クリームシチュー [感動]
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ああ、寒い。
駅の外に出たら体を縮めた。
もうマフラーだけではむりかもしれない。
−明日からコートを着ていくか−
でもコートはまだクリーニングに出しておらず、昨年の冬の状態のままクローゼットにぶら下がっている。
−どのくらい汚れていたかな。クリーニングせずに今年も着れるだろうか−
そんなことを考えながらマフラーをしっかりと巻きなおして帰路についた。
今晩はそんなにお腹空いてないからコンビニ弁当でもいいか、とぼんやり考えた。
独身アラサー男子29歳のサラリーマン。
医療機器メーカーで経理事務をしている。仕事は地味でつまらないが、課員が少ないので、年功序列で上に上がれるので将来に不安はない。今の課長が部長になれば、必然的に私が課長に昇進する。それだけが楽しみの仕事だった。
仕事のことは、まあいい。
問題は私生活だ。
独身やもめで、それこそ地味でつまらない。
数年前までは独身の気ままな暮らしを楽しんでいたが、さすが30歳の扉が近づきだすと、独身の身がことさら寂しく感じられる。
−ああ、結婚したい−
そういう願望が噴き出すことがある。
女性に支えられたいし、女性を支えたい。
そういう暮らしをしたい。
ちなみに交際している女性は特にいない。
同じ経理課員に皆川寿子という4歳年下の女性がいて、私のことを慕ってくれているようだが、彼女には関心がない。遊び半分でつきあえば形の上ではカップルが成立するはずだが、そんな半端な気持ちでつきあうのは彼女に失礼なので、彼女の気持ちには応じられない。
コンビニで幕の内弁当と缶ビールを買い、国道沿いを歩いた。
寒いと独身の切なさがいちだんと身にしみる。
特に胸に迫ってくるのは、近所の民家から漂ってくる家族の団欒の気配だ。
家族っていいなと思う。
ある夜、美味しそうなクリームシチューの香りが漂ってきた。
思わず立ち止まった。
ママが作ったクリームシチューをこれから家族全員でいただくのだろう。
いろんな会話を交わしながらクリームシチューをスプーンですくう。
いいな、家族の団欒。
コンビニ弁当の上で、缶ビールがゴロゴロ転がった。
鍵をあけて真っ暗な冷たい部屋に入る。
電気をつけて弁当と缶ビールをテーブルの上に置き、クローゼットからコートを引っ張り出した。少々お疲れ気味だが、そのまま着れそうだった。
そのときメールが来ているのに気づいた。
寿子からだった。
「クリスマスイブ、ほんとに羽田空港に飛行機見に連れて行ってくれるんですか?
私、イブに用事ないから(悲)、戸田さんにおまかせします」
何の話だ?
俺そんなこと言ったっけ。あいつに。
言ったとしたらこの前の忘年会の席だろう。
酒が回ると大きなことを口にするのが私の悪い癖だ。
その癖直さないと時と場合によては大変なことになると同僚から警告されたこともある。
あの忘年会ではそれほど酔った記憶はないが、もしかしたらそんなことを口走ったのかもしれない。
いや、言った。
確かに言った。
記憶の奥のほうでぱっと光がともり、その夜の出来事が走馬燈のように巡ってきた。
いったん突破口が開けると、記憶というものは一気に姿を明らかにするものらしい。
寿子はこんなことを言ったな。
「私、戸田さんの奥さんになったら、戸田さんのご両親を一生懸命大切にします」
「私、結婚したら主婦になりたいです。仕事は辞めます」
ある意味、逆プロポーズだと思った。
彼女はもしかしたら本気かもしれないと思った。
でも、いまいち気持ちが乗ってこない自分がいた。
寿子は素直で、けれんみのない純真な女だ。ちょっとしつこいところがあるが、
それをのぞけば性格美人と言えるかもしれない。
でも、どちらかというとメンクイの私には、性格美人というだけでは物足りない。
「クリスマスイブ、戸田さん何か用事あるんですか?私ないですけど」
