母のトンカツ弁当 [感動]
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福岡空港から発車したバスは途中混雑したものの、高速道路に入ったら快適に走った。窓から射してくる初夏の光がやや暑い。
実家のある朝倉市までバスで約40分。
市街地から離れると、遠い山並みのかたちがはっきり見え、だんだんと田園風景が広がってきた。
−何年ぶりだろうか−
そこそこ名のある大学に合格し、高校を卒業してすぐに上京した。年一度は帰省したが、就職してからは疎遠になった。親のことが気にならないわけではないが、都会の色に染まっている方が楽しく気楽だった。
だが、事態は急変した。
2週間前の会議室。
あの日も同じように初夏の光が窓から射していた。
でもこの光とはまったく異質な、冷たい光だった。
「特に指示はしない。研修室で自分が何をすべきか考えるんだ。会社のために何ができるか知恵を出せ。そして行動しろ」
上司の仏頂面は、あきらかに僕に辞めろといっていた。
29歳という若さでいわゆる追い出し部屋に配属されるのは決して珍しいことではない。同期でも2、3人、この部屋を通して退職した。
会社からの具体的な指示もなく、会社のために何ができるか考えて行動するなどきわめて非現実的な話だ。
すぐに退職願を出した。
それからハローワークに通う日々が始まった。だが魅力的な職はない。しがない営業マンで、売りにできるような技術もない僕に美味しそうな仕事はないのかもしれなかった。僕は長期戦を覚悟した。
ふーっと息を吐いた。
母の顔が浮かんだ。
一人暮らしの母。
2年前に父が事故で他界したのをきっかけにめっきり老け込んだようにも思えるが、電話の声を聞くぶんにはむしろ気楽に暮らしているようにも思える。ずっと父に引っ張られた人生だったから、母なりの生き方を取り戻しているのかもしれない。
今回帰省したのにはわけがあった。
率直にいうと、借金の申し込みだった。
母には久しぶりに顔を見たくなったと告げたが、方便だった。
退職してから、お金に不安を感じるようになった。蓄えはあるにはあるが、就活も長期戦が予想され、経済的苦境に陥るのは目に見えていた。おまけに車持ちで高めの賃貸マンションに住んでおり、しがない失業保険では転居や廃車も視野に入れなければならない。
お金が欲しい。
当面200万円あればいい。
月に20万としても10ヶ月は食える。
車も維持できるだろう。
母には退職のことは話していないから、何といって借金を申し込もうか。いろいろ理由を考えるが見つからない。
お金のことを考えると、心が重くなる。
僕は首を左右に振った。
−とりあえず気分を変えよう−
2泊する予定だから、今日はお金のことは口にするまい。
そう決めると楽になった。
バス旅行の子供のように懐かしい風景をおいかけた。
すると時間が急速に巻き戻されて、自分とは全く敵対しない世界に包み込まれていくような感覚になり、ずっと抱えていた心の荷がとれていくのを感じた。
朝倉市の甘木で降りた。
父が生きていた頃はインターチェンジまで車で迎えに来てくれたが、母は運転ができず、片道30分の道を歩くしかなかった。
タクシーに乗れるほど裕福じゃない。
土と草の匂いがし、都会では見かけない珍しい鳥が川岸におりた。
「歩いてきたとね」
玄関で僕を出迎えた母はエプロン姿だった。
化粧もせず髪も結んだだけの最低限の格好で、田舎の家によく似合っていた。
「汗かいたろ?お湯浴びる?ビールも冷えとるよ。着替え持ってきたね?」
次々と提案と質問を繰り返す照れくさそうな母。
2年ぶりに息子に再会する母がそこにいた。
「とりあえずシャワー浴びるよ」
静かな家だった。この広い家で母一人で毎日何をしてるんだろうと思う。年金で十分暮らして行けるそうだけど、何を心の糧にしているのだろう。
夕食は好物のトンカツだった。
僕が帰省すると、必ず食卓にトンカツが出た。父は脂っこいものが苦手だったが、その日だけはトンカツに箸をのばした。母は歯が弱いといってあまり食べなかった。トンカツを食べると、家族の原風景がよみがえる。
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母のコップにビールをつぐと、
「ちょっとでよかよ、ちょっとでよか」
といって、両手でコップを持った。
「仕事大変ね?」
一瞬言葉につまる。ここで退職のことをいうべきか。
でもいってしまったらそのまま借金申し込みの話に流れそうで怖い。
少なくとも今は、この温かな空気を冷ませたくない。
「まあ、なんとかやってる」
「そうね。がんばらんとね。お母さんもね、近所の靴工場から仕事もろうて内職しよると」
このだだっ広い家で靴張りの内職をする母。
その仕事は心の糧になり得るだろうか。
「はよう嫁さんもらわんとね。母さんも孫の顔ば見たか」
コップいっぱいのビールで陽気になった母だったが、そのせりふを口にしたとき、目がまじめだった。
翌日は父の墓参りをしたり、秋月あたりを散策して過ごした。
そして日が暮れ、帰省の2日間が終わろうとしていた。
母は晩ご飯のあとも台所で何かをしこんでいた。
そういえば昔から料理好きだった。
時計を見ると午後8時。
−もうそろそろ肝心なことをお願いしないと−
200万円。いや、もっとほしい。
借金でなくて、むしろそのまま返さなくていいことにならないか。
酒の酔いで、心が図々しくなっていた。
心を決めて台所に行った。
母はトンカツをひろげて表面をたたいていた。
「明日お弁当作ってやるけん、飛行機の中で食べなさい」
「弁当なんかいいよ。空港でラーメン食べるから」
「空港のラーメンやら美味しくないが。母さんの弁当が一番美味しかとよ」
昨日トンカツを食べたばかりなのに、明日の弁当もトンカツか。
僕はトンカツしか食べない人間だと思っているんだろうか。
でも、それが母だった。
借金の話は、最後までできなかった。
出発の直前、弁当ができあがった。
三段がさねの豪華な弁当だった。
トンカツ、きんぴらごぼう、筑前煮、タケノコの天ぷら。
どれもこれも東京の一人暮らしでは食べられないものだった。
「こんなに食べきれない」
「冷蔵庫に入れといて、明日の朝チンして食べなさい」
早口でそういうと、手際よく布で包んだ。
「じゃあ帰るよ。母さん」
「またがんばりなさい」
母が少し鼻をすすった。
僕は母の顔を見ないようにした。
弁当で重くなった鞄を肩からかけると、初夏の陽を背に歩き出した。
しばらくして振り向いた。
日傘をさした母がまだこっちを見ていた。
−もういいのに。帰ればいいのに−
角を曲がって橋を渡る。
母はまだ僕を見ていた。
その橋の真ん中あたりまで来ると、実家のあたりは視界から消える。
ずっとこっちを見ていた小さな日傘が、桜並木にすっと消えた。
−あの母さんに借金なんか申しこめるか−
返さなくていいだと?
ふざけるな。
お前ってやつは。
お前はまだ限界じゃない。
まだまだ甘い。
バスの中で鞄の中の配置を変えるために手を入れた。
ふと手が止まり、それ以上何もできなくなった。
ご飯が温かかった。
涙がにじみ、ぎゅっと目をつむった。
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