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小さな手 [感動]

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金曜日。

一週間がやっと終わり、帰宅する。
会社員にとってふっと心の縛りを緩める時。

私も50歳になりサラリーマン経験も長く幾度となく週末を迎えたが、金曜日のこの瞬間は、何度味わっても格別だ。

5日間も会社で仕事すれば、多かれ少なかれ疲労するしストレスもたまる。聞きたくもない声を聞き、見たくもないものを見ながら歯を食いしばって自身の仕事に没頭する。

金曜の夜から日曜にかけて、サラリーマンはその苦痛から解放される。かりそめの時間に過ぎないが、みんなそれぞれのやり方で心身をリフレッシュする。

今日は給料日なので、お小遣いが3万円もらえる。
今、財布には5千円入っている。
千円くらい無駄遣いしてもいいかなとふと思い、立ち飲み屋に寄っていこうと考えた。

駅の改札を出て階段を降り線路沿いを進むと立ち飲み屋がある。
焼き鳥5本とビール中ジョッキ2杯で950円である。
安くて美味いから会社帰りのサラリーマンでいつも満杯だ。
最近はOLさんも見かける。

あの店に行こう。

改札を出て、まっすぐ進んだ。
だが階段を降りようとしたとき、綺麗なメロディが風にのって聞こえてきた。
チェンバロのような可憐なキーボードと透き通るような声だった。
メロディは緩やかで、今の自分の心の琴線にふれるものがあった。

階段を下りず、ペデストリアンデッキをまっすぐ進んだ。

女性がキーボードを弾きながら歌っていた。
痩身で背が高く、夜なのにサングラスをかけている。
雰囲気から20代後半だろうか。


小さな手の力   とりもどしたい
小さな手のいのち 感じてみたい

どこにいったの? 私の小さな手


サビの部分らしく、このフレーズを二度繰り返して曲が終わった。
聞いたことのない曲だった。

足を止めて聴いている人は2,3人だった。
彼女の足元に箱があり、
「オリジナル曲のCDさしあげます」
と書いてある。

もう一度最初から聞いてみたいと思った。
もう歌わないのだろうか。
そんなに音楽好きな方ではないが、そのメロディには惹きつけられた。

「ありがとうございました」
 丁寧におじぎをした。

−もう終わりか?−

そばに近寄って聞いてみた。

「今日はもう、終わりなのですか」
彼女は最初空を見た。
そしてゆっくりと私のほうに顔を向けてえくぼを作った。

もしかしたら目が不自由なのかもしれないと直感的に思った。
しぐさからして全盲か、それに限りなく近いかもしれない。

「すいません。今日はもう、おしまいです」
「いつもここで歌ってた?」
「いえ。今日が最初です」
「今度いつ来るの」
「わかりません・・・・あまり反応良くなかったし」
「そんなことない。とてもいい曲だったよ」
「ありがとうございます」

「歌手目指してるの?」
「いえ。そんなつもりじゃ」

CDは10枚ほどあった。

ここまで話をしておいて手ぶらで帰るわけにはいかない。
もう二度と耳にできない曲かもしれないし、一枚もらうことにした。

「一枚もらってもいいかな」
「どうぞ。ありがとうございます」
「もらうのは心苦しいな。買おうか?」
「いえ。これで商売するつもりはないので」

一枚もらった。

彼女は手探りでキーボードの電源を切った。
やはり目が不自由だった。



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私は何も言わずに去った。
彼女が電話をかけたからだ。
相手は家族か友人か。
機材を片づけるのに人手がいるのだろう。

立ち飲み屋にはいかなかった。今晩あの店で酒を飲んだら彼女に悪いような気がした。
すぐに家に帰って聴いてあげたいと思った。

CDのタイトルは「小さな手」だった。

歌詞集と、簡単な自己紹介が書かれたリーフレットが入っていた。

=====================================
CDもらってくださりありがとうございます。
美雪と申します。

オリジナル曲が5曲入っています。
稚拙な曲ですが、お楽しみください。

私は子供の頃、網膜色素変性症という目の病に罹りました。
根本的な治療方法がなく、徐々に視力が失われていく難病です。
今ではもう、何も見えません。

でも最近、心の中に火が点るようになりました。
以前は音楽なんてやったこともないのですが、
急に音楽が浮かぶようになったのです。

この「小さな手」は、心の暗闇の中にふわっと浮かんだきたメロディです。
そのメロディに歌詞を付けました。

私、目が見えなくなる時、ああ、もうこれが最後かもしれないと思ったとき、自分の手をじっと見ました。一番忘れたくなかったのが自分の手だったのです。そのときの思いを詞にしました。

これからも音楽活動を続けていきたいと思います。
応援してください。

(代筆:妹の小百合)

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タイトル曲「小さな手」の歌詞を載せておく。


もしも神様がいるのなら お願い

私の小さな手 とりもどしたい

泣きたいあの日  小さな手で母にすがった 
うれしいあの日  小さな手で父に飛び乗った 

小さな手のねがい かなえてあげたい
小さな手の気持ち 思いだしたい

どこにいったの? 私の小さな手


もしも神様がいるのなら お願い

私の小さな手 とりもどしたい

熱いおひさま  小さな手が赤く透き通った
雪のひとひら  小さな手に吸いこまれていった

小さな手の力  とりもどしたい
小さな手のいのち 感じてみたい

どこにいったの? 私の小さな手


・・・・・・。

目が見えなくなるというのはどういう感覚なのだろうか。
しかも徐々に、静かに、光が消えるように。

見えていたものが見えなくなる。
世界が暗黒に支配される。

私ならどんな感覚になるだろう。
それははかりしれない恐怖をともないそうな気がする。
もしかしたら「死」と同じレベルの恐怖ではないか。
私には耐えられない。

私の一週間のストレスなど、彼女の苦悩の足元にも及ぶまい。
千円無駄遣いして酒飲んで帰ろうなんて考えている男に、この詞の本当の意味がわかるだろうか。
「とてもいい曲だったよ」
なんて口にすること自体おこがましい気もする。

せめて祈ろう。

彼女が健常者では絶対に持てない心の目を開き、
音楽を通して多くの幸福を得てくれることを祈ろう。


手のひら.jpg


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