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私、お父さんの娘だから [感動]

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朝の洗面所は気を遣う。

「ちょっとごめん」

と言って歯ブラシに歯磨き粉を付ける。
しかもなるべく素早く終える。

いったん居間に戻り、歯を磨く。
今朝は時間がかかっているな、と考えながら。

そしてまた洗面所に戻る。

「ちょっとごめん」

口をすすいでペッと吐く。
こちらはなかなかスピーディにはできない。口の中にたまったものを吐きだすには絶対的な時間が必要だ。娘の刺すような視線を背後に感じながら、着実に口をすすぐ。

「ごめん」

無言の娘を尻目に、洗面所を出る。

15歳になって、娘の髪の手入れ時間が長くなった気がする。
朝夕20分くらいずつかけている。
中高一貫の私立女子高に進学したせいで高校受験がなく、
気分的にも余裕があるのかもしれない。

髪が気になる理由はよくわからない。

共学の学校であれば理解できる。
異性の視線を意識することもあるだろう。
しかし女ばかりの世界でなぜ髪にこだわる必要があるのか。

妻の話では、お互い切磋琢磨して綺麗になる努力をしているのらしい。
競い合い、刺激し合って自分に最適な髪を作るのだとか。

娘は髪に気を遣い、私は娘に気を遣う。
そんな朝の慌ただしひとときが最近ずっと続いている。

ところで娘は自分の髪に大きな不満があるようだ。

くせ毛なのだ。
天然パーマとも言う。

私もくせ毛なので理解できるが、くせ毛は自分の思い通りにならないという欠点がある。
まっすぐに流れてほしいのだが、微妙に曲がる。
右にウエーブしてほしいのだが左に曲がる。
毛先が曲がっているから、伸びてもいないのにボリュームのある髪に見える。
伸びてくると膨らむ。
湿気が多い日は縮れ加減が顕著になる。

娘は私の毛質に似たのだろう。

私は45歳を過ぎたころ、いい加減髪の手入れが面倒になって丸刈りにしたが、
娘はそうはいかず、日々ドライヤーを手に格闘している。

「ああ、ストレートの子がうらやましい」

とときどきため息を漏らす。

私立学校なので校則が厳しく、パーマの類は一切禁止だ。
パーマとは、プロの手で髪の毛に人工的な手をくわえること全般をさす。
直毛を縮毛に変える一般的なパーマだけでなく、縮毛を直毛にする縮毛矯正も含まれる。要するに自然毛を加工してはいけないのだ。

みかねた母親がヘアアイロンを買い与えた。
それで多少はまっすぐになるが、完全ではないし、髪を洗えば元にもどる。
朝夕の手入れ時間が長いのは多分アイロンを買って以来だ。

「なんでそんなに髪にこだわるんだ」
そう妻に言ったら、
「あなたも女の子に生まれ変わったらわかりますよ」
と言われた。


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女性の髪の毛への執念には凄まじいものがある。
そのことを如実に示す出来事があった。

ある日曜日のことだ。

美容室から戻った娘が居間のほうにまっすぐ歩いていった。
私は寝室で寝転がって本を読んでいたが、足音で不機嫌なのがわかった。
どうやら泣いているようだ。
気になって居間に行くと、妻が娘の横で話し相手になっている。
女同士にしかわからないようなことを小声で言い合っている。

中に入り込んでも何の手助けにもならないとは思ったが、

「どうした?梓」

と聞いた。

「もうそんな美容室行かなくていいからね」
と妻が娘に強く言った。
「なんて言われたんだ」

「くせ毛は思い通りにならないから、そのスタイルにはできないって言われたんですって」

そんなことか。
美容師の言う通りじゃないか。
何を泣く必要があるか。

「くせ毛を逆利用して、その人に合ったヘアスタイルと提案する方法だってあるのよ。
それが美容師の仕事だと思うんだけど」
 と妻が娘の髪を撫でた。

「でも梓はストレートのロングがいいと言ったんだろ?美容師はそれはできないと言った。それだけの話だろ」

すると娘が顔を上げ、私をにらみつけてヒステリックにこう言った。

「お父さんがくせ毛だから私もくせ毛になっちゃったのよ。お父さんの娘だからこんな目に遭うのよ。どうしてくれんの?」

「梓、何てこと言うの」
 と妻。
娘は興奮しながらも失言と思ったのか、一瞬悲しそうな目で私の反応を待ったが、私が何も言わなかったので、自室に向かって早足で歩いて行った。

