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洗濯物たたみ当番に立候補したおやじ [感動]

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「パパにも何か家のお手伝いしてもらわないとね」

子供たちが少し離れたところで遊びだすと、妻が食洗機に皿を並べながら、釘をさすようにそう言った。

「俺は仕事してるし」
 と晩酌のウイスキーの残りを一気に飲み干して軽くげっぷする。

「私だって家事してるわ。美代も学校行ってるし、さよりも幼稚園行ってる。みんなそれぞれ抱えてるのよ」

さっき妻は小学校4年の長女美代にお風呂の掃除当番を命じた。みんなで家のことをやろう、というスローガンを華々しく掲げたのだ。家の仕事をするのは母親だけ、という意識を持たせるのは子供たちに良くないというのが妻の持論だ。

「さよりは何もしてないじゃないか」
「さよちゃんはまだ5歳だから。でも、そのうち何かさせるわ」

妻が言うには、父親もその例外ではないらしい。父親だって家事の一翼を担う存在であることを示すべき。勤めから戻ったらお酒飲んでテレビ観てごろごろしている従来の日本のパパ像は子供の教育に悪い。
「父親も家のことを手伝って当たり前。そういうイメージをあの子たちに植え付けたいのよ」
「何をすればいいんだ」
 また面倒くさいことを言いだしたなと思い、ぶっきらぼうに言った。

「・・・さあね。何がいいかしら」

そうは言ったものの、さあてこの人に何ができるのかしら、みたいな表情をして食洗機のスイッチを入れた。

他のサラリーマンおやじもおそらく同じことを考えていると思うが、私は、会社から戻ったらその日の仕事は完結したと思っている。

今日も会社で痛い目に遭ってきたんだ。せめて家の中ではゆっくりさせてくれ。俺様は稼ぎ頭だから帰宅後はゆっくり寛ぐ権利がある。

これが私の本音だし、多くのおやじの気持ちを代弁していると思う。会社から戻って家事を手伝うなど考えたこともない。もちろん妻がフルタイムで働いているのなら話は別だが妻は家にいる。妻の仕事は家事なのだ。その家事を妻以外の家族で分担するなど、役割放棄ではないか。

2杯目の水割りを作ると、新聞を広げ、ピーナッツをかじった。
妻はキッチンの電気を消すと、居間に放置された洗濯物をたたみ出した。

その姿を見ながらさっきの会話を思いだした。

一理あると思った。

子供たちのためにも父親が家事をする姿を見せる。
わからなくもない。
情操教育というほど大袈裟ではないが、家事をする父親の背中は、子供たちにとって、ひょっとしたら「かっこよく」見えたりするかもしれない。
でも私に何ができるのか。
妻が考えて思いつかないのだから、私に思いつくわけがない。

その日はそれで終わった。

お風呂掃除のプロセスには何段階もあるらしい。
湯船の中、床、カバー、シャンプーや石鹸がおいてある棚、トレイにいたるまで、妻が確立した清掃手順がある。
美代はそれを母親から指導され、毎日こなしている模様だ。

休日など、作業を終えてバスルームから出てくる美代は、どことなく鼻高々に見えた。

「あ、終わったの?美代ちゃんありがとう」
 と妻が明るく声をかける。

「ああ、大変だったな」
と手を拭きながら私を乾いた目で見る。

仕事を終えた達成感と、遊んでいる人間に対する優越感。
妻のいっていることが何となくわかる。
父親だけがぶらぶらしているのはお手伝い熱心な子供に良くない。

何か探さないと。

居間に放置されてある洗濯物が目に付いた。
妻は一日の最後に洗濯物をたたむ。
タオル、ハンカチ、靴下、子供たちの服、父親のワイシャツ、下着。
それらを手際よくたたみ、所定の場所に格納する。

これならできるかもしれない。
慣れてはいないが、要するにたためばいいのだ。
たたみ終わったら、それをしまえばいい。
面倒なのは洗濯物ハンガーから取り外すことくらいで、あとはきわめて単純な作業。

ある休日の夕飯の前、私はあえて「洗濯物をたたむことにした」とは言わずに、
さりげなくその仕事に着手した。
当然のように(さりげなく)手伝う方が子供たちのためにもいいと思ったのだ。
仕事は10分ほどで済んだ。

でも妻は無言だった。
その一部始終を見ていたくせに、何も言ってくれなかった。
やって当然、なのだろうか。


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何となく、自己主張してみたくなる。
本当は
「洗濯物たたんだぞ!」
と言いたいところだが、言葉を変えた。

「美代の下着さ、2番目の引き出しに入れたんだけど、よかったかな」

妻は子供用のタンスをちらっと見ると、
「だいじょうぶ」
と答えた。

かくして洗濯物たたみは、暗黙の了解で私の当番になった。
会社から戻って居間の片隅を見ると、洗濯物の山がある。
バルコニーから取り込んだままの姿で、私を待っている。

夕飯のあと、片づける。
しかし、誰も何も言わない。

あまりに冷たくないか?と思ったりする。
何か言うべきではないか。

「パパありがとう」
「助かるわ」

その一言がほしい。
妻でなくてもいい。美代でもいい。何か言ってほしい。

一度仕事を放棄して何もしなかったことがあったが、洗濯物が翌朝まで放置されたのには驚いた。
洗濯物たたみは、完全に私の責任下におかれていることに気づいた。
と同時に、言いようのない孤独を知った。
たたんでしまうだけの単純な作業だが、それは私にとってきわめて孤独な作業だった。

しかし、その孤独な努力が報われる瞬間がきた。

ある日曜日の夕方、いつものように黙々と洗濯物をたたんでいたら、
ミニカーで遊んでいたさよりがばたばたと走ってきて

「パパ、あたしもやる」

と言ったのだ。
そのとき、何か温かいものに包まれた気がした。

さよりは何分もかけて一枚のタオルをたたんだ。
たたんでは広げ、丁寧に引き延ばし、またたたむ。
それはほとんど遊びの域だった。
彼女にはミニカーとタオルが同じ次元に見えていただろう。

でも、嬉しかった。

妻の言いたかったのはこのことなのかもしれない。
当たり前のように、みんなで家事を手伝う。
すると自然に和ができる。
家族にしかない強調の和ができる。
これが子供たちにとっていいのだ。

ウイスキー飲みながらぼさっとしている男が一人でもいると、その理想が実現できない。
わかる気もする。

妻がゆっくり歩いてきてしゃがみこむと、
「さよちゃん、えらいわね。ありがとう」
と言った。

私には何も言わなかった。

また一瞬孤独に押し戻された気がしたが、
これでいいのだ、と思い、

「さより、ありがとう。助かるよ」

と言ってあげた。

そう言えた自分が、かっこいいと思った。


洗濯物.jpg


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 [感動]

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男女が結ばれるまでには様々な過程があると思います。
それはおそらく、男女の数ほどあるのではないでしょうか。
男女の数ほど出会いがあり、結実にいたる道のりがあり、そしてまた別れもあると思います。

私も35歳になるまで、いろんな女性との出会いを経験しましたが、加奈子との出会いほど強烈なものはありませんでした。
それは目と目が合った瞬間に起きました。
言葉は何ひとつ必要ない、運命的な出会いだったと確信しています。

私はデータ通信サービスを行う企業の品質管理部門に在籍していました。職場は品川にありました。JR品川駅を降りてインターシティを通り抜けると、数ある品川のオフィスビルの中でも一番背の高いビルが見えてきます。その12階に私の職場がありました。

組織再編でそれまで三鷹にあった企画部門が品川に移転してきたのは4月のことです。がらんとしていた空き机に数十人の社員が埋まり、職場はにわかに活気を帯びました。

私の席の隣の島に、企画一課が陣取りました。
女性が多い課で、そのあたり一帯が一気に華やいだのを覚えています。
 
その中に浦田加奈子という初対面の女性がいました。
背がすらっとして、清楚な感じです。
物静かで、知的な感じもします。

その女性とは何度か目が合いました。

一度視線が合ったとき、何となく感じるものがあり、それが何を意味するのか確かめるために、そばを通り過ぎる度に視線を合わせるようになりました。異性と目が合うのは珍しいことではないのですが、多くは単に目が合っただけで終わります。でも彼女の場合違いました。

胸がときめくのです。
目が合ったときの、心への響き方が尋常ではないのです。
じんと、体全体に電気が走るような感覚。
あるいは体の一部が溶けそうな感覚。
目が合っただけで、強烈な衝撃を受けたのです。

