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尊い命。 [感動]

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私は、20代前半で結婚し、すぐに娘を産みました。
2年後には息子にも恵まれて、家族4人で田舎の一軒家も手に入れることができ、幸せに暮らしていました。
近所の人は、優しく話しやすい人ばかりです。
同じように子供を育てている人も多かったので、話題は尽きませんでした。
子供のことを中心に、ダンナの家族のこと、仕事のこと、などなど…。
ただ、私は元来人見知りをしてしまうタチなので、近所づきあいは最低限だったと思います。それでも、自分の子供たちと同年代の子供、その家族たちとはなんとか付き合っていました。
その中で、田中家という家も近い家族がありました。
夫婦は私と年齢が近く、子供は娘と息子のちょうど間の年齢の一人息子。
名前を、優斗(ゆうと)といいました。
夫婦、優斗ともにとても人柄が温かく、私も初対面からすぐに馴染むことができた人たちです。
近所づきあい、学校での用事の他にこの家族とは一緒に出掛けることもありました。もちろん、子供同士も仲が良くてしょっちゅう行き来していたのです。
大人同士の付き合いは、長年の経験から波風を立てないようにこなすことも可能です。けれども、子供同士と子供と大人というのは、ごまかしがきかないと思っています。
優斗は、私が知らない人を苦手としていたことを感じていたと思います。
それでも、子供たちのお母さんとして見ていてくれたのでしょうか。
子供たちがいないときでも、私を家の近くで見ると挨拶し、今日あった出来事などを話してくれるようになりました。
知り合いの子供と近所のおばさんという関係から、私たちは確実に人と人としての付き合いを始めていたと思います。
子供ながら気遣いのできる優斗に、私も安心感を覚えるようになってきました。
そんな幸せな日々を過ごしていましたが、悪魔は容赦なく私たちの時間を奪っていったのです。
夏休みに入り、優斗の家族は隣町にある祖父母の家に一週間ほど滞在するということでした。
私たちも似たような予定が同じような日程でありましたので、しばらくのお別れをした覚えがあります。
毎年、このようなパターンができていました。
少しさびしく思いながらも、優斗に手を振ったことを覚えています。
そして、あどけなく手を振り返してくれた優斗の笑顔も…。
まさか、この日が最後になるとは思っていませんでした。


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3日後、優斗が祖父母の家付近で交通事故に遭ったのです
規定を大幅に上回るスピードで走っていた車に接触し、小さな優斗はあっという間に10メートル以上も飛ばされてしまったということでした。
即死だったといいます。
田中夫妻が悲しみに明け暮れたのはもちろんのことですが、私もとてもつらい気持ちでした。
本当の自分の子供が失われたような気分です。
犯人を今すぐ問いただし、優斗と同じ目に遭ってしまえばいいとさえ思っていました。
四十九日も過ぎた頃。
表面的には落ち着きを戻してはいましたが、心の中は荒む一方でした。
一目でも、あの可愛い優斗に会うことができたなら…。
ふと一人になるときに、よく思い出していました。
ときどき、生きていた頃そのままの姿で優斗が私の夢に出てくることも…。
優斗は、相変わらずニコニコして私の話に耳を傾けてくれるのでした。
半年が過ぎ、一年、二年の月日が流れました。
相変わらず、田中家との交流は続いています。
しかし、私の子供たちを見ている瞳が、ふと悲しげな色をたたえていることを感じていました。優斗のことを思い出しているのでしょう。
年が近かったのですから、無理はありません。「生きていたら今頃は…」という心の声が、私には聞こえてくるようでした。
そんな憂鬱とした日に、ある日光が差し込んできました。
田中の奥さんが妊娠したことが分かったのです!
もちろん、私は真っ先に優斗の顔が思い浮かびましたが、生まれてくる子は全く違う子です。優斗の弟か妹に間違いはありませんが…。
優斗が生まれ変わって、また田中家に来てくれるのではないかと思うと、まるで自分のことのように嬉しくなりました!
そして、夫と子供たちと共に子供の誕生を今か今かと待つようになったのです。
子供は、女の子でした。
妊娠は順調でしたが、生まれつき体に重い病気を抱えており、自宅から離れた大きな病院に入院することになりました。
私は、時間の許す限り女の子に会いに行きました。
小さな小さな女の子です。
医療機器に守られて、すくすくと育っていく様子はとても愛おしく、この世には無駄な命はないということを思い知らされました。
奥さんによると、しばらくは病院に居なければならないようですが、体重が増えれば自宅に変えれる可能性があるということでした。
どんな形でもいい、とにかく生き抜いて欲しい。
田中夫妻はそう、強く願っているようでした。
もちろん、私たち家族も思いは一緒です。
私たちに血のつながりはありませんが、一時でも近くで同じ空間で生活を共にしている人間です。
これから、何年今の状態が続くのかは分かりません。
けれども、もう二度と優斗の悲劇を繰り返したくないと思っているということだけは、断言することができます。
新しい命を含め、私の身近な人が不幸にならないようにと、ただただ祈ることしかできないのです。