「年ごろなのよ。難しい時期ね」

父親のせいで自分がくせ毛。
どうしてくれるんだ。

そんな風に言われたのは初めてだった。

娘の部屋の前でこう言った。

「梓、さっきはごめん。お父さんな、髪の毛については何もしてあげられない。
それは生まれつきのものだから仕方ない」

娘は何も返さなかった。


その娘が髪をバッサリ切ったのは高校生になってからだった。
悪戦苦闘したセミロングは面影もなく、さっぱりしたショートのボブスタイルになっていた。

「その髪型、なかなかいいじゃない。梓にピッタリだわ」
本当かどうかわからないが、妻がそう言った。

娘は髪だけでなく、顔もさっぱりしていた。

「私ね、がむしゃらに勉強することにした」

「髪は限界があるからもういい。でも勉強には限界がないわ。頑張れば頑張っただけ成果も出てくるし。それに私、努力するの嫌いじゃないから」
「そうなの。梓すごいわね」

悩んだ挙げ句の決意なんだろうと思った。
ぎりぎりまで理想の髪を追いかけた者にしかできない方針転換だと思った。
私が丸刈りにしたのとはレベルが違うような気がした。

そのあと娘が私を見上げた。

「お父さんも努力家だから私も努力家になれると思う。・・・私、お父さんの娘だからね」

一歩成長したな、と私は思った。


ヘアアイロン.jpg


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タグ:くせ毛 家族

石油ファンヒーターを買った日 [感動]

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父が早期退職制度を活用して会社をやめ、生まれ故郷に帰ると言いだした。

平成2年。
僕が大学を卒業してすぐのことだった。
実家近所に家を建て、再就職先も決めた。

「だからおまえも一人で暮らすことになる」
と父が言った。

一人で暮らすということがどういうことなのか今一つわからなかったが、
とにかく親元から離れなければならないことは間違いなさそうだった。
就職して慣れない社会人生活を始めた矢先、今度は一人暮らしである。
親に甘えきった生活は完全に絶たれることになる。
でも、なぜか危機感がなかった。

親が出した新生活の指針は次のようなものだった。

・アパートは希望の地域で探してやる。敷金も礼金も出してやる。
・洗濯機、冷蔵庫、テレビ、クローゼット、食卓は新品を買ってやる。
・布団と勉強机、本棚は今使っているものをそのまま運ぶ。
・引越し費用も出してやる。

ただし親が支援するのはここまで。
月々の家賃は自分で払うこと。
その他必要なものがあれば、懐具合を見ながら計画的に買うこと。

この条件でスタートして本当に大丈夫か?
僕にはその疑問すらわかなかった。
「この条件で一人で暮らすことになるらしい」
という他人事のような思いでいた。

転居先は江戸川区平井だった。
すぐそばに荒川の河川敷がある、築3年の木造モルタルアパートの2階だった。
間取りは6畳の1DK。階段が狭く急だった。

家賃は7万。

ぼんやりと計算した。
僕の給料は手取り13万。
家賃を引くと生活費として6万しか残らない。
食費を日に2,000円と見積もると、食費だけで消えてしまう。

これでやっていけるのか。
少しずつだが、不安が来た。

だがその不安を後目に、父母が九州に引っ越した。

22年間、親の庇護のもとに生きてきた。
衣食住で悩んだことは一度もない。
生きるために必要なものは常に親から提供されていた。しかも願い出て得られるのでなく、当たり前のように用意されていた。僕は基本、何もせずに生きていられた。

そんなこんなで一人暮らしを始め、何ヶ月かたった。

11月の下旬だったと思う。
土曜日の朝布団から出て顔を洗った。

凍てつくような寒さだった。

その日は北から寒波が押し寄せ、日本列島が冷気に包まれた。
北の日本海側を中心に雪が降った。

また布団にもぐりこむ。

考えてみたら暖房設備がない。
もともと暑さに強い体質なので夏は扇風機で乗り切ったが、逆に寒いのが苦手で、
ちょっと気温が下がっただけで体が縮む。

布団の中は温かいが、病人じゃあるまいし一日中そこにいるわけにはいかない。
何枚も重ね着して、靴下も2枚はいた。
しかしあまり効果はなかった。部屋の中は冷たく、きんとしていた。