この年になってバカかと思いましたが、それは事実でした。加奈子も私と目が合うと面映ゆそうに下を向き、髪をすいたりします。明らかに私を異性として意識し、動揺していることの証でした。
彼女の心と体にも、同じことが起きていると確信しました。

私は加奈子に恋をしました。
それははっきりと自覚できました。

とはいえ、エレベーター等で二人きりになったときなど、加奈子はそっけない顔をしました。目を合わせるどころか、スマホを操作してみたり、手に持っている仕事の資料をめくってみたり、私とコミュニケーションをとろうとしないのです。
畑が違うので仕事上の接点はなく、よって会話する機会もなく、お互い言葉を交わすとしたらそういう時でないと無理なのですが、彼女は私が言葉をかける機会をはばむのです。
そんなとき私は

「ああ、やっぱり僕の思いこみか」

と落ち込みます。

でも次の日、その穴埋めをするかのように、彼女は私に視線を送ってくるのでした。少し離れたところから、私を見ているのです。
私もその視線に気づき、胸をときめかせます。

「ああ、やっぱり彼女は僕のことを思ってるんだ」

と嬉しくなるのです。

せっかく芽生えたこの恋を育てなければならないと思いました。
35歳まで独身でいて、もう半ばあきらめていた矢先のこの恋。
できれば失いたくない。
彼女の左手の薬指を見ると、指輪はありません。
雰囲気にも生活感がなく、99%独身と思われます。
この恋を成就したい。

でもきっかけがなかなかつかめまんせんでした。
多少の面識があれば、仕事の接点がなくても話しかけやすいものですが、お互いを結ぶものが何もないので、話しかけられないのです。
35歳になって、こんな胸キュンの目に遭うとは思ってもいませんでした。
彼女はどう思っているんだろうか。
私に話しかけられたいと思っているんだろうか。
悶々とした日々が続きました。

そんなある日、私に異動の命令が下ったのです。
大阪事業所が新製品プロジェクトを立ち上げたのですが、品質管理部門が脆弱なので、軌道にのるまで支援してほしいと言われたのです。
長くても一年で戻すから大阪に行ってくれと。


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東京を離れるのは大したことではないですが、彼女と別れるのが辛かったです。会わない時間が長くなればなるほど心の距離が開いてしまい、気持ちも色あせていくに違いありません。
せっかく咲いた春の花は、そのうち萎れて枯れてしまうでしょう。

でも会社の指示ですから仕方ありません。
従うしかありませんでした。

出発の前の日、思い切って彼女に声をかけました。

「あの、私明日から一年間大阪に行きます。私の机、不在中は企画一課の人で使ってもかまいませんよ」

別に言う必要のない言葉でした。
でも自分がいなくなることを知っておいてほしかったし、分かれる前に一度でいいから会話しておきたかったのです。

彼女、冷静な顔で

「そうなんですか?・・・わかりました」

と言いました。
そっけない言い方でしたが、瞳が潤んでいました。

大阪に移れば彼女のことを忘れるだろうと思いました。
でも甘かったです。
思いはどんどん膨らみました。
業務上の用事が何もなく、気軽に近況を伝えるような仲でもないのでメールも送れず、私は加奈子の記憶だけを心の支えに生活していました。

大阪の町で彼女に似た女性を見かけたら胸をときめかせ、
深いため息をついたものです。

思い続ける一方で、悲しい妄想も浮かぶようになりました。

「彼女はもう、僕のことを忘れているかもしれないな」
「新しい彼氏ができたかもしれない」
「いや、もともと彼氏持ちなんだ。私のことなんて最初っから何とも思っていなかったのさ」

でも、視線が合ったときの幸福な感覚も思い出すのです。

「彼女だって同じ思いだったはずだ」

そうやって一年が過ぎました。
彼女のことを自分本位に想いめぐらせながら一喜一憂する日々でした。

東京に戻ると、席の配置は変わっていましたが、企画一課はすぐそばにありました。

一年ぶりに彼女と目が合いました。
一年前とほとんど変わらないときめきがきました。

私は告白を決意しました。
一年たっても変わらない思い。これはもう告白しかない。

「好きです」

ある日給湯室に呼び出して、そう告げました。
天と地がひっくり返るような緊張の中、その言葉を心の中から絞り出したのです。そして気持ちが高ぶり、自分でも意外な言葉が出てきました。

「結婚してください」

彼女は目をしばたたかせながらうつむき加減になり、しきりに髪をいじりました。そして

「はい」

と答えたのでした。

初対面から会話がなく、大阪に出かける前に一言声をかけただけ。
それから一年間の時を経て給湯室でプロポーズしてOK。

こんなことありですか?

ありなのです。

それから3ヶ月ほど交際し、結婚しました。
意外な組み合わせだと、職場の連中が目を丸くしました。
何をきっかけにつきあいだしたんだと・・・。

何がきっかけって。
目が合っただけです。
本当にそれだけのことなんです。

交際するようになって、ゆっくり彼女の気持ちを聞きました。

私と全く同じ気持ちだったようです。

私が大阪に行っていた一年間、
一瞬も私のことを忘れたことはなかったそうです。

「私のことをどう思っているんだろうかって、そのことばっかり考えてた。
机使っていいよって、どういう意味だろうかとか。彼女いるのかな、とか、
大阪で彼女作るかもしれないな、とか」(恥笑)

・・・・・。

『せつなる恋の心は尊きこと神のごとし 』
(樋口一葉)


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タグ:結婚 会社 感動
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人身事故のあと [感動]

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僕は電車に飛び込んで死のうとした人を救ったことがあります。

未然に防ぐことはできませんでしたが、命を落とすという最悪の事態は避けられました。

そのときの話を書きたいと思います。
事故の様子と、その後の当事者の様子など。

ところで僕は救急救命士でもなく、鉄道警察官でもありません。
ただのサラリーマンです。
その日も仕事を終え、JRのとある駅で別の電車に乗り換えようとしていました。

秋の夕方でした。月曜日だったと記憶しています。
僕は得意先を訪問し商談をまとめ、そのまま直帰していました。

いつもはもっと遅い時間に帰るので、その時間帯の電車に乗るのは初めてだったかもしれません。
17時30分を過ぎたばかりなので、空いているかと思いきやけっこうな混雑。空いた電車が来るのを待っていました。その日面会したクライアントは少々面倒な人で、妙に気持ちがへこんでいたのです。なるべく空いた電車に乗りたいと考えていました。
下り電車が来てベンチがあいたので、その席に座りました。

乗り換え駅なので、多くのお客さんが降りたり乗ったりします。
そんな中、少し離れた自動販売機の前で、僕と同じように電車を何本も見過ごしている若い男性がいました。

当時僕は26歳でしたが、僕より5〜6歳は若く見えましたから20歳そこそこの青年でした。
学生だったかもしれません。

見るからに異様でした。

立った状態で電車を見てはいますが、まったく別のものを見ているような雰囲気でした。瞬きせず、少々うつむき加減に、その眼はじっと線路、あるいは電車の下の方を見ていました。

これから電車に乗ろうとする人間の目ではありません。
昨日、今日、そして明日と、人は時間の連続の中で生きていますが、彼にはそういった時間的感覚がないような印象も受けました。時間から切り離されて、そこにぽつんと存在しているという印象です。

誰も彼のことを気にはしていません。
しかしその存在に気づいた僕は気にせずにいられませんでした。
彼がこの後何をするのか、それを見届けなければ電車には乗れないと思いました。

好奇心もあったかもしれません。
怖いもの見たさもあったかもしれません。
でも異常な事態が起きることを期待してはいませんでした。
彼が何事もなく普通に電車乗ってくれたら、あるいはホームを去ってくれたらそれが一番いい結末だと考えていました。

その彼が行動に出たのは数分後です。

彼の表情が一気に変わったのです。
それはとても複雑な表情でした。
怒りが最高潮に達して暴力行為に走る瞬間の、カミソリのような冷たい目。その一方で、ふーっと肩の荷を下ろしたような安らかな目。僕はその両方の目を同時に見ました。

彼は電車が近づいてくる音を追い求めるようにふらふら歩き、人を押しのけて前方に進みました。彼の目標は明らかに電車でした。

(飛び込む気だな)

(やめさせなければ)

もちろん彼の人生に関心はありません。
彼がどこで何をしようと、死のうが生きようが僕の生活には何の関係もありません。でもここで死なれるのは嫌だと思いました。電車も運転見合わせになるし、そもそも死のうとしている人間をそのまま放置して死なせてしまうなんて、絶対後味が悪いと思ったのです。

僕も一緒に走りました。
彼を目指して人にぶつかりながら走りました。

電車がけたたましく走ってきます。

「やめろ!」

彼の腕をつかみました。

バン!