母子.jpg


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タグ:感動 子供
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「ぼく、みんなと走りたい!」 [感動]

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「ぼく、今度の運動会でみんなと走りたい!」

 小学校一年生の息子の翔がそういったとき、気持ちは理解できましたが、賛成はできませんでした。
 下肢障がいのため幼稚園にもいかず、家の中にこもりきりで外で遊ぶことも滅多になかった翔でしたが、小学校に入ったら友だちもできてやや活発になりました。でも親としてはその気持ちを受け入れることはできませんでした。

「いいのよ、翔くん。先生にはね、足が悪いから徒競走には出ませんといってあるんだから。翔くんはお遊戯だけ一生懸命にやろうね」
 と妻が優しく語りかけます。

 翔はうつむいたまま何もいいません。
「パパも会社休んで翔のアンパンマンダンス見にいくからね」
「みんなと走ってみたいのに」
 しくしく泣き出す翔でした。

 幼児の頃、翔の足に全く疑念がなかったといえばうそになります。自力で立てるようになった時期も世の中の平均水準よりかなり遅く、歩こうとしても左足をかばってすぐ転ぶのでした。二歳半になって、親の手に引かれながらゆっくり歩けるようになりましたが、両足が釣り合わない歩き方はなくなりませんでした。
「この子障がいじゃないかしら」
 と妻。日々心配を募らせています。
「医者は何といってる?」
「健診のときに相談したんだけど、現時点では断言できないって」
「歩行能力がつくのは個人差があるっていうじゃないか。もう少し様子を見よう」
 ある日妻が息子を抱いて不安そうに帰宅しました。二人で公園に遊びにいっていたようです。妻は真っ青な顔をしています。
「ぜったい変。この子障がいだと思うわ。だって同い年の子、ウサギみたいに走り回ってるのよ。どうして翔だけがよちよち歩きなの?」
 さっそく大学病院の専門医に診てもらいました。 
診断は妻の予想通りでした。左足に先天性の下肢障がいがあるらしいのです。訓練次第でゆっくり歩いたり走ったりはできるようになりますが、左足をかばうような動作は一生なくならないといわれました。
翔が満三歳の誕生日を迎えてすぐのことでした。

 それから専門の施設に通いながら訓練する日々が始まりました。医者のいったとおり、翔は少しずつですが自力で歩けるようにはなりました。
 でも、幼稚園には入園させないことにしました。あまりに残酷だと妻がいうのです。みんなと同じように飛んだりはねたりできない体で幼稚園に通うのは地獄に等しいと。
「でも保育士の先生がついてるじゃないか」
「わからないわ。入園を拒否されるかもしれないし。それに私だってつらいわよ。健常者の母親の中で」
 その頃の妻は、ややヒステリックになっていました。園児たちの翔への視線だけでなくて、自分への視線も気になるようでした。
 結局幼稚園にはいかず、家の中で妻と遊ぶか、表に出ても車で遠出して見知らぬ町の公園で砂遊びをする程度でした。