−暖房をなんとかしないとやばい−

暖房器具にはどんなものがあるのだろう。
駅前の電気屋を見て回った。

エアコン、電気ストーブ、こたつ、石油ファンヒーター。

電気製品など生まれて一度も買ったことがない。
どんな製品があるのかなど考えたこともない。

が、今回ばかりは自分で何とかする必要があった。
父親が立てた指針にもあった通り、
「その他必要なものがあれば、懐具合を見ながら計画的に買う」のだ。


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エアコンは高すぎる。
電気ストーブは部屋全体が温まりにくい。
こたつは場所を取る。
そうなると石油ファンヒーターか。

当時はクレジットカードを持っていなかったので、すべて現金決済になる。
今これを買うと、当面ものが食べられなくなる。
ボーナスが出る12月7日まで耐えしのぐしかなかった。

そしてボーナスをもらった週の休日、駅前の電気屋で石油ファンヒーターを買った。
「車で配送する場合夕方になっちゃいますし、料金もかかりますがどうします?」
と若い店員が言った。
「すぐそこなので持って帰ります」
 とにかく一刻も早く手に入れたい。
「重いですけど」
「大丈夫です」

大丈夫ではなかった。

当時の石油ファンヒーターはかなり重量感があった。男の僕でも、20メートルほど歩いていったん下ろさないと腕がちぎれそうになる。しかも疲労が蓄積していき、休憩する間隔がどんどん短くなった。

−あと少しだ。頑張れ−

最後は引きずるように運び、何とか部屋に持ち込んだ。

でもこれで終りではなかった。
灯油がなければどうしようもないのだ。

歩いて7分ほどの場所にガソリンスタンドがあり、灯油も販売している。途中で灯油のポリタンクを買い、ガソリンスタンドで灯油を満タンに入れると、また引きずるようにして持って帰った。石油ファンヒーターより重かった。
持ち上げて10歩ほど歩く作業を繰り返した。

通行人が不思議な目で僕を見る。

「灯油をそんな風に運ぶのは禁止されているんだぞ」

そんな目で見ていた。

灯油を部屋に運び入れたら、その場に倒れてしばらく動けなかった。
披露困憊し、身体は冷え切っていた。

−よし、運転だ−

灯油をポンプでファンヒーターの灯油缶に流し入れ、本体にセットしてスイッチを入れた。しばらくブーンと低い音が鳴り、パチパチパチと火花がはじけるような音の後、

ボオッ!

と頼もしい音がして、初夏の風のような温かい空気が出てきた。

「おおお・・・温かい!」

これで救われたと僕は思った。
暖房のありがたさを知った。
電気製品の偉大さを知った。

部屋はたちまち温まった。
一人で暮らすようになって、自力でつかんだ初めての幸福だった。

灯油は二週間に一度くらいのペースで買った。
相変わらず同じガソリンスタンドで購入し、手で持って帰った。
灯油販売車が来ないこともないが、平日の昼間に来ているようで、
休日に見かけたことはない。

雨の日など、傘をさして灯油を運んだこともある。
時間もかかったし、指の感覚がなくなりちぎれそうになった。

そんなある日のことだった。
買い物から帰ったとき、真向いの奥さんから声をかけられた。
小さな子どもが二人いる主婦だった。
たまに顔を合わせることもあるが、軽く目礼する程度だった。
態度は冷ややかで、僕を不審に思っているふしがあった。

「あのう、火曜日に灯油販売が来ますので、一緒に買っておきましょうか?」

僕の人海戦術による灯油運搬を見かねたのだろうか。
人は、人を見ていないようで見ているものだと知った。
でも僕のことを不審人物と思っていたのではないのか?