鈍い音がして彼は跳ね飛ばされ、ホームにひっくりかえりました。

女性の悲鳴がしました。
彼のそばから人がさーっと引きました。

非常ボタンが押され、不気味な音が駅構内に流れました。
駅員や警察官が走ってきました。


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「大丈夫ですかあ?・・・聞こえますかあ?」
 駅員が彼に大声をかけます。

意識はあったようです。
うつろな目を駅員に向けていました。

電車は人身事故で運転見合わせになりました。

僕も事故に関わったとして、警察官に事情を聞かれましたが、目撃者も大勢いて僕が彼の自殺をやめさせようとしたことがすぐに立証されました。
「勇気あるご協力、ありがとうごさいました」
と最後に駅員が頭を下げました。
やがて彼は担架に乗せられ、ホームから消えました。

一か月後。

彼から手紙が届きました。

------------------------------------------------------------------
命を助けてくれてありがとうございます。
頭蓋骨と手の指二本の骨折で済みました。

つきましては、一度お会いしたいです。
母もお礼がしたいと言っています。

お手数ですが、会っていただけるかどうか
取り急ぎ返信いただけると助かります。
------------------------------------------------------------------

そんな内容の手紙でした。
手紙の最後に本人と母親のメアドが書かれていました。
字体から真面目な性格がうかがえました。

僕は本人のメアドに
「お会いすることは差し支えありません。日曜日ならば何時でもいいので、そちらの都合に合わせます」
と送りました。

日曜日の午後二時、彼の病室を訪問しました。

頭と手に包帯をして寝ていました。

表情は静かでした。
あの駅で見せた形相は微塵もありませんでした。

母親は何度も頭を下げ、僕に感謝の言葉を述べました。
ほとんど謝罪しているような感じでした。
彼が加害者で僕が被害者であるかのような。・・・

彼も寝たまま
「すみませんでした。ご迷惑かけました」
と言いました。

「お元気そうで何よりです」

母親が差し出した椅子に腰かけました。
命を救ったとはいえ、赤の他人。
彼が何をしている人か、どんな悩みや障害を抱えているのか全く分からない赤の他人。

わかっているのは、21歳の会社員であること。
そして名前。
これだけです。

彼にどんな声をかければいいのか、まったく見当が付きませんが、ひとつだけ聞いておきたいことがありました。

−もう、死ぬ気はないのか−

命を救ったのですから、聞く権利が僕にあるように思います。
でも露骨には聞けないので、言葉を変えようと思いました。
お湯を取りに母親が席をはずしたところで、こう聞きました。

「これから、ちゃんと生きていけますか」

「わかりません」

少し間を置いて、そう答えました。

「命を粗末にしないほうがいいですよ」
 思わずそう言いましたが、電車に飛び込もうとする人にとっては、何の説得力もない貧相なせりふだったでしょうね。彼の返した言葉がそれを物語っています。

「命を助けてくれたのは感謝していますが、あなたには僕の気持ちはわからないと思います」

それから彼とはほとんど会話しませんでした。
母親が淹れた紅茶を飲み、適当なころあいを見て病室を出ました。

彼の人生に関心はありませんでした。
どうでもいいと思いました。
もしかしたら、また同じようなことを繰り返すかもしれないな、と考えたりしました。

それから半年ほどして、彼の母親からメールが来ました。

「先月まで介護の仕事をしていましたが、今はスポーツジムで働いています。高校生の頃水泳をやっていたので、水泳のインストラクターを目指すそうです。本人も、なんとか生きています。・・・」

そんな内容でした。

−なんとか生きています−

なぜかわかりませんが、嬉しかったです。
関心はなく、ほとんど忘れていたというのに、その知らせを聞いてほっとしたのが自分でも不思議でした。

人が生きていることを知って安堵するなんて、あまりないですよね。
初めての経験でした。


電車.jpg


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咲子は今でも生きています [感動]

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ずっと一緒にいたのなら納得できたかもしれません。
受け入れられたかもしれません。

咲子の死を。

でも何も見ていないのですから、私には納得できません。

咲子は死んでいません。
咲子が私を残して死ぬわけがありません。

咲子は今でも生きています。


私と咲子は高校時代に知り合いました。
二年生の頃、図書委員で知り合ったのです。
相性は抜群でした。以来、ずっと交際を続けていました。

大学まで同じでしたが、就職先は別になりました。
私は商社、咲子はブライダルプランナーを目指して大手結婚式場に就職しました。

あれは私がニューヨークに赴任する半年ほど前のことです。
クリスマスイブの夜、道玄坂で食事しました。
お互い27歳になっていたと思います。

咲子がリキュールを少しずつ飲みながらしたりげに

「私たちの結婚式、私がプロデュースするからね」

と言ったのです。

まだプロポーズ前で、それまでお互い結婚の話なんてしたこともなかったのですが、私はその言葉をすぐに受け入れました。

二人が結婚することは、暗黙の了解だったのです。
プロポーズの言葉なんて不要だったのです。
お互いをおいて他に人生の伴侶は考えられませんでした。

「花嫁さん自ら結婚式を演出かあ。忙しいな」
「もちろん、啓ちゃんにも手伝ってもらうわよ」
「僕は何をすればいいの?」

「そろそろ考えないとね」

アボガドのサラダを丁寧に口に運ぶ咲子。
頭の中でいろいろ考えている様子でした。
瞳が活きいきと動きまわっていました。

「来年、8か月の予定でニューヨークに行ってしまうからな」

長期出張の件はすでに咲子に話していました。

「帰国したらすぐに計画立てようね。私も考えとくわ」

バレンタインデーの直後、私はニューヨークに旅立ちました。
咲子は成田まで見送りに来てくれました。

「毎日メールしてね」
「うん。写真も送る」

それからしばらく一万キロ以上も離れることになりますが、
不思議と寂しさは感じませんでした。
心と心がひとつになっていれば、どんなに離れていても寂しくない。
ドラマや小説でよく語られるフレーズですが、その通りだと感じました。
咲子も同じだったと思います。
別れる直前にぎゅっと抱きしめてあげたのですが、咲子は女性的な感情をつゆとも見せずに

「ほらほら、遅れちゃうわよ。飛行機」

と私をせかしたのです。

抱擁する必要もない。
そんな二人でした。
お別れなんて来るわけがないのです。

でも、活きいきした咲子を見たのは、それが最後でした。

咲子が最初の異変を発してきたのはニューヨークについて10日後のことです。

「風邪だと思うけど、微熱が下がらないのよね〜。お医者様はちょっと貧血気味かなっていうんだけど。とりあえず様子見。心配いらないよ。啓ちゃん、ニューヨークはどうですか?ニューヨーカーになってますか?何となく似合わなそう。笑」

それから2日後、咲子はK大学附属病院に入院しました。
さすがに驚き、
「どうして入院したの?何の病気なの?どのくらい入院するの?」
しつこくメールしました。
でも返事は来ませんでした。

4日ほどして、咲子の母親から短いメールが届きました。

「咲子は急性骨髄性白血病です。
 でも治る可能性もあるのでそれほど危惧していません。
 啓史さんも、どうか心配なさらずにお仕事頑張ってください」

白血病。
血液の癌。

「大丈夫だよ、咲子」

成田で写した咲子の写真にむかってそうつぶやきました。
白血病になったって、早期に発見できれば治るんだ。
現に白血病を克服した人はたくさんいるじゃないか。

咲子だって同じさ。必ず治る。
私は咲子が白血病に打ち勝つことを信じて疑いませんでした。

久々に届いた咲子からのメール。
「白血病になっちゃった。ごめんね心配かけて。でもきっと治るよ。ちょっとしんどいけどね。大変だけどね・・・」
 
私にはわかるんです。
このメールを書いている咲子、きっと泣いているはずです。

「がんばれ。僕が付いてるから。いつも君のそばにいるから」


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夏休みに一時帰国が許され、真っ先にK大学附属病院に向かいました。
でも残念ながら咲子に逢うことはできませんでした。
咲子は抗がん剤治療のため、無菌室にいたのです。
面会が許されているのは家族だけ。しかも一日に30分程度に限られていました。病院側とさんざん交渉しましたが、かないませんでした。

病院の近所の喫茶店で母親とお茶を飲みました。

「抗がん剤の治療、まだ続いていたのですね」

と問いかけました。母親は疲れて見えましが、それをはねのけるように、白い歯を見せました。

「骨髄のドナー(提供者)がようやく見つかりそうなんです。これで一安心かなと思っています」
「骨髄移植に成功すれば治るそうですからね・・・咲子さん、様子はどうですか」
「頑張っています。歯を食いしばって」

