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1枚の写真 [感動]







ある日、なぜか突然に
「そうだ、海外の友達にメールではなく手紙でも書いてみようか」と思い
エアメールを書こうと便箋の入っている引き出しを何年ぶりかに開きました。
手紙なんてもう本当に書くこともなくなってしまって、
どうやって書くんだっけ、なんて少しわくわくしながら便箋を探していると、
雑におかれた数枚の写真をみつけました。

それは、我が家で飼っていた歴代のペットたちの写真で、
犬、猫、またそれぞれ父や母、また幼少の私がともに映っている写真でした。

懐かしいなぁ、と目を細め思い出をめくっていると、
大好きだった猫の写真の次に1枚の古びた写真が出てきました。

セピア色のその写真は、若かりし両親の写真で、
二人とも着物を着て、今も変わらない家のベランダ、というより物干し場で撮った写真でした。

私は母に興奮気味にそれを見せ、いつのものかと聞くと、
「あぁ、結婚式の。」
とそっけなく答えました。

それはとてもあっさりとした返事だったので、拍子抜けでした。
娘としてはもっとテンションの上る母を想像していたのに…。

ですが同時に、無理もないことを思い出しました。

比較的裕福な家系で育った私の母は、
田舎から就職で都会に出てきた父と出会い、恋に落ちました。
田舎の青年は都会のお嬢様に一目ぼれでしたが、
母は親族一同からそれはそれは、ひどい反対にあったそうで、
二人で半ば駆け落ちのごとく結婚をしました。
金銭的な面もそうですが、都会に出てきて間もない父はまだ若く、
都会に染まり、純粋な気持ちは遠のいていくだろう、と母の親族は考えました。

父と母の結婚は、文字通り、一銭もない状態からのスタートでした。

結婚式も何の味気もない、
やっとの思いで借りたアパートの一室で、
近所の教会の牧師さんにお願いして誓いをたてました。

友人の数人だけに見守られた、質素な式。


私が見つけたのは、その式で撮った唯一の写真でした。


結婚生活が数年経った頃、母の親族の予感は的中します。
私の両親は結婚した19年後に母が私を宿すまで、
父は「酒、タバコ、女」に目がない人間になっていました。

職も何度も代わり、そのくせ往年の銀幕のスターのように飲み歩く毎日。
飲み屋で出合わせた人全員を引き連れて寿司をおごることも少なくありませんでした。

当然家計は火の車となり、
母は夜の繁華街でホステスのアルバイトをするようになりました。
どうしてもお金が足りないときは、
着物や宝石を売って生活の足しにしました。


父が改心したのは母の妊娠が分かった時で、
両親とも42才と高齢だったのにも関わらず第一子ということもあり、
やっと、本当にやっと「責任」に気付いたそうです。

それから父は一生懸命働き、独立し、
小さいながら工場を経営するようになりました。


そこからの十数年は、家族としてとても恵まれました。
少ないながら、贅沢な暮しもできました。


しかし私が高校生になった頃から工場の経営が思うようにいかなくなってきました。
町工場の多くが経営に困難を抱え、
父の工場の近隣も安い労働力を求め海外へ出るか、
あるいはリストラを行った上で、それでも倒産する工場も少なくありませんでした。


その頃から家庭ではストレスがそれぞれ充満し始め、
両親の仲はとても悪くなり、話しをすることもなくなりました。
3人家族なのに家の中には独立した大人がそれぞれ暮らしている、といった感じでした。

もちろん、両親は口を開くと喧嘩。
やっと3人揃った食事の席で離婚の話が出ることも珍らしくありませんでした。

もう大人の思考を持ち合わせていた私も、
素直に「仲良くして」と言えず、
「大人だから好きにすればいい」
と突き放していました。

今思えば、私が本当に「鎹(かすがい)」だったのに。








しばらくして父の会社は倒産、
私は大学に通いながらアルバイトの毎日、
母も働きに出るようになりました。


プライドだけは本当に高かった父は、
一家を養えていないというストレスで、
お酒の量が増え、止めていたタバコを再開するようになりました。


止めていたタバコは一気に量が増え、
以前の蓄積分もあったのか、
父は咳き込むようになりました。

母と私が一度注意しましたが、耳をかたむけず、
タバコに火をつけウィスキーのボトルに手をかけていました。


その頃にはもう、母だけでなく私も父を、ただ同居をしてる人、
と位置づけていました。



そして1年が過ぎたころ、
歩くだけでも呼吸が苦しくなった父は、道端で座り込み動けなくなり、そのまま病院へ搬送、
肺がんと診断されました。


右肺に大きな穴が開いていて、がん細胞は脳にも転移が始まっていました。


病院に駆け付けた母と私に
担当医は冷静に、そう長くはないだろうと告げました。


母と私は焦ることはなかったのですが、
どれだけ憎くてもさすがにこの状況で突き放すのはかわいそうだと、
父にはできるだけ普通に接すことを決めました。


病室に入ると、父は明るく振舞いました。

もう、何年ぶりに見た笑顔でした。

肺がんであることを医師から告げられても、明るく振舞っていました。

父のその姿は怖がっていることが見え見えでした。


その日から、家族としてまとまりを見せました。
母は妻らしく、毎日病室で様子をみました。
よくある、「りんごを剥く」ことや、排泄を手伝うなど、
一生懸命「妻」をしていました。

私も子どもらしく、父と会話をしました。

不思議なもので、「あぁ、これから家族の数がかわるのか」
と気づいた途端に、家族らしくなったのです。



その後入退院を繰り返しましたが、半年程闘病した後、
父はこの世を去りました。

その瞬間は、私は直視ができず、
またこれから母を背負って生きていくのに泣けない、
という強い思いから、携帯で親族に連絡したり、病院の事務手続きの説明を聞きに行ったりと
その場から離れていました。

母は、父の側でその瞬間を看取りました。


葬儀の後、喪服を脱いでいる私に母は
最後の瞬間、一筋の涙を父が流した事を教えてくれました。


声は聞き取れなかったが、口を動かし何かを伝えようとしていた、と。


幸せだったのか、恨み節だったのか、
それは永遠にわかることはありませんが、
とにかく家族に何かを伝えようとしたのは確かでした。


そんことももう五年前か、と出てきた写真を手にとりながら、
思い起こしていて気付きました。

母は結婚式の写真に対してそっけなかったのではなく、
その写真は私には珍しいものでしたが母には日常だったのです。

いつも、母のそばにあったのだ、と気付きました。


喧嘩の絶えない夫婦で、父からも母からもお互いの恨みごとしか聞いてこなかった私には
なぜ離婚しないのか不思議で仕方無かったのですが、
子どもにはわからない夫婦のストーリーが、写真越しに見えました。

そんな姿を見せたくないから、
めったに開かない便箋を入れてる引き出しにペットたちの写真と紛れて入れていたのだ、と。


私は写真の若い父に「ありがとう」と微笑み
元の場所に置き引き出しを閉じました。


病室.jpeg






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