灯油を手で運ぶ人間に悪人はいないと思ったか。

せっかく声をかけてもらったし、断る理由もないのでお願いすることにした。

「一階に置いときますから、会社の帰りにでも持って上がってください。
お金は後で結構です。それから、灯油のタンクに名前を書いておいてください」
 事務的な言い方だが、学校の教師のような信頼感があった。

「ありがとうございます。・・・お金は今払います。来週の分」

生まれて初めて電気製品と灯油を自分で買った。
そのことがきっかけでご近所とのコミュニケーションが生まれた。

一人で生きるのは辛いが、思いのほか心休まる部分もあると知った。

灯油のポリタンクにマジックで「倉田章一」と書いた。
今度社員旅行があるから、奥さんにお土産でも買って帰ろうと思った。
そのくらいのことはするべきだと思った。

これらは父親の一人暮らしの指針にはない手続きだった。

小さなことだが、ちょっとだけ自分が大きくなった気がした。


灯油.jpg


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タグ:灯油 隣人 感動

大根おろしかけごはん [感動]

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バラバラ!と窓が音を立てた。
猛烈な吹雪だ。

天気予報でも新潟県全域は暴風雪という予報だった。
窓は二重になっていて外の様子はうかがいしれないが、断続的に窓に衝突してくる雪の音から想像するに、外は相当吹雪いていると思われる。

今日が土曜日でよかった。
この吹雪の中、30分も歩いて職場に行けるものか。

東京から新潟県の柏崎市に赴任してきて2ヶ月になる。
日本海側の冬のすごさを知ったのはそれが初めてではないが、ここまでひどいのは初めてだろう。アパート全体が揺れているようにも感じられる。

私がつとめる会社は情報サービスを営むIT企業だ。
柏崎市の某金属メーカーの生産管理システムを構築し、稼働後は保守と運用を請け負い、SEを一名常駐させていた。2ヶ月前、その社員が体調不良を理由に退職した。

もうじき契約も切れることであるし、交替要員は不要、今後は自分たちでシステムを回すと顧客は言ったが、我が社は契約継続を強く提案した。おりしもバブルが崩壊した危機的な時期だった。しがないIT企業としては少しでも売り上げがほしい。

交替要員として白羽の矢が当たったのは私だった。
部長は私を会議室に呼びつけると
「牛尾、悪いが明日から柏崎に行ってくれ」
と命令した。
「何日間でしょう」
「一年だ」

現地のSE退職の話と要員再投入の話を簡単に聞いた。

「私にはあの会社のシステムの知識がありません」
「現地で学べ」
「急に言われても困ります。東京のアパートはどうなるんですか」
「とりあえず行け。引っ越しはあとからゆっくりやればいいだろう」

独り身とはいえ慣れ親しんだ東京を離れるのは覚悟がいる。
「本当に一年間ですか」
「間違いない。客もそのくらいしか継続する気がないらしい」

ひどい人事だと思った。
こんなその場しのぎの人事が許されるのか。
当事者が退職を申し出た時点で対策を打つべきではなかったのか。
人を入れるなら入れるで、もっと戦略的に準備すべきだったのだ。

前任者が住んでいた会社の借り上げアパートには、とても引っ越してくる気にはなれなかった。6畳一間の1K。東京のアパートは1DK。荷物をすべて運び込むことはできない。
それに一年程度の滞在。
私は長期出張と考えて、二重生活を決意した。
東京には月に二度ほど帰った。

客は冷たかった。
特別な付加価値や過剰な即戦力を私に要求した。
いらないというのに入ってきたのであるから、それなりの仕事をしてもらうという論理だったが、それはほとんどいじめに近いものがあった。

「このくらいのデータ移行作業はせいぜい半日で終わらないとまずいよね。前任者は一日もかかってた」
「この製造指示エラーのアラートを出すタイミングが変だ。早急に見直して新しい仕様を提案してくれ」

着任してすぐ、そう指示された。

無理だ。

中身を何も知らないのにそんなことができるか。

それでも休日返上でがむしゃらに働いた。
自分だけが頼りだった。

あれから2ヶ月。
仕事はなんとかこなしているが、人への不信感が日々募った。人を道具としか見ていないうちの会社。無理だとわかっているのにあえて難題をふっかける客。

必要以外客と会話しなかったし、本社への報告もいっさいしなかった。
この仕事で失敗して解雇されてもかまわない。
むしろ解雇されたい。
そう思っていた。


時計を見ると16時だった。
外は吹雪だが、そろそろ夕食の弁当を買いに行かなくてはならない。

車を持っていないので、徒歩でスーパーまで行く。
スーパーまでは片道20分もある。
この冬の嵐の中、往復40分の徒歩が果たして可能だろうか。
しかも帰りは弁当持参ときている。