 でも、さすがと小学校を避けるわけにはいかず、近所の公立小学校に入学しました。送り迎えは妻がおこない、登校班には加わりませんでした。翔は学校に着いてもおどおどして妻にくっついたままで、離そうとすると泣きだすこともあり、担任の先生がなだめるのに苦労したようです。
 その翔が変わったのは夏頃でした。
ある朝、同じマンションに住む同級生の男の子が
「翔くんといっしょにいきたい」
と誘いにきてくれたのです。とまどい気味の翔でしたが、初めて母親から離れ、登校班に加わったのです。もちろん歩くスピードはみんなよりかなり遅いです。でも友だちは同じスピードで歩いてくれました。上級生も、心なしかゆっくり歩いてくれているように見えました。
翔は日々明るくなっていきました。目に見えて変わったのです。

 ですから翔が「みんなと走りたい」といったとき、その気持ちは理解できたのです。でも、一緒に走ったところでビリになって本人が傷つくのは目に見えています。そんな思いをさせたくないし、親としてもそんな息子を見たくなかったのです。
 でも翔はあきらめませんでした。先生にも走りたいと打ち明けたようで、担任の先生からも自宅に電話がありました。
「走ることで肉体的に支障が出ないのであれば、ご本人の気持ちを尊重してあげてはいかがですか」
 妻も私も同意しました。


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 そして運動会当日。
一年生の徒競走が始まりました。
よく晴れた秋の日で、軽快なBGMと放送委員の児童の声、そして子供たちの喚声でもりあがっていました。同級生の親たちは我が子の姿をビデオにおさめようとやっきになっています。そういう空気の中にいると、翔が走る時間が迫るのが怖くてしかたありません。

−できれば走らないでほしい。怖じ気づいてくれないだろうか−
 なんて考える私がいました。

ついに翔の番です。
5人並んだスタートラインの一番隅っこに翔がいました。
左足をかばうように立っている翔は、ほかの子の見よう見まねで、両手を構えて片足を引き、走り出す姿勢に構えていました。でもその姿は様になっておらず不自然でした。みんなのまねをすればするほど無力に見えて、かわいそうでした。
「バン!」
 と音がして子供たちが走り出し、喚声が起こりました。
ほかの子たちはあっという間に翔を引き離し、ゴールしました。

 翔は左足を引きずり引きずり、まだトラックの真ん中あたりにいます。緊張からか足取りもぎこちなく、普段より遅い印象もありましたが、普段よりも必死でした。口を開けて顔を真っ赤にして、真剣な目で前を向いてゆっくり足を回転させています。

見ていられませんでした。
それはすでに徒競走ではなく、見せ物にすら思えました。
人はきっと翔のことを好奇な目で見ていることでしょう。

「翔・・・もうやめていいのよ!」
 妻が両手を口に当てました。

そのときです。
子供たちの喚声が一段と大きくなったのです。

「翔くん、がんばれえ!」
「翔くん、強いぞ!」
「もう少しだぞ!がんばれえ!」 

翔の目が光りました。
そのいたいけな目は、ゴールで待っている友だちの顔をまっすぐ見ていました。そして転がるようにゴールしました。みんなの喚声と拍手が翔を迎えました。荒い息でとてもつらそうでしたが、走り抜いた充実感にあふれていました。

私、泣きました。
翔のことで初めて涙をこぼした瞬間でした。

さまざまな心配は、親のエゴだったのかもしれませんね。
翔はあの小さな体で、自分なりに生きる力を身につけようとしているのです。これからは翔の意志を尊重し、自由に伸び伸びと歩かせてあげたいと思っています。


徒競走.jpeg


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タグ:感動 親子
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