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咲子は今でも生きています [感動]

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ずっと一緒にいたのなら納得できたかもしれません。
受け入れられたかもしれません。

咲子の死を。

でも何も見ていないのですから、私には納得できません。

咲子は死んでいません。
咲子が私を残して死ぬわけがありません。

咲子は今でも生きています。


私と咲子は高校時代に知り合いました。
二年生の頃、図書委員で知り合ったのです。
相性は抜群でした。以来、ずっと交際を続けていました。

大学まで同じでしたが、就職先は別になりました。
私は商社、咲子はブライダルプランナーを目指して大手結婚式場に就職しました。

あれは私がニューヨークに赴任する半年ほど前のことです。
クリスマスイブの夜、道玄坂で食事しました。
お互い27歳になっていたと思います。

咲子がリキュールを少しずつ飲みながらしたりげに

「私たちの結婚式、私がプロデュースするからね」

と言ったのです。

まだプロポーズ前で、それまでお互い結婚の話なんてしたこともなかったのですが、私はその言葉をすぐに受け入れました。

二人が結婚することは、暗黙の了解だったのです。
プロポーズの言葉なんて不要だったのです。
お互いをおいて他に人生の伴侶は考えられませんでした。

「花嫁さん自ら結婚式を演出かあ。忙しいな」
「もちろん、啓ちゃんにも手伝ってもらうわよ」
「僕は何をすればいいの?」

「そろそろ考えないとね」

アボガドのサラダを丁寧に口に運ぶ咲子。
頭の中でいろいろ考えている様子でした。
瞳が活きいきと動きまわっていました。

「来年、8か月の予定でニューヨークに行ってしまうからな」

長期出張の件はすでに咲子に話していました。

「帰国したらすぐに計画立てようね。私も考えとくわ」

バレンタインデーの直後、私はニューヨークに旅立ちました。
咲子は成田まで見送りに来てくれました。

「毎日メールしてね」
「うん。写真も送る」

それからしばらく一万キロ以上も離れることになりますが、
不思議と寂しさは感じませんでした。
心と心がひとつになっていれば、どんなに離れていても寂しくない。
ドラマや小説でよく語られるフレーズですが、その通りだと感じました。
咲子も同じだったと思います。
別れる直前にぎゅっと抱きしめてあげたのですが、咲子は女性的な感情をつゆとも見せずに

「ほらほら、遅れちゃうわよ。飛行機」

と私をせかしたのです。

抱擁する必要もない。
そんな二人でした。
お別れなんて来るわけがないのです。

でも、活きいきした咲子を見たのは、それが最後でした。

咲子が最初の異変を発してきたのはニューヨークについて10日後のことです。

「風邪だと思うけど、微熱が下がらないのよね〜。お医者様はちょっと貧血気味かなっていうんだけど。とりあえず様子見。心配いらないよ。啓ちゃん、ニューヨークはどうですか?ニューヨーカーになってますか?何となく似合わなそう。笑」

それから2日後、咲子はK大学附属病院に入院しました。
さすがに驚き、
「どうして入院したの?何の病気なの?どのくらい入院するの?」
しつこくメールしました。
でも返事は来ませんでした。

4日ほどして、咲子の母親から短いメールが届きました。

「咲子は急性骨髄性白血病です。
 でも治る可能性もあるのでそれほど危惧していません。
 啓史さんも、どうか心配なさらずにお仕事頑張ってください」

白血病。
血液の癌。

「大丈夫だよ、咲子」

成田で写した咲子の写真にむかってそうつぶやきました。
白血病になったって、早期に発見できれば治るんだ。
現に白血病を克服した人はたくさんいるじゃないか。

咲子だって同じさ。必ず治る。
私は咲子が白血病に打ち勝つことを信じて疑いませんでした。

久々に届いた咲子からのメール。
「白血病になっちゃった。ごめんね心配かけて。でもきっと治るよ。ちょっとしんどいけどね。大変だけどね・・・」
 
私にはわかるんです。
このメールを書いている咲子、きっと泣いているはずです。

「がんばれ。僕が付いてるから。いつも君のそばにいるから」


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夏休みに一時帰国が許され、真っ先にK大学附属病院に向かいました。
でも残念ながら咲子に逢うことはできませんでした。
咲子は抗がん剤治療のため、無菌室にいたのです。
面会が許されているのは家族だけ。しかも一日に30分程度に限られていました。病院側とさんざん交渉しましたが、かないませんでした。