厚着して帽子をかぶり、傘を持って外に出てみた。
いきなり顔面に風と雪が来た。

世の中に横に降る雪があることを初めて知った。
日本海側から吹き付ける強風に乗って、雪が地面に平行に飛んでいく。
世界は銀色で、何もかもが雪の中にあった。
電線がゆれ、不気味な音を立てる。

−この中を歩くのか−


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傘をさし、前屈みの姿勢でもたもた進んだ。
風はいろんな角度から自在に襲ってきた。
そのつど傘の向きを変え、傘の骨を守る。

珍奇な通行人を弄ぶように。四方八方から風と雪が襲いかかる。
前が見えない。
どこが歩道なのかもわからない。

道路中央に一定間隔で消雪パイプがはめ込まれてあり、そこから雪を溶かすための水が放出されているが、その位置から相対的に歩道を探すしかなかった。
足下を誤ると溝に落ちるので慎重に歩く。

ビューーーーッ!!

思いがけない方向からとんでもない風雪が来た。
ついに傘が反対にめくれあがり、もとに戻そうとするがもはや不可能。
またたく間に骨が何本か折れた。

−もうだめだ。これ以上進めない−

退却を決めた。
アパートから外に出て5分とたっていなかった。

傘をささず、雪まみれになってアパートに帰り着いた。
その様子を同じアパートに住む中年女性が窓から見ていた。
たまに見かける女性で、夕方になると出勤する。
夜の仕事をしている人だとは思っていた。

破壊の跡から、改めて暴風雪のすさまじさを知った。
すでに使い物にならなくなったその傘を、台所の隅に放り投げた。

−当面の問題は食糧をどうするかだ−

カップラーメンの類なら何個かあるからそれでしのぐことはできる。
こんなことなら炊飯器を買っておけばよかったと思った。
自炊する気がないので買わなかったのだ。

日が暮れても吹雪はおさまらなかった。
暗くなると、さらに不気味になった。

ノックの音がした。

扉を開けると、さっきの中年女性だった。
派手で大きな目が、私を覗きこむように見た。

「今晩、食べるものあるの?」
「お恥ずかしながら。カップラーメンくらいです」
「これ、どうぞ」

小さな炊飯器だった。

「炊き立てよ、2合炊いたから明日の朝まで食べれるかな」
「そんな、いいんですか?」
「この雪の中じゃ車でも移動は難しいのよ。あんた無謀よ。それからこれ」

 皿の上に何かが乗っていて、ラップしてある。

「こんなものしかないけど」
 と笑う。
「私ね、仕事前に大根おろしでご飯を食べるのよ」
「ご飯に、大根おろしですか?」
「これ食べるとね、元気になるのよ」
「これからお仕事ですか」
「そうだよ。東本町の『つかさ』。今度気が向いたら寄って。
 炊飯器さ、扉の前に置いといていいからね。じゃあ急ぐから」

商売柄かもしれないが、人なつっこい女性だった。
しかし恩を売って何かを得ようみたいな下心は少しも感じられなかった。
女性の目は、とても和やかだった。
純粋な優しさをもらった気がした。

お言葉に甘えた。

ご飯は温かく、美味しかった。
こんな温かいご飯を食べたのは何年ぶりだろう!

大根おろしも口にしてみた。
大根おろしをおかずにごはんを食べるなんて聞いたこともないが、けっこういける。
ご飯の甘みと、大根の苦みのコントラストがいい。

ご飯にかけて食べてみた。
うまい!
感無量だった。

だんだんと胸が熱くなってくる。
目頭も熱くなってくる。

嫌な人間もいるが、すばらしい人間もいる。
そんな当たり前のことを、今さらのように実感した。

鼻水をすすった。

それから客に嫌みを言われながらも、懸命に仕事した。
嫌なことがあったら、あの日の大根おろしかけごはんを思いだした。

春、夏が過ぎ、秋になった。
あれから一年。いよいよ東京に戻る時期が来た。

部長が私を東京に戻す段取りをつけに柏崎に来た。
部長は顧客との打ち合わせを終えて会議室から出てくると苦笑した。
私にかけた言葉は思いがけないものだった。

「あと半年がんばってくれないか」

「牛尾さんはとてもよくやってくれている。できればもう少しここで色々教えてほしい」
と頭を下げられたらしい。

悪い気はしなかった。

柏崎二度目の冬が間近だった。


大根おろし.jpg


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家具 [感動]

