができてしまうことが自慢のMさん。
踊りや歌が大好きで、いつも人を笑わせてくれる朗らかな女性で、他の利用者さんにも私たち職員にもとても愛されていました。

そんなMさんが、「昔むかしの叶わなかった恋愛」の話を聞かせてくれたのです。


当時のMさんは、ある大地主さんのお宅で奉公していたそうです。
家事や主となる人々の身の回りのお世話、こまごました仕事を任されていたMさん。

そのお宅には、Mさんより五つ年上の息子さんがいらっしゃり、その息子さんには「ねぇや」と呼ばれ親しまれていました。
Mさんもその「ぼっちゃん」とは歳も近いこともあって、まるで家族のような、それ以上のような存在として大切にしていたそうです。

ある日、ぼっちゃんが「ねぇやにこの家の秘密を教えてあげる」と言い、使っていない布団がたくさん納まっている部屋に連れていかれました。
なんだろうと思ってみていると、ぼっちゃんがそっと布団の間に手を入れ、何かを取り出しました。

なんとそれは「ピストル」だったそうです。
その時の驚きと恐怖を、Mさんは少しおどけながら私に教えてくれました。

当時ピストルを隠して持っていることがどんな意味があるのか、それがどこまで事実なのかは定かではありませんが、ぼっちゃんが「ねぇや」であるMさんをどれだけ信頼していたかが分かります。


それから数日後、家に数名の人がおしかけ、こう言うのだそうです。

「この家にピストルを隠しているのではないか」と。
家族もその他の奉公人も誰一人そのことを知らないなか、Mさんは、「自分は隠し場所を知っている」と名乗り出たそうです。


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そのあたりの話はMさん自身記憶が曖昧になっているようで飛び飛びではありますが、とにかく、その一件でMさんは「息子(ぼっちゃん)と、どうして布団部屋になど行ったのか。ただならぬ仲になっているのではないか」と、疑われてしまったのです。


そしてMさんはその家のご主人に呼び出され、こう言われました。

「お前がどれだけ息子と好きあっていようと、身分が違うものが結ばれることはあってはならない」と。
そして、二度とその家に足を踏み入れることも、ぼっちゃんと通じることも出来なくなってしまったのだそうです。

Mさんはその家を追い出されてから、ぼっちゃんに宛てて何度も手紙を書きました。
ですが何通書いても一向に返事は来なかったのです。

そうしているうちに月日は流れ、当時幼馴染だった今の旦那さんと結婚したのだそうです。
Mさんは旦那さんにとても大切にされ、子供にも恵まれ、幸せな家庭を築きました。

そんなある日、Mさんを尋ねて一人の紳士がやってきたのです。
「こちらはMさんのお宅ではありませんか」と言うその身なりのいい男性は、なんとあの「ぼっちゃん」ではありませんか。
Mさんは驚き、同時に懐かしさがあふれ出してきました。

そして、なぜ手紙の返事をくれなかったのかと聞きました。

ぼっちゃんはとても寂しそうに笑いながら、「あの頃、自分も何通もねぇやに手紙を書いた。ですが、Mさんのご家族がMさんの目に触れる前にすべて処分してしまい、同じようにMさんが僕にくれた手紙も、僕には届くことがなかったのです」と言ったのだそうです。

お互いに想いあっていたのに、手紙さえも許されなかった時代なのです。

なんと切ないことでしょう。


そして最後に、ぼっちゃんはMさんに聞きました。

「ねぇや、Mさん、今、ねぇやはちゃんと幸せですか」。

Mさんは「はい、幸せです」と答えました。

それきり、二人が生きて会うことはなかったそうです。


そんなMさんの優しい旦那さんもMさんを置いて数年前に他界してしまいました。
娘さんも、事故でMさんよりも早くこの世を去りました。

それでも、Mさんは今でも「ちゃんと幸せだったし、今でも幸せだ」と、いつもの笑顔で笑ってくれました。


今は好きな人に自由に想いを伝えることが出来るし、恋愛で頑張ることが出来る。
昔は恋愛で頑張るということすら叶わなかったのだということ。
それはとても切ない話です。
若い人はたくさんの人を見てたくさんの恋をして、そしてどんどんたくましくなっていって欲しいとMさんは言います。
すべてのことが制限されていた時代が確かにあり、その時代を支えてきた人の話には重みがあります。
Mさんのひとつの恋の話も、私にとって特別な物語としていつまでも心に残ることでしょう。


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タグ:幸せ 恋愛 感動
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クラスメイトの意外な一面 [感動]

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小さい頃からおじいちゃん、おばあちゃんが大好きだった私。

近所のお年寄りとの触れ合いが楽しみのひとつだった幼少時代。

自然と将来の夢は「介護の仕事」という方向に向かいました。
介護がどんな仕事なのか、それはなんとなくの想像でしかありませんでしたが、自分が考えているよりも厳しいものであろうことは理解していました。
それでもその道に進みたいと言う意思は変わらず、高校卒業後は地元を離れ、専門学校で介護の知識と技術を学ぶことを選んだのでした。