「咲子頑張れ、もう少しだからね」
祈るような気持ちでニューヨークに戻りました。

それから2か月後、咲子の骨髄移植が成功し、一般病室に戻ったというメールを母親から受けました。体力も徐々に回復しているとのことです。私はほっと胸をなでおろしました。

「よく頑張ったな、咲子。おめでとう」
「ありがとう。なんだか、一気に元気になったような気がする」

無性に咲子に逢いたくなりました。しかし帰国は許可されませんでした。
父母でも亡くならない限り帰国は許可できないと現地のチーフから言われました。

「あと一か月で任務完了だから、フィアンセに会うのはそれからでいいだろう。今回のプロジェクトは今が一番の正念場なんだ。わかってほしい」
と言われました。

移植も成功し快復に向かっているのだからそれでもいいかと思いました。
一か月後、ゆっくり再会すればいい。

咲子からは毎日メールが届きました。
明るく楽しそうな文章が多かったです。

でも最後に届いたメールが、ひどく重く心に突き刺さりました。

「私が死ぬようなことがあったら、他に良い人見つけてね」

「何言ってんだ、咲子!君は治るんだよ!移植成功したんだろ?」

「日本に帰ったら結婚式の打ち合わせやらないとね。新郎の役目考えたか?」

「衣裳合わせが楽しみだな。咲子は顔が小さいからドレス似合うよ、きっと」

狂ったように何十通もメールを投げました。
でも、返事は来ませんでした。

ある日、母親から返事が来ました。
咲子が亡くなったと書いてありました。
骨髄が合わなかったのか再発し、病状が急速に悪化。
再び抗がん剤治療に入るも正常な状態にもどらず、3日前に死亡したと。

何が起きたのか理解できないまま8か月の任務を終え、帰国しました。
成田からすぐに咲子の自宅に行きました。

咲子が出てくると思いましたが、私を迎えたのは母親でした。
咲子はどこにもいませんでした。
和室の仏壇に、咲子の写真が飾ってありました。

母親は泣いていませんでした。家の中は、既にいつもの日常に戻っている感がありました。
ですからなおのこと、咲子が死んだことを受け止められません。
母親が静かに言いました。

「最期に言い残した咲子の言葉をお伝えします」

『啓ちゃん、今までありがとう。ずっと楽しかった』

「最期は、安らかでした」
母親の目が少し潤みました。
 
「咲子は死んでいない。死ぬわけがない」
「啓史さん・・・」
「そんなこと私が信じると思いますか、お母さん」

だって、私は何も見ていないんですよ!

抗がん剤治療で吐き気に苦しむ咲子を。
髪の毛が抜け落ちて行く咲子を。
無菌室に運ばれていく咲子を。
断末魔の中で息を引き取る咲子を。

私は何ひとつ見ていないんですよ!

握りこぶしで畳をたたきながら泣きました。
「アメリカなんか行かなきゃよかった!あんな会社入んなきゃよかった!」

あれからもう20年以上経ちますが、ずっと変わらぬ思いがあります。

咲子は死んでいません。
高校生の頃図書委員で知り合ってからずっと一緒だった咲子。
この20年ずっと一緒だったし、これからもずっと一緒なんです。

今でも心がつながってるんです。

咲子はきっと天国という国に移住したのでしょう。
私もいずれ天国に移住するでしょうから、二人の夢は
むこうの国でかなえることにします。

私ももう50歳ですが、天国に移住するまでは独身でいるつもりです。


結婚式.jpg


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アゲハ蝶と青空の絵本 [感動]

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「パパ・・・パパ!ちょうちょがいる」

バルコニーで遊んでいた五歳の娘が駈け込んできました。

居間のソファにいた私は、本を閉じました。

「どこにいるの」
「あっち」
「あっちってどこ?バルコニー?」
「いちばん上」

バルコニーに出て恐るおそる上を見ました。

いました。全長6センチほどのキアゲハ(アゲハ蝶の仲間)が止まっています。

「まいったな」

私は虫、とくに蝶や蛾が苦手なのです。
あのひらひら音もなく舞う姿が気持ち悪くて仕方ありません。
種類、大小かかわりなく嫌いです。

蝶はときどき思い出したように慌ただしく羽をはばたかせながら、天井のコンクリートを右往左往しています。

まいったな、と口にしたのにはもう一つ理由がありました。

その屋根は凹型になっていて、蝶にとってはまさに袋小路。
自力で抜け出すのは無理なのです。
蝶が自力でベランダから抜け出すには30センチほど下降して横に飛ぶしかないのですが、
蝶にそのような知恵があるとは思えません。

見ていると上に一直線、横に一直線しか飛べないようです。

「パパ・・ちょうちょ怖い」

娘も私に似たのでしょう。
蝶が嫌いなようです。

「なんでマンションのバルコニーの屋根なんかに入り込んだんだろうな」
ここは6階。
よくここまで飛んできたものだと思います。

腰に手をあてて天井を見ました。
娘と二人で過ごす退屈な土曜日、とんでもない珍客が舞い込んだのでした。

ところで私の妻は家計を支えるためにパートで働いています。
勤務日は月曜から金曜までの午前中、そして土曜日の午後です。
娘がまだ乳児だった頃からずっと続けています。
平日は託児所に預けますが、土曜日は私に任されました。

娘と二人きりの時間は気分転換にもなり、楽しみでした。
毎週いろんな遊びを考えて楽しいひと時を過ごしたものです。

でも幼稚園に入ると娘も自分の世界を作るようになり、私の遊びより、幼稚園で覚えた遊びの方が楽しいらしく、一人で時間を過ごすようになりました。
土曜日の午後、家の中には二つの空間ができていました。

そんなときに突然やってきた蝶。
二人はそれぞれの空間をぬけだしてバルコニーに集まったのでした。

「どうしよう」

妻が帰るのを待って判断を仰ぐか、などと情けないことを考えたりしました。でも妻が帰るのは19時です。夏とはいえバルコニーも暗くなり、手を打とうにも対処が難しくなるかもしれません。

「パパ、ちょうちょ怖い。ここじゃ遊べない」

娘は、蝶が屋根にいるせいで落ち着いて遊べないようです。

見るかぎりその蝶が降りてくることはなさそうです。
そもそも降りてこれるなら、自力で逃げられるのですから。

「ちょうちょは降りてこないから大丈夫だよ」
「ええ・・・?でもいやだもん」

わかります。
そこにいるだけで嫌なのです。

どうしようか。


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蝶の運命は三通り考えられます。

㈰自力で脱出する
㈪人間の介添えで脱出する
㈫その場所で一生を終える

蝶の特性から㈰は無理だろうと思えました。
㈫はあまりにかわいそうです。それにこの場合、蝶は命耐えるまでここに滞在することになります。バルコニーで遊ぶ娘も、洗濯ものを干す妻も嫌でしょう。

そうなると㈪しかないです。

暗くなる前に、私の力であの蝶をバルコニーから解放してやる必要があります。

ではどうやって介添えするか。

蝶に抵抗がない人であれば、椅子の上にのぼって蝶をつまみ、そのまま外に放すでしょう。
直接触りたくないのなら虫取り網を使うのもありです。

でも蝶など触りたくもないし、虫嫌いの家庭には虫取り網は存在しません。

考えた挙句、ステンレス製の物干しざおに蝶を止まらせて、そのままゆっくりとバルコニーの外に突きだして逃がす作戦です。

これなら人は蝶に触れる不快なく、蝶も人に捕まれる苦痛なく、平和的解決ができそうです。

さっそく物干しざおを伸ばし、蝶の横まで持って行きました。びっくりした蝶はぱたぱた飛びまわり、そのステンレス製の怪人から逃れようとします。

娘は部屋から顔だけ出してこっちを見ています。
心配そうな表情がいじらいしいです。

竿を動かすと蝶を刺激することがわかりました。
木の枝のようにじっと固定しておけば、蝶もその上で羽を休めることでしょう。
私は蝶の横で竿を固定しました。
やがて蝶は竿に止まり、羽をゆっくり開閉しました。

(今だ)

そっと竿を引き、バルコニーの外に移動させます。
でも外に出す瞬間、蝶が飛んだのです。そしてまた元の天井にひらひらと帰ったのでした。

「外に出たいんじゃないの?なんでそっちに行くんだよ」

「なんでそっちに行くんだよ」
 娘も私の言葉を真似ます。

何度か繰り返しましたが、結果は同じでした。
竿を移動するときに揺れるのがまずいようです。

(ゆっくりやればいいんだ。ゆっくり、優しく)

