枯葉になったバッタ [感動]
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僕は子供の頃いじめられていました。
中学校一年の頃です。
気が小さく、体も小さく、体力もなかったのでプロレスや柔道の技を試されたりしていました。
ふざけ半分の遊びですし、小学生に毛がはえた程度の力ですから、技は決まらず怪我をするような事故にはなりませんでしたが、心の傷は日々増えました。
学校のベランダから下に落とされそうになったこともあります。
「勇気と根性を身につける訓練」
という謳い文句のその遊びは、数人で僕を抱え上げ、手すりごしに落下寸前までおろすという殺人的なものでした。あの恐怖は体験した者でないとわからないと思います。
僕ももう少し強かったらいじめの対象にはならなかったかもしれません。痛い目にあうとすぐ泣きだしましたし、男子らしい抵抗もしなかったですから、いじめやすい人間だったのだと思います。
友達はいませんでした。
たぶん僕と親しくしたら、自分もいじめられると思ったのでしょうね。
本能的に僕の近くにいるのを避けたのだと思います。
もう限界だと思いました。
いじめの件はずっと親に黙っていましたが、ある日泣きながら母に告げました。
「その痣、やっぱりそうだったの」
母は担任の先生に相談しました。
いじめグループはすぐに特定され、学校側もいじめを認め、本人たちも「反省」しているとの連絡を受けましたが、僕にはすでに学校に行く気力がなくなっていました。
しばらく学校を休むことになりました。
一年生の秋だったと思います。
そんなある日、母にいわれて洗濯物を取り込もうとベランダに出たとき、一匹のバッタを見つけたのです。
昆虫には詳しくないので、何という名前のバッタなのかわかりませんが、長さ4センチほどの間抜けな顔をした緑色のバッタでした。
そっと近づきました。
飛ぶかと思いましたが、じっとしていました。
そっと右手を伸ばし、捕まえました。
指の腹に「生き物」を感じました。
細い足をしきりに回転させ、羽を開こうとします。
気味悪いし、そのままベランダの外にに解放することも考えましたが、奇妙な征服欲がわいてきて透明のビニール袋に放り込んだのです。
バッタは驚いたような目をして袋の壁面ではいつくばっていました。
身の危険を察したロッククライマーのように見えました。
じっと目を見ると、何かを訴えているようにも見えます。
口がかすかに動いています。
「なんでこんなことをするんだ」
といっているようでした。
「家宅侵入罪だよ」
自らベランダに進入してきたことは事実です。
逮捕されて当然でしょう。
小学生の頃使っていた虫かごを引っ張り出し、その中に「収監」しました。バッタは激しく跳ねましたが、すぐに静かになりました。
おとなしいバッタでした。
鳴きもせず、飛び回ることもしません。水滴のついた野菜をちぎってあげると、弱った老人が布団に入るような仕草で野菜の上に上り、端をかじりました。
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僕は昆虫に興味がありませんし、そのバッタにことさら関心をもった訳でもありませんので、なぜ飼っているのかうまく説明できませんでした。でも逃がそうという気持ちもありませんでした。そのバッタの存在が僕の何かを満たしていたのでしょう。
「ひとし、あの虫かご何よ!中にバッタがいるんだけど・・・」
ある午前中、母が走ってきました。
洗濯物を干していたときに見つけたようです。
「おとなしいバッタだよ」
「やだあ。外に逃がしてよ」
「観察中だからだめ」
不意に口にしたその言葉は、あながち嘘ではありませんでした。
あいつがこれからどうなっていくのか見届けたいという好奇心はありました。
いつまで元気でいるのだろう。
いつまで生きられるのだろう。
断末魔にはどんなことをするのだろう。
最後はどんな顔をして死ぬのだろう。
それを見届けたいと思ったのです。
だから「観察」なのです。
虫かごはベランダの奥の、日の当たらないサボテンの横に追いやられていました。母が買い物などで不在になると、日の当たる場所に持っていって日光浴をさせました。バッタは太陽に当たると、触覚をしきりに動かし、少し歩きました。でもあきらかに動きが弱っていました。
秋が深まり、寒い風がベランダを通り抜けました。
だんだんと僕もバッタのことが気にならなくなっていきました。
ごくたまに思いだすこともありましたが、大きめの野菜を入れているので食べ物には困らないはずだ、なんて勝手に納得して放置しました。
11月下旬になったある日、バッタを見にベランダに出ると、驚いたことに、体が茶色に変わっていました。それはまるで枯れ葉でした。
バッタは両足できちんと立っています。野菜とは別の方を向いていましたから、餌には興味がないようです。野菜は、鮮度を失うどころか萎れて腐敗していました。
ふたをあけてつついてみました。
反応はなく、カサカサした無機質な感触だけがありました。
倒すと、その姿勢のまま倒れました。
死んでいたのです。
まさかこんな風に死ぬとは思っていませんでした。
死期が近づいたら、苦しくてもっと暴れるだろうと思ったのです。
自分を守るために大声をあげるだろうと思ったのです。
でもバッタは何ひとつ文句をいわず、静かに枯れ葉になりました。
「なぜ大声をあげなかったの?」
「なぜ他の仲間の助けを呼ばなかったの?」
急にバッタが憎らしくなりました。
人間の勝手なしうちに抵抗することなく、その死を受け入れたバッタ。
直立不動のまま息絶えたバッタ。
バッタらしい死を望まなかったバッタ。
その物いわぬ従順さが憎たらしく思えました。
もっといじめてやればよかった。
もっとつらい目に遭わせてやればよかった。
涙が出ました。
悲しさや悔しさ、怒り、そして恐怖が一緒になって涙になりました。
でも泣き終わると、雲の隙間からさしてくる光のような、温かな気持ちが湧いてきました。
それからバッタを土に還しました。
「ごめんな。また生まれてこいよ。これは天国に持って行け」
腐った野菜も一緒に棄てました。
枯葉と区別のつかないその小さな亡骸は、冬の風に流されて茂みの中に消えました。
2年生になる直前、クラスのみんなから手紙が来ました。
みんな待ってるよ。またいっしょに勉強しよう。
そんな内容でした。
2学年から学校にもどった僕は、あのいじめグループとは別のクラスになりました。
彼らはもう僕に近づきませんでした。
僕のことなど忘れているのかもしれません。
僕も忘れようと思いました。
そして、彼らを許そうと思いました。
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