初めて親元を離れての生活、見知らぬ土地、使い慣れない標準語…。
小さな田舎町で育ってきた私にとって、どれもこれも初めてのことです。
それでも将来の夢へ向かっての第一歩だと思うと、すべてが自分の糧となるのだとも思えました。

専門学校での授業は楽しくもあり、また、同時に大きな戸惑いも与えるものでした。
中でも私が一番戸惑ったのは「手話の授業」です。
なぜかと言うと、授業の中身うんぬんではなく、講師の先生が実際に耳の聞こえない方だったからです。

60代の男性で、小柄で優しそうな先生。
一見、耳が聞こえない風には見えません。
ですが、幼い頃に聴力を失ったというその先生はやはり独特の喋り方で聞き取りづらいことも多く、初めの頃は真面目に受けていたクラスメイトたちも、授業が進むにつれて態度を崩し始める生徒が出てきました。
なんせ先生は耳が聞こえません。
私語をしても注意を受けることがないのです。
時には大きな声で平気で会話をする生徒たちもいました。
そんなクラスメイトに注意することも出来ない自分が嫌になることもありました。


中でも目立ってふざけていたのがTくんとWくんのコンビです。
この二人は服装も髪型も派手で、「なんとなく友達が受けると言ったからこの学校を受けてみた」という、動機もあやふやな二人でした。
簡単に言ってしまえば「不良」といったところでしょうか。
介護とイコールにならないような人たちだと思っていました。
車椅子で遊んだり、介護用のベッドで昼寝をしていたり、毎日真面目に来ていることが不思議なくらいの二人。
その彼らが手話の授業中も一番ふざけていました。

先生が黒板に向かうために背を向けると大騒ぎ。
平気で席を立つこともありました。
気付いているのかいないのか、先生は淡々と授業を進めていきます。
そんな先生が、失礼ながらとても不憫に思えてしまいました。


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耳が聞こえないことをいいことに、平気で遊んでいるTくんとWくんに対して腹立たしい思いでいっぱいでした。

なぜこんなふたりがこの学校にいるのか理解に苦しみましたし、介護が一番似合わない二人だとも思っていました。


そんなある日、休日を利用して街中へ買い物に出かけた時のことです。
日曜ということもあって大賑わいの市内。

普段あまり出歩くことがなかった私は、田舎町出身ということもあってかすぐに疲れてしまい、近くのカフェで休憩することにしました。
天気も良かったのでテラス席でコーヒーを飲みながらふと周りに目をやると、見覚えのある顔を見つけました。
手話の講師の先生です。
なんだか戸惑いの表情を浮かべながら道行く人に声をかけています。
ですが、先生の言葉はとても聞き取りづらく、立ち止まる人は皆首をかしげて通り過ぎるか、立ち止まってもすぐにその場を去ってしまう人がほとんどのようでした。

道にでも迷ったのか、先生は手にした紙を時々見ながら困り果てた表情をしています。

助けに行かなければ。

そう思って席を立とうとした私でしたが、そこで、先生に近付く二人に気が付きました。
TくんとWくんです。

見るからに柄の悪そうな風貌で、クラスメイトでありながら少し引いてしまいました。
同時に、困っている先生に何かするのではないかという不安がこみ上げてきました。


慌ててその場に向かおうとした私でしたが、そこで意外な風景を目撃したのです。

なんと、Tくんが流れるような自然な様子で手話を始めたではありませんか。
隣のWくんは、先生の肩に優しそうに手を置き、私が覚えている数少ない手話のひとつである「大丈夫?」という仕草をしているのが分かりました。

硬い表情だった先生が柔らかい笑顔になったのを見て、なんだか涙が出そうになりました。

あの二人…。

その光景に、今まで自分が彼らの表面しか見ていなかったことを知り、物凄く恥ずかしい気持ちになりました。
私もまだおぼえていないような手話を使い、先生とコミュニケーションをとっているTくん。

傍らでずっと先生の肩を優しくさすっているWくん。
その二人の柔らかい表情。

彼らが介護の学校に居ることが理解できなかったそれまでの私でしたが、偏見の目で見ていた自分自身が考えを改めなければならないと考えさせられました。


翌日の彼らの授業態度は、いつもとなんら変わりませんでした。
相変わらずふざけてばかり。
それでも、私はそんな彼らに対して親しみを込めた目で見ることができるようになったのでした。


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タグ:介護 感動
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Mくんのこと [感動]

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男の子は女の子よりも子供っぽいところがある。
これはいつの時代も同じなのでしょうか。

「好きな女の子のことほどいじめたくなるものだ」とは良く聞きますが、当時はただのいじめっ子だとばかり思っていた相手が、実は自分のことを好きだったという暴露話を同窓会で打ち明けられるなんて話、ありがちだったりします。