何度目のトライか忘れましたが、ようやく蝶が止まった竿を、可能な限りゆっくりと移動しました。蝶が空気の振動すら感じないくらいの超スローモーな移動です。

(あと少し。おとなしくしてろ。いい子だ)

ついに外に出ました。

蝶はまだ止まったままです。

「もう大丈夫だ。さあ、飛んで行け」

竿を少し前に押しました。

すると蝶が元気に飛び上がったのです。
ひらひらと不規則に飛び、青空を飛んだのです。

青空に黄色い羽。
それはとても美しく見えました。

ほっとしました。

「ちょうちょ、飛んで行っちゃったよ。羽がきれいだったね」
 と娘に話しかけました。
「うん。絵本みたいだったね」

マンネリ化していた娘とのひとときにおきたその出来事は、
とても楽しいものでした。

ひさびさに娘と二人で遊んだ気分になりました。

−絵本みたいだったね−

ふたりで協力して絵本を書いたような、充実した気分です。


アゲハ蝶.jpg


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枯葉になったバッタ [感動]

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僕は子供の頃いじめられていました。
中学校一年の頃です。

気が小さく、体も小さく、体力もなかったのでプロレスや柔道の技を試されたりしていました。

ふざけ半分の遊びですし、小学生に毛がはえた程度の力ですから、技は決まらず怪我をするような事故にはなりませんでしたが、心の傷は日々増えました。

学校のベランダから下に落とされそうになったこともあります。

「勇気と根性を身につける訓練」

という謳い文句のその遊びは、数人で僕を抱え上げ、手すりごしに落下寸前までおろすという殺人的なものでした。あの恐怖は体験した者でないとわからないと思います。

僕ももう少し強かったらいじめの対象にはならなかったかもしれません。痛い目にあうとすぐ泣きだしましたし、男子らしい抵抗もしなかったですから、いじめやすい人間だったのだと思います。

友達はいませんでした。
たぶん僕と親しくしたら、自分もいじめられると思ったのでしょうね。
本能的に僕の近くにいるのを避けたのだと思います。

もう限界だと思いました。

いじめの件はずっと親に黙っていましたが、ある日泣きながら母に告げました。

「その痣、やっぱりそうだったの」

母は担任の先生に相談しました。

いじめグループはすぐに特定され、学校側もいじめを認め、本人たちも「反省」しているとの連絡を受けましたが、僕にはすでに学校に行く気力がなくなっていました。

しばらく学校を休むことになりました。
一年生の秋だったと思います。

そんなある日、母にいわれて洗濯物を取り込もうとベランダに出たとき、一匹のバッタを見つけたのです。

昆虫には詳しくないので、何という名前のバッタなのかわかりませんが、長さ4センチほどの間抜けな顔をした緑色のバッタでした。
そっと近づきました。
飛ぶかと思いましたが、じっとしていました。

そっと右手を伸ばし、捕まえました。

指の腹に「生き物」を感じました。
細い足をしきりに回転させ、羽を開こうとします。
気味悪いし、そのままベランダの外にに解放することも考えましたが、奇妙な征服欲がわいてきて透明のビニール袋に放り込んだのです。

バッタは驚いたような目をして袋の壁面ではいつくばっていました。
身の危険を察したロッククライマーのように見えました。
じっと目を見ると、何かを訴えているようにも見えます。
口がかすかに動いています。

「なんでこんなことをするんだ」

といっているようでした。

「家宅侵入罪だよ」

自らベランダに進入してきたことは事実です。
逮捕されて当然でしょう。

小学生の頃使っていた虫かごを引っ張り出し、その中に「収監」しました。バッタは激しく跳ねましたが、すぐに静かになりました。

おとなしいバッタでした。
鳴きもせず、飛び回ることもしません。水滴のついた野菜をちぎってあげると、弱った老人が布団に入るような仕草で野菜の上に上り、端をかじりました。


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僕は昆虫に興味がありませんし、そのバッタにことさら関心をもった訳でもありませんので、なぜ飼っているのかうまく説明できませんでした。でも逃がそうという気持ちもありませんでした。そのバッタの存在が僕の何かを満たしていたのでしょう。

「ひとし、あの虫かご何よ!中にバッタがいるんだけど・・・」

ある午前中、母が走ってきました。
洗濯物を干していたときに見つけたようです。

「おとなしいバッタだよ」
「やだあ。外に逃がしてよ」
「観察中だからだめ」
 
不意に口にしたその言葉は、あながち嘘ではありませんでした。
あいつがこれからどうなっていくのか見届けたいという好奇心はありました。

いつまで元気でいるのだろう。
いつまで生きられるのだろう。
断末魔にはどんなことをするのだろう。
最後はどんな顔をして死ぬのだろう。

それを見届けたいと思ったのです。
だから「観察」なのです。

虫かごはベランダの奥の、日の当たらないサボテンの横に追いやられていました。母が買い物などで不在になると、日の当たる場所に持っていって日光浴をさせました。バッタは太陽に当たると、触覚をしきりに動かし、少し歩きました。でもあきらかに動きが弱っていました。

秋が深まり、寒い風がベランダを通り抜けました。
だんだんと僕もバッタのことが気にならなくなっていきました。
ごくたまに思いだすこともありましたが、大きめの野菜を入れているので食べ物には困らないはずだ、なんて勝手に納得して放置しました。

11月下旬になったある日、バッタを見にベランダに出ると、驚いたことに、体が茶色に変わっていました。それはまるで枯れ葉でした。

バッタは両足できちんと立っています。野菜とは別の方を向いていましたから、餌には興味がないようです。野菜は、鮮度を失うどころか萎れて腐敗していました。

ふたをあけてつついてみました。
反応はなく、カサカサした無機質な感触だけがありました。
倒すと、その姿勢のまま倒れました。

死んでいたのです。

まさかこんな風に死ぬとは思っていませんでした。
死期が近づいたら、苦しくてもっと暴れるだろうと思ったのです。
自分を守るために大声をあげるだろうと思ったのです。

でもバッタは何ひとつ文句をいわず、静かに枯れ葉になりました。

「なぜ大声をあげなかったの?」
「なぜ他の仲間の助けを呼ばなかったの?」

急にバッタが憎らしくなりました。
人間の勝手なしうちに抵抗することなく、その死を受け入れたバッタ。
直立不動のまま息絶えたバッタ。
バッタらしい死を望まなかったバッタ。
その物いわぬ従順さが憎たらしく思えました。

もっといじめてやればよかった。
もっとつらい目に遭わせてやればよかった。

涙が出ました。
悲しさや悔しさ、怒り、そして恐怖が一緒になって涙になりました。
でも泣き終わると、雲の隙間からさしてくる光のような、温かな気持ちが湧いてきました。

それからバッタを土に還しました。

「ごめんな。また生まれてこいよ。これは天国に持って行け」

腐った野菜も一緒に棄てました。
枯葉と区別のつかないその小さな亡骸は、冬の風に流されて茂みの中に消えました。

2年生になる直前、クラスのみんなから手紙が来ました。
みんな待ってるよ。またいっしょに勉強しよう。
そんな内容でした。

2学年から学校にもどった僕は、あのいじめグループとは別のクラスになりました。
彼らはもう僕に近づきませんでした。
僕のことなど忘れているのかもしれません。

僕も忘れようと思いました。
そして、彼らを許そうと思いました。


バッタ.jpeg


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タグ: 感動 バッタ
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妻のゴールデンウィーク [感動]

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妻が4月からパートで働きだした。
娘も私立高校に入学したことだし、家計の足しになればと考えたようだ。短大を卒業してしばらく信用金庫でOLをやっていたが、私と結婚してからは家庭に入った。働くのは17年ぶりである。

その妻が、例年になくゴールデンウィークがくるのを楽しみにしていた。
久々に仕事の現場に戻り、働くことの緊張と「休む」ことのありがたさを痛感しているようだ。大型連休を一日千秋の思いで待つ勤め人の気持ちを久々に思い出したか。

連休に入る2日前の夜、別室で仕事の調べ物をしていたら、妻が地図を持って入ってきた。表情が子供のように活きいきしている。

「前から行きたいところがあったんだけど」

 目の前で地図を広げた。

「秩父から山梨に抜けるトンネルがあるのよ。ここよ、ここ。6キロ以上もある長いトンネル。このトンネルを抜けるとすごくいい景色が広がってるんだって。そこに行ってみない?」
「トンネル通って景色見るだけなのか」
「道の駅もあるみたい」