病院の近所の喫茶店で母親とお茶を飲みました。

「抗がん剤の治療、まだ続いていたのですね」

と問いかけました。母親は疲れて見えましが、それをはねのけるように、白い歯を見せました。

「骨髄のドナー(提供者)がようやく見つかりそうなんです。これで一安心かなと思っています」
「骨髄移植に成功すれば治るそうですからね・・・咲子さん、様子はどうですか」
「頑張っています。歯を食いしばって」

「咲子頑張れ、もう少しだからね」
祈るような気持ちでニューヨークに戻りました。

それから2か月後、咲子の骨髄移植が成功し、一般病室に戻ったというメールを母親から受けました。体力も徐々に回復しているとのことです。私はほっと胸をなでおろしました。

「よく頑張ったな、咲子。おめでとう」
「ありがとう。なんだか、一気に元気になったような気がする」

無性に咲子に逢いたくなりました。しかし帰国は許可されませんでした。
父母でも亡くならない限り帰国は許可できないと現地のチーフから言われました。

「あと一か月で任務完了だから、フィアンセに会うのはそれからでいいだろう。今回のプロジェクトは今が一番の正念場なんだ。わかってほしい」
と言われました。

移植も成功し快復に向かっているのだからそれでもいいかと思いました。
一か月後、ゆっくり再会すればいい。

咲子からは毎日メールが届きました。
明るく楽しそうな文章が多かったです。

でも最後に届いたメールが、ひどく重く心に突き刺さりました。

「私が死ぬようなことがあったら、他に良い人見つけてね」

「何言ってんだ、咲子!君は治るんだよ!移植成功したんだろ?」

「日本に帰ったら結婚式の打ち合わせやらないとね。新郎の役目考えたか?」

「衣裳合わせが楽しみだな。咲子は顔が小さいからドレス似合うよ、きっと」

狂ったように何十通もメールを投げました。
でも、返事は来ませんでした。

ある日、母親から返事が来ました。
咲子が亡くなったと書いてありました。
骨髄が合わなかったのか再発し、病状が急速に悪化。
再び抗がん剤治療に入るも正常な状態にもどらず、3日前に死亡したと。

何が起きたのか理解できないまま8か月の任務を終え、帰国しました。
成田からすぐに咲子の自宅に行きました。

咲子が出てくると思いましたが、私を迎えたのは母親でした。
咲子はどこにもいませんでした。
和室の仏壇に、咲子の写真が飾ってありました。

母親は泣いていませんでした。家の中は、既にいつもの日常に戻っている感がありました。
ですからなおのこと、咲子が死んだことを受け止められません。
母親が静かに言いました。

「最期に言い残した咲子の言葉をお伝えします」

『啓ちゃん、今までありがとう。ずっと楽しかった』

「最期は、安らかでした」
母親の目が少し潤みました。
 
「咲子は死んでいない。死ぬわけがない」
「啓史さん・・・」
「そんなこと私が信じると思いますか、お母さん」

だって、私は何も見ていないんですよ!

抗がん剤治療で吐き気に苦しむ咲子を。
髪の毛が抜け落ちて行く咲子を。
無菌室に運ばれていく咲子を。
断末魔の中で息を引き取る咲子を。

私は何ひとつ見ていないんですよ!

握りこぶしで畳をたたきながら泣きました。
「アメリカなんか行かなきゃよかった!あんな会社入んなきゃよかった!」

あれからもう20年以上経ちますが、ずっと変わらぬ思いがあります。

咲子は死んでいません。
高校生の頃図書委員で知り合ってからずっと一緒だった咲子。
この20年ずっと一緒だったし、これからもずっと一緒なんです。

今でも心がつながってるんです。

咲子はきっと天国という国に移住したのでしょう。
私もいずれ天国に移住するでしょうから、二人の夢は
むこうの国でかなえることにします。

私ももう50歳ですが、天国に移住するまでは独身でいるつもりです。


結婚式.jpg


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