「夜、羽田に飛行機を見に行こうか。いっぺん夜の空港を見たいと思ってた」
それが逆プロポーズへの精一杯のお返しだった。
コートをベッドの上に置いて缶ビールの栓を抜くと、一口飲んだ。
そしてどんな返事をするか画面を見ながら考えた。
イブに用事がない、用事がないとしつこく宣言する。
これはきっと
「私に彼はいません。フリーです」
ということを主張しているのだろう。
私はあなたのものになります、と。
そんなところがいじらしく、また小憎たらしくもあった。
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「予定通り見に行くことにするか。飛行機見て、空港で何か食って帰ろう」
と書き送った。
「レストラン、調べておきます!楽しみ〜!おやすみなさい」
これでいいんだろうか、と疑問がわく。
その気になった彼女を最後に傷つけることになりはしまいか。
羽田で言おう。
俺にその気はないと。
はっきりと言ったほうがいい。
12月24日。
クリスマスイブ。
寿子は朝から元気がなかった。
始業前、机にうつ伏せになっていた。
「どうした、皆川」
「頭が痛いんです」
「風邪か?」
「だと思います。寒気もするし」
「大丈夫かよ」
始業時間になったらパソコンに向かったが、表情は死んでいた。
10時頃、課長に相談して早退することにしたようだ。
その後社内メールが来た。
「羽田の件、延期させてください。大変申し訳ありません。今日は羽田に行きたくて出社したんですが、体がいうことをききません」
羽田空港に行きたいから無理をして会社に来たということか。
殊勝なのか物好きなのか、自分にはまねできないと思った。
寿子はすぐに退社した。
彼女が退社した後、課長が私に言った。
「39度近くあるそうだ。休めばよかったのに。ばかなやつだ」
理由はよくわからないが、胸が熱くなった。
じんときた。
さいわいインフルエンザではなく、医者の薬で熱も下がり、
2日休んだだけで出社してきた。
「皆川、大丈夫か?」
「大丈夫です」
「今日、本当に羽田に行けるの?」
明日是非行きたいと、昨晩メールをもらっていたのだ。
今日をはずしたら次の日は最終日で納会がある。
羽田には行けない。
「大丈夫です。熱もないですし」
「でも」
「行きたいです」
定時後、浜松町からモノレールに乗って羽田に向かった。
寿子は照れくさそうにしていた。
普段とは別の顔をしていた。
そんな寿子を見ていると、私も照れくさくなってくる。
会話ははずまなかったが、退屈ではなかった。
第二ターミナルの展望デッキで夜の飛行機を見た。
目の前をANAのボーイング777機がライトを点滅させてタキシング(滑走路への移動)している。キーンというエンジンの音を聞いていると、旅の予感がしてわくわくしてくる。
私はこの場できっぱりと寿子を切ろうと思っていた。
自分にその気はないからあきらめてくれと言おうと思っていた。
そのせりふも用意していた。
だけどここ数日で気持ちが大きく変わっていた。
自分でも不思議なくらいに。
寿子とは並んで立ち、特に会話もなく飛行機がC滑走路で離陸を待っているのを見ていた。
やがて寿子がこう言った。
「戸田さん、私のこと嫌いですよね。興味ないですよね」
祈るような目だった。
気持ちを決めた。
酒は飲んでいないからこれは本心だ。
「クリームシチューが食べたい」
「え?・・・」
「寿子、クリームシチュー作れるか?」
(寿子と呼んだのは初めてだった。寿子の顔が緊張した)
「はい」
「今度僕のアパートで作ってほしい。お願い」
目を丸くする寿子。
「寿子のクリームシチューが食べたい。これからずっと」
そっと肩を抱いた。
「はい。頑張って作ってみます」
と小さいけど活きいきした声が帰ってきた。
飛行機が轟音を上げて、ランウェイ34Rから果てしない夜空に飛び立った。
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