 妻は景色を見るのが好きだ。道の駅で地元の新鮮な野菜に出会うのも好きだ。でもそれは妻の好みでしかない。私や娘のことは考えていない。

「水戸芸術館に行きたかったんだけどな」
「水戸お?・・・」
 少し怪訝な顔をする。
「そこで何やってるの」
「いろいろやってると思う。GWだから何かイベントがあるだろう」
「調べたの」
「いや」
「私はちゃんと調べたわよ。だから山梨行こう。今回は私が優先てことで」
 と私の肩をもむ妻。
「亜矢の希望もあると思うけど」
「亜矢はどうでもいいって・・・どこに行こうと、後部座席で宿題やるんですって」

ゴールデンウィークは秩父−山梨のトンネルに行くことに決定した。

5月3日は快晴で暑い一日になることが予想された。浦和から大宮経由で国道16号を川越方面にむかった。
川越まではスイスイのはずだったが、さすがはGW。車の流れがいまいち。ノロノロすることはないが、時速30キロ以上は出せない状態が続いた。今の段階でこれでは先が思いやられる。

だが妻はいたって上機嫌だった。
途中でパートの仕事の話になったが、グチの多い日頃の態度とは裏腹に、前向きな発言が目立った。

「何事も経験よ、経験」
「先週はそんなこといってなかったじゃないか」
「文句をいえばきりないもの。前向きにならないと働けないわよ」

川越に入ると少々ノロノロし、不意に止まることもあったが、何とか流れ、国道299号に入った。

日高市に入ると動かなくなった。
10メートルほど進んでは止まる。
完全に停止することもある。

「どうしたのかしら。事故かな」
「事故だろう。こんな中途半端な場所で渋滞なんてありえないよ」
「どこで事故なのかしら。いい迷惑ね」

時とともに渋滞ストレスがたまってくる。
快活に話していた妻も、だんだんと口数が少なくなり、ため息をつくようになった。

「もしかしてこの渋滞、秩父まで続いてるんじゃない」
 妻が腕を組んだ。

「ありえるな」

 羊山公園の芝桜がちょうど見頃だし、秩父には今の季節だからこそ楽しめるスポットがたくさんある。このGW、埼玉県民がこぞって秩父に出かけても不思議じゃない。「秩父渋滞」の可能性が濃厚になった。

あまりのノロノロ運転に亜矢も宿題を中断して身を乗り出して前を見た。
「まだ日高市だよね。まだ半分も来てないよ」

時計を見ると、家を出て2時間30分以上経過している。
いうまでもなく秩父は到達目標ではなく通過地点に過ぎない。
秩父から国道140号、つまり彩甲斐街道に入り、くねくねした道をつき進んで雁坂トンネル有料道路に入らねばならない。
単純計算であと2時間30分以上。

「なんでみんな秩父に行くのよ。いい加減にしてほしい」
 妻がふてくされた。


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ドライバーとして的確な判断をする時がせまっていた。
山道に入るとUターンが困難になる。
山梨行きを中止するのなら、そろそろ決断しなくてはならない。

亜矢がいった。
「行けばいいってもんじゃないよね。帰ってこなくちゃならない。普通に考えて、帰りも同じように渋滞するのは目に見えてるよね」
その女子高生は以外に冷静だった。

その意見に乗じて私がいった。
「戻ろう。行き先を変えよう」

予想通り妻は反発。

「やだあ・・・・戻るなんて」

顔がゆがんでいる。
この世の終わりのような顔。

「でもなあ・・・この状態で、本当に山梨まで行くのか?」
「なんかお腹すいた」
 と亜矢。
「僕も腹が減ったな」

「とりあえず何か食べる?」
 と投げやりな態度。

道をそれ、西武秩父線の正丸駅で車を停めた。
駅前に大きなトイレや食堂があった。
同じように渋滞で疲弊した人たちが一息いれていた。

その食堂で、冷やしそばを食べた。
食べているとき、ほとんど会話がなかった。
それから暑い車に戻ると、妻が降参した。

「狭山か、所沢に変更しようか・・・」
「どこ行くの」
「狭山といえばお茶の産地だね」
 亜矢がまた宿題を始めた。
「お茶の産地つってもな」
「いいや・・・とにかく狭山行ってみよう。なんかあるでしょう」
 妻が手鏡で口紅を直した。

そんなノープラン状態で方向転換しても失敗するのは目に見えていた。狭山に楽しそうなスポットが仮にあったとしても、この時期黒山の人だかりになっていることを計算にいれなければならない。狭山に行くのなら最初から狭山をターゲットにしなければならない。
計画的に進めなければ失敗する。
でもそのときは、他に選択の余地がなかった。
とにかく「狭山に行く」しかなかった。

車はスイスイ流れた。
私はあてもなく運転しているだけだった。
時計を見えると午後3時。
もう旅の失敗を宣言してもよさそうだ。

「だから水戸にすればよかったんだ」

そういってやろうと思い、赤信号で妻を見た。

妻は寝ていた。

顔をこちらに向け、口を少し開けてすやすや寝ていた。
その寝顔は決して安らかではなかった。
ぐったりした寝方だった。

赤信号の度に妻を見た。
見る度にかわいそうになった。

山梨の風景が見たかったんだろうな。
道の駅で新鮮な夏野菜を買いたかったんだろうな。
そのことを励みに時給850円の仕事がんばってきたんだろうな。
車の振動で、頭がリズミカルに揺れる。
その振動が心地よい刺激になっているのか、妻はなかなか起きなかった。せめてたっぷり寝かせてあげようと、スムーズな運転をこころがけた。

帰宅したのは午後5時頃だった。
結局狭山ではコンビニでアイスクリームを食べただけだった。
つまりその日は、長時間車に揺られ、冷やしそばとアイスクリームを食べて終わったのだ。

「ああ、疲れた。まいったわ、本当に」
 と妻がソファに横たわった。
「あなたも運転お疲れさま」

「でもさ」
 と亜矢。

「なにげに心地よい疲れになってない?。疲れ方だけは観光地帰りだよね」(笑)

亜矢が旅を締めた。

妻が少し間をあけてくすっと笑った。そして
「お風呂あがったら冷たいビールでも飲みましょうか」
とソファから立ち上がった。

意外に気持ちのいい顔をしていたので安心した。


家族.jpg


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駆け落ちを決意したお嬢様 [感動]

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「昨日のこと親に話してくれた?」

僕はテーブルにつくと真っ先にそう聞いた。
冴香はトレイからアイスカフェオレを移すと、その横にペーパーナプキンを丁寧に重ねた。
少し沈んだ顔をしているのが気になる。

昨晩、冴香にプロポーズした。

交際を始めて2年になり、結婚するのは時間の問題だろうなと思っていたから、プロポーズも緊張しなかった。冴香もOKしてくれた。

僕はすでに冴香のことを親に話していたし、結婚の約束をしたといったら喜んでくれた。
だから冴香の親のことが気になる。
喜んでくれただろうか。

「話したよ・・・ちゃんと。でもね」
「でも?」

飲み物に口をつけようとしない。
「でも?・・・どうした?」
ボサノバの曲が始まって彼女の声が聞き取れない。
「なに?もう一度」

「反対された」

冴香が涙ぐんだ。
ボサノバの軽快なメロディには似合わない顔をして泣いた。

古臭い理由だった。
彼女は大学院を卒業した大学講師。
僕は高卒の工員。

釣り合わないというのだ。

彼女の父は大学教授。
母親は百人以上の生徒をたばねる華道の師匠をしている。

僕の父ももと工員。母は主婦だ。
二人がいいといっても、家同士が釣り合わない。
それが理由。

「冴香もいずれその男のことが物足りなく日が来る。妻は最終的には、夫の社会的地位と収入に安堵するものだ。愛など恋など語ってのぼせていられるのは最初のうちだけ。結婚とはそういうものだ」

と父親が豪語したらしい。隣に座っていた母親も、基本的には同じ表情だった。

僕もとたんに飲み物に口を付ける気が失せた。
紙コップのふちを見つめながら、冴香の鼻水とボサノバの音を聞いていた。

無言の時間が流れた。

「でも、結婚は本人同士の意思でできるはず。僕たちが良かったらそれでいい」
沈黙を破ってそういった。
「そりゃそうだけど。そんなことできるのかしら」

昨日の幸せムードが一気に暗転した。
昨日、これから幸せに満ちた日々が始まるものと信じて疑わなかった。
双方の両親が納得したら、改めて婚約指輪を買おうと決めていた。
彼女のサイズが9号だということもチェック済みだった。

親の横やりなんてどうにでもなるだろう。
なんでそんなに悩む?
そんなに深刻なことなのか?
それとも冴香自身、本音では親と同じ意見なのか?