どうしても小学生の頃は女の子の方が体の発育もよく、精神的にも大人だという傾向がありますが、そんな風に先に進んでしまいがちな女の子を繋ぎ止める為に、男の子たちは幼いながらも努力しているのかもしれません。
それが相手にちゃんと伝わるかどうかはまた別の話ではありますが、甘酸っぱい感情がその時に男の子には芽生えているのでしょう。


小さい頃は両親の仕事の関係で引越しが多かったMくん。
三年生の頃にMくんは私の小学校に転校してきました。


都会的な雰囲気を持つその男の子は、どこかツンとしていて口数も少なく、幼いながらに近寄り難い空気を醸し出していました。
先生に連れられてクラスに入ってきたときの彼の表情はとても硬く、笑顔が想像できないくらい影を帯びた少年でした。
私の席から少し離れた席に着いたMくんのことを、後ろからなんとなく観察するように眺めるのが、その日から私の無意識の日課のようなものになりました。
最初の頃は、男女問わず色々なクラスメイトがMくんの周りに集まりました。
どこから来たのか、両親の仕事はなんなのか、家はどのあたりなのか。

たくさんの質問を浴びせられていたMくん。
それなりに返答をしていたようですが、必要以上のことを話そうとはしないMくん。
休み時間に遊びに誘っても応じることはなく、いつもひとりで過ごしているMくん。
自然と「付き合いにくいやつだ」というイメージが定着してしまい、授業の移動時間も誰も行動を共にしようとはしなくなってしまっていきました。


ある日のことです。
下校途中に川を眺めているMくんの姿をみかけました。

前日の雨のせいで流れが速くなっている川に、たくさんのごみがひっかかっています。
そんな様子をただぼんやりと眺めているMくん。
なんとなく近付いて話しかけてみました。

「川汚いね」と。
すると、何を思ったか、Mくんがとつぜんその川にザブザブと入っていってしまったのです。


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あっけにとられる私を尻目に、Mくんは水草に引っかかっているお菓子の袋や空き缶を集め始めました。

集めたごみを抱えて上がってきたMくん。
それらのごみを私に押し付け、こう言いました。
「何もしなければ何も変わらない」。
なんだか意味が分からなかったけれど、とても恥ずかしいような気持ちになりました。
言葉も出ずにただ口をぽかーんとあけている私を置いて、Mくんはダラダラの体で去っていきました。


その日を境に、Mくんは私を時々叩くようになりました。
すれ違いざまに頭をぽかりとやられたり、背中をどん!と押されたり。
他の女の子にはそんなことをしている様子はありませんでしたし、いつも基本一人で行動しているMくん。

あの「川の一件」以降、何が気に触ったのか、私はMくんに嫌われてしまったのだと思うようになりました。
ごみを拾おうともせずに「汚い」と言った私の事が許せなかったのでしょうか。
誰とも群れることをしないMくんですので、彼の気持ちなんかまったく分かりません。
ただ、私の何かが気に入らないんだと思うと、何とも言えず寂しい気持ちになりました。


そんな日々を過ごし、Mくんはまた他所へ引っ越していくことになりました。
こんなことを繰り返しているMくんだから、必要以上に誰かと関わらないようにしていたのかもしれません。
まだ小学生なのにそのように悟ってしまっていたのだとしたら、なんだかとても切ないように思います。

最後の日、クラスでお別れ会を催しましたが、やっぱりMくんは泣きもしなければ笑いもしませんでした。
ただ淡々と時間が過ぎていくような感じでした。
Mくんが居なくなってからのクラスには何の変化もないように思えてしまい、それがなんとなくやるせないように思いました。


それから月日は流れ、私もすっかり社会人になりました。
恋愛も人並みに経験し、仕事に追われる日々の中で懐かしい面々との再会は心弾むものがありました。

面影の残るたくさんの顔。
その中に、当たり前ですがMくんはいません。
当然だな、と思いながらも楽しい時間を過ごしていました。
すると、ある人が言ったのです。「Mくんは、私たちの学校から去って数年後に亡くなってしまった」のだと。

その人の話では、どうもMくんのお母さんと自分の母親が友人同士だったらしく、生まれつき病気を抱えているのだと打ち明けてくれたのだそうです。
当時、Mくんは敢えて友人を作らないようにしていたのだそうです。
きっと自分はみんなより早くに死んでしまうから、仲良くなったら皆が悲しむから、と言って、家でよく泣いていたそうです。


そんなことを聞いて、私を含めた同級生たちは皆、Mくんを誤解してしまっていたことに今更ながら後悔しました。

あの時、流れる川を見ながらMくんは一体何を感じていたのでしょうか。
そして、大人になった今だからわかること。
Mくんがおそらく私に抱いていていたであろう恋心…。

それすらも病気を理由に蓋をしてしまっていたのでしょうか。
笑わないMくん。
泣かないMくん。
誰もMくんの本当の顔を知ることが出来なかった中、唯一私は少しだけMくんの素直な気持ちに触れることが出来ていたのかもしれません。


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