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窓を開けてみた。

今まで体感したことのない風が部屋の中を通り過ぎた気がする。
風は何の躊躇もなく流れ込んできて、形を崩さずに玄関のほうに駆け抜けていった。

障害物がないから当たり前なのだが、それがいたく私の胸を打った。
家具がすべて消えた部屋というものは、こういうものなのかと思った。

「あなた、トラック無事に発車しましたよ」
「2台ともか」
「はい、たった今」

引っ越しのトラックを見送った妻が、スリッパに履き替えて空っぽになった4LDKのマンションの居間に上がってきた。スリッパの音がやけに軽薄に聞こえる。
深みのない、乾いた音だった。ちょっと前までは、温かみのある人なつっこい音をたてていた気がする。

定年退職し、田舎に移ることになった。
子ども二人(長男長女)も結婚し家を出て、もはや都会にいる必要もなくなった。
もっと緑に囲まれ、のんびりしたところで余生を送りたいと妻に打ち明け、長いこと話し合った結果、宮崎に移住することに決めた。
宮崎には弟夫婦も住んでおり、転居先の選定や土地家屋の購入手続きなどいろいろ尽力してくれた。

「子供たちが孫を連れて遊びに来たとき、少しでも部屋が広いほうがいいだろう」
「小さな子が安心して遊べる場所があればいいわね」
「宮崎なら海もあるし山もある。きれいな川もあるだろう」

私は日々田舎に思いを馳せた。
人間土に還るというが、歳を取ると田舎にあこがれるのだということを60歳になって知った。都会にはもう未練はなかった。

子どもたちに移住の件を話したら、都内ならすぐにでも行けるが宮崎だと費用がかかると文句を言われたが、反対する権利はこちらにないとも言われ、おおむね受け入れられた。 
家は宮崎市郊外に建てることにした。
見晴らしのよい高台にあった。
周囲は緑が多く、空気も美味しかった。
何回か現地を訪れ、家が作られていくのを見守った。
ビル警備の再就職も決まった。
第二の人生の土台が少しずつできあがっていった。

「車、途中で何回ガソリン入れることになるかしら」
 宮崎まで車で行くのだ。
 途中、京都を観光し、広島の義妹を訪ねる予定でいる。

「見当もつかないな。まあそうせかすな。のんびり行こう」
 フローリングに腰を下ろし、足を延ばした。
「汚れてますよ」
「汚れたら汚れを取ればいい。貴子も座りなさい」
「いやです」
 妻は管理人に話があると言ってまた出て行った。

あれはいつだったか。
長男が7歳の頃だったな。

4歳の長女が持ち込んだインフルエンザが私と妻にも感染し3人ダウンしたが、
長男だけが元気だった。妻は買い物にも行けず、食事の支度もできない。
口頭でごはんの炊き方を長男に指示し、長男は朝昼晩、白飯と塩だけで過ごした。
文句一つ言わなかった。
こいつは大した男になると思った。

だが大学を途中でやめてインテリア雑貨の輸入代理店に就職。
イギリスと日本をいったりきたりする生活をした。
少しでも息子の役に立とうとその店から欧風の食卓を買った。
それからずっと居間においてある。

だがその会社も倒産してしばらくぶらぶらして中堅の商社に入って今に至っている。
期待したほど大した男にはならなかった。

「父さん、俺結婚することにしたから」

相手は職場の後輩の女性だった。
にこやかに笑う上品な女性だった。

私は息子に、お前にはもったいないと言った。すると、

「母さんも父さんにはもったいない女性だと思うけど」

と言って母親を喜ばせた。
そういえば母親思いだったな。
母の日に食洗機をプレゼントしたのにはびっくりした。


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長女は学業優秀で堅実なところがあった。
どことなく妻に似ていた。
自分は勉強で身を立てるといって、スポーツや遊びはいっさいしなかった。
いつも机にむかっていた。テレビがうるさくても心が乱れない集中力の持ち主だった。
ときどき気分転換でピアノを弾き、そのあと居間のソファに座って首をぽきぽき鳴らしたりした。

大学も一流と言える国立大学に現役で合格し、新聞社に就職した