「君はどう思うの・・・お父さんの発言が正しいと思うの」

ぱっと僕を視た。
その目は僕の心の中をのぞいている。

「どうしてそんなこというの。そんなわけないじゃない」

少しほっとする。
でもこんなに暗い顔をした冴香を今まで見たことがない。
いつも明るくて前向きだったのに。
彼女にとって「親」の存在はとてつもなく大きいのかもしれなかった。

「お父さんに会ってみようかな」
 といってみた。

「会って、僕の思いをすべて打ち明ける。きっとわかってくれる」
 そういうと、冴香が少し笑った。
「ありがとう」
 やっとアイスカフェオレのふたをあけた。


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世田谷にあるしっかりした家だった。
客間に通され、父親を前に冴香と二人で並んでこしかけた。
母親は華道教室のパーティで不在とのことだった。
紅茶を用意したのは冴香だった。

「単刀直入に申します。冴香さんと結婚したく思います。お父さんにも認めていただきたく、ご挨拶にまいりました」

「お父さんですか。まあいいでしょう。では私も単刀直入に言わせてもらいます。娘と別れて頂けませんか。もう会わないでほしいのです」

ゴングが鳴ったと同時に強烈な右フックをくらったような衝撃だった。
いつ倒れるかわからなかった。
思いつく限りの言葉をかき集め、ぶつけた。

「冴香さんが好きです。死ぬほど好きです。絶対に後悔はさせません」
「そんな感情論だけで結婚生活を維持できると思うんですか?」

父親は冷静だった。
冷静にグサッと来ることを語った。
頭もよさそうだった。
僕がひとつ考えている間に十も二十も考える思考力の持ち主に思えた。
次々と的確なジャブを打ってきた。

「古いかもしれませんがね、娘には完璧な幸せを与えてあげたいのでね。新井くん、でしたか?君は本気でうちの冴香を幸せにできると思いますか?精神的、かつ経済的に」

僕はリングに沈んだ。

二人で国道466号線を瀬田にむかって歩いた。
二子玉川駅方向ではないが気にならなかった。

僕は男としても社会人としても自信を無くし、疲労困憊していた。
結婚なんてもうどうでもいいと思えてくる。
結婚せずに、このまま友達のような関係でもいいかななんて考えている。
「だめかもしれないね」

と口にし、顔を上げてまっすぐ前を向いた。
多摩美大の学生がカンバスを抱えて校舎から出て来るのが見えた。

「どうして・・・どうして」
 冴香が立ち止まる。
「もう戦ってくれないの?」
 僕は止まらなかった。どんどん歩いた。
 
冴香の父親の言葉を思いだした。

−妻は最終的には、夫の社会的地位と収入に安堵するものだ−

戦えない男に妻を持つ資格はないのだろうか。

今になって考えると、冴香は親の権威や実力によってここまで安寧に生きてきたお嬢様なのだ。つまるところ彼女のバックボーンは親であり、親なくして彼女の過去も未来もないのかもしれない。

結婚を反対され涙するが、どこか親の箴言に従順になろうとする雰囲気もある。父親と対峙したときにも感じたが、冴香は意外に落ちついていた。実の父の前で、もっと取り乱してほしかった。

一晩考えた。
もうこの方法しかないと思った。

これを冴香に提案し、もし同意してくれなかったら別れようと思った。
僕のことを本当に愛し、信じてくれているのなら同意するはずだ。

「一日も早く家を出て、どこかで二人で暮らそう。さっさと結婚しよう。そして入籍しよう。既成事実を作ってしまおう。僕の親を含めて親を無視しよう。そのうちきっとわかってくれる。幸せになれば認めてくれる」

冴香は予想した通り即答はしなかった。
考えたいといった。
1日、2日、3日と過ぎていった。
あれから音信不通だった。

もう返事はないだろう。返事が来ても前向きな内容じゃないだろう。
僕は別れの言葉を考えていた。

そんな矢先、メールが来た。

「大学は辞めたくない。だから家借りるなら都内がいい。私も居場所は親に告げないから、あなたも同じ条件にして。あなたの親御さんも駆け落ちには反対のはずだから、居場所を伝えたら必ずものとの場所に引き戻される」

涙が零れ落ちた。
冴香もなかなかやるなあ、と思った。

それから江戸川区の築10年の賃貸マンションを借りた。
居場所は教えないが、ちゃんと暮らしていることを各々の親には電話で伝えた。僕の父親は「しっかりやるんだぞ」といってくれた。
入籍も済ませ、正式に夫婦となった。
好きな人と一緒に暮らせる幸福。
いろいろ壁もあったが、僕たちはちゃんと乗り越えた。
ある種の夫婦のほこりみたいなものを感じていた。

やがて長男が生まれた。

冴香の母親から
「孫の顔を見せに遊びに来なさい。お父さんも、もう怒ってないわよ」
というメールが来たのは、駆け落ちから1年半後のことだった。


駆け落ち.jpg


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ミカリンが母になった日 [感動]

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「最近ムカムカするんだけど」

とお腹をさすりながら寝室に入ってくるミカリン。

胃の具合が悪いなんて結婚してから一度もなったし、結婚前もなかった。
「だいじょうぶ?」

ベッドの中から声をかける。

「と思うけど」

本当に胃が悪かったらそんな平然とした表情していないし、手のひらに就寝前のクリームを塗るしぐさもいつもと変わらないので、僕も布団の中に深々ともぐりこんだ。

「電気消す?」
「うん。もう寝る。明日早いから」

僕の妻、美香の愛称はミカリンだ。
出会ったとき、彼女の一歳下の妹が「ミカリン」と呼んでいたので僕もまねするようになった。
美大を出てイラストの仕事をしているせいか感性豊かで雰囲気も個性的なので「ミカリン」という呼び方が妙にフィットする。
本当にミカリンという名前なのではないかと思うこともある。

結婚して4年目を迎えた。
僕は35歳。ミカリンは31歳になっていた。

子どもはいない。

結婚後4年もたてば子供がいてもおかしくない。
でも、そのことで焦ったことは一度もなかった。
というか、子どもがほしいと思ったことがないのだった。
計画的に子作りをする意思もなく、自分たちのことだけを考えて暮らしてきた気がする。

「私、子どもいらないから」
 とミカリンは平然といい放つ。

女性は子どもを欲しがるものだと漠然と考えていたけど、そういう生き方もあるんだなと思い、4年間ミカリンに合わせてきた。
別に不満はなかった。
子どものいない生活は気楽で楽しかった。

「子ども作るんなら早いほうがいいわよ」
とミカリンの母からいわれたことがある。
彼女の他の親戚も勝手なことをいった。

「美香は変わってるからな。小さい頃からそうだったけど」
「絵の才能があっても、ママになる才能はないってわけね」

僕の父母にいたっては、結婚して子どもを作らない人間は犯罪者のようないいかたをする。

だけど二人に危機感はなかった。
僕はミカリンの生き方を支持した。

ところが神様はよく考えているものだ。
下界にいる人間に平等の愛を与えるが、試練も平等に与える。
神様はお気楽に生きようとする人間に待ったをかけるようだ。

ミカリンのムカムカの原因は、妊娠だった。

もしやと思って妊娠検査薬を試してみたところ、陽性反応のハートマークが出たらしい。

「本当なの?」

僕は正直嬉しかった。父親としての正直な気持ちだった。

「ああ、本当に妊娠してたらどうしよう・・・」
 少し顔をゆがめるミカリン。
「ミカリンは嬉しくないの?」
「ママになるのが嫌」
「そんなこと、子どもに失礼だよ」
 しっかりしろといいたくて、両肩を強くつかんだ。

神様はミカリンのわがままを許さなかったのだ。

陽性反応が出た週末、産婦人科に検査に行った。
妊娠3か月に入ったところだといわれた。

ミカリンに赤ちゃんができたことはたちまち親戚縁者に広まった。

「よかったねえ。4年もあきらめずによく頑張ったねえ」
「美香ちゃんてどんなママになるだろうね。想像できない」

みんな、自分の思惑で好き勝手なことをいった。

ミカリンはつわりと戦いながら

「なんでこんな思いをしなきゃならないの」

とブルーになっていたが、少しずつ大きくなっていくお腹を見るうちに
覚悟が決まったのか、自分の妊娠を自覚し、前向きになっていった。

もともと細身の体なので、丸く突き出たお腹が重そうだった。
よくそんな状態で生活できるものだと思う。

「こんなにパンと膨らんで、どんな感覚なの?」



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「どんな感覚って・・・中に赤ちゃんがいる感覚。ときどきね、チチチッって音たてるのよ」
 ミカリンの話では、お腹の奥の方からときどきチチチッと音がするらしい。
「何の音だろう」
 そっとお腹の表面をさすってみる。
「嬉しくて笑ってるんだと思う」(笑)
「まさか。胎児が笑うかよ」
「笑ってるの。私はそう信じてる」
「ミカリンらしい発想だけど」

ミカリンの骨盤が狭く、赤ちゃんが産道を通れない可能性があることがわかったのは臨月に近づいてからだった。

「帝王切開が安全です」
「帝王切開って・・・お腹切るの?やだああ・・お腹切るなんて」
 顔面を蒼白にして泣きじゃくったが、そのほうがはるかに安全と説明され同意書にサインした。

手術の予定日は11月20日だったが、ミカリンの調子がよくないため、3日早めて11月17日に実施することになった。
臨月に入ってから、ミカリンはきついといって横になることが多かった。

「13時が手術なの・・・あと1時間かな」

病院の静かな個室でミカリンと会話。
優しいバロック風のBGMが流れている。

「頑張ってね、ミカリン」
「もうちょっとで、楽になれるから」
少しむくんだ顔が静かに笑った。

12時30分すぎると、看護師が来て麻酔室に連れて行った。 
誰もいない病室で一人待っていた。

正直、赤ちゃんのことよりもミカリンのほうが心配だ。
赤ちゃんは取り上げるだけだし、産道を通る負担もないからきわめて安全だろう。
しかし母体は腹を切るのだ。

13時になったが、しんとした病室で何が始まるでもなかった。
時計の針が13時になったというだけのことだった。

13時11分だった。
部屋の電話が鳴った。

出ると手術室からだった。
血が引いた。

直感的にミカリンに何かがあったと思った。
それとも子どもに異常があったのか?
何のトラブルだろう。

「もしもし。ご主人さまですか?お嬢様が誕生されましたよ!おめでとうございます」

電話のむこうから空気を切り裂くような産声が聞こえた。
目を閉じて息を吐いた。

「ミ、ミカリ・・いや、その、何だっけ。妻は大丈夫ですか?」
「問題ございません!」

電話を切ると、うるっと涙がこぼれた。
ミカリン、よくやった。
よくここまで頑張った。

それから1時間ほどして、手術台に乗ったミカリンが出てきた。
看護師さんが娘を抱いていた。

娘は2,638グラムで小柄だった。
体全体が真っ赤で、狂ったように泣き叫んでいた。

ミカリンも泣いていた。
かつてこれほどの涙を流したミカリンを見たことはない。

「ごくろうさん・・・痛かった?」
涙は腹を切った痛みからくるものだと早計していたが、そうではなかった。
「痛くない」
「じゃあなんで泣いてるの?」
「安心したから・・・ちゃんと赤ちゃん産めたから」

母の責務を果たした女の涙だった。
ずっと不安だったのだろう。

親戚の声を思いだした。
「美香ちゃんてどんなママになるだろうね。想像できない」

どんなママって、こんなママだ。

立派なママだ!


母子.jpg


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タグ:出産 感動
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忘れられない祖父の思い出 [感動]

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私はいわゆる「おじいちゃん、おばあちゃん子」で、小さい頃は忙しい両親に代わって祖父母が私の面倒をよくみてくれていました。
特に祖父はとにかく優しくて、叱られた記憶はほとんどありません。
働き者の祖父は、私が登校する時間から帰宅する時間まで外で畑仕事をしたり庭を造ったり、木を切ったりしていました。
私が学校から帰ると、決まって玄関先に腰を下ろしてタバコとコーヒーで休憩していました。

夏の暑い日の夕暮れに、祖父と一緒にホースから水を巻くのが日課になっていて、それがなんだかとても楽しかったことを今でも覚えています。

優しくて暖かい祖父は、ちょっと天然キャラな部分があり、遊びにきた友人たちの人気者になっていました。
そんな風に誰からも愛されるような祖父はいつも私の自慢であり、心から尊敬出来る人でもあったのです。

そんな祖父の小さな変化に気付き始めたのは、私が社会人になってしばらく経った頃でした。祖母と一緒にお墓の草むしりに出かけた祖父。
二人でお墓周りの草を片付け、一足先に祖父が車に戻って祖母を待っていたのだそうですが、祖母が遅れて車に戻ると、運転手であるはずの祖父が助手席に座ってボーっとしているのです。
祖母は車を運転することが出来ませんので、祖父のいたずらだと思ったそうです。

「じいさん、私運転できないよ、どうしたの?」と声をかけると、助手席に座っているつもりがないような口ぶりの祖父。
なんだか変だな、と、祖母は思ったそうです。

それから、なんだか変だな、と思える行動が少しずつ増えていった祖父。
真夏の暑い日に真冬の格好で起きてきたり、友人との約束をまるで無かったことのようにすっかり忘れてしまっていたり、あんなに温和な祖父が急に怒鳴りだすようになったり…。

普段忙しくて家にあまり居ることのない私の父でさえ、祖父の変化に気が付き、ある日病院へ連れて行きました。

診断結果は「アルツハイマー型認知症」とのことでした。



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年齢的にも予想していたことではありますが、実際に自分の祖父が認知症だと専門家の口から聞いてしまうと、さすがに家族のショックは大きかったように思います。
責任感が強く、老人クラブの会長を務めるような祖父だったのに、大事な約束を嘘のように忘れて相手を罵る様になってしまったり、あんなに大好きで一番風呂に入るのを楽しみにしていたのに、お風呂に何ヶ月も入らないようになってしまいました。

何より私が一番ショックだったのは、当時介護の仕事をしていた私が、自分の祖父の面倒をどう見ていいのか分からなくなってしまったことです。
他人の介護なら何の疑問も抱かず出来たのに、いざ相手が祖父となると、手が前に出ないのです。
「元気な祖父」のイメージが自分の中にはあるので、心のどこかでボケてしまった祖父を受け入れたくなかったのでしょう。

日に日に症状が悪化していく祖父。
何も出来ない私。

主な介護者は、同じく年老いた祖母でした。
何かしなければならない、私がやらなければならない。
そう思えば思うほど構えてしまい、うまく体が動かないのです。
そんな自分がとても嫌でしたし、誰よりも祖父に対して申し訳なく思いました。

そんなある日、今でも忘れられない出来事が起こりました。
祖父が私に向かってこう言ったのです。

「お嬢さんはどこの娘さん?早く帰らないと叱られるよ」。

とうとう、祖父は私のことも分からなくなってしまいました。
「孫」の存在は認識しています。
ですが、それが「目の前にいる私」だという認識はもう出来なくなってしまったようです。

あんなにかわいがってくれた祖父が、私の顔も分からなくなってしまった。
その時の衝撃はどれほど大きかったことでしょう。
ついにここまできてしまったのか。
その思いが、私の中の何かを変えました。
祖父に残された時間はどれくらいだか分からないけれど、でも確実に今よりどんどん祖父は遠い人になっていくだろう。
このままでは絶対に後悔する。
その想いが、動かなかった私の体を動かしたのです。

まずは食事の手伝いから始めました。
なんとか自力で食事が摂れる状態ではありましたが、食べこぼしが多くすぐに手が止まってしまう祖父にその都度声をかけ、その手に茶碗を持たせました。

失禁が多くなり、そのことに気が付かない祖父の紙パンツの交換。寝る前の着替えの手伝い。
一度やり始めたら、なぜ今まで戸惑っていたのだろうと不思議に思うほど、私は祖父のお手伝いをすすんですることが出来るようになりました。
私が介護の仕事を目指したのは、この日のためだったのかもしれないとさえ思いました。

祖父はそれから二年後、病に倒れ、病院のベッドの上で生涯を閉じました。
入院して間もない頃、私のことをもう完全に他人として認識してしまっていた祖父でしたが、病室の窓から見える山を見て、「ほら綺麗な山だよ、あなたに見せたいと思っていたよ。」と笑ってくれました。
そのことが今でも忘れられません。

元気だった頃も認知症を発症してしまってからも、私は一度として祖父を嫌だと思ったことはありません。

どんな祖父も私の大好きなおじいちゃんで、今は写真になってしまったけれど、朗らかな笑顔で私を見てくれています。


祖父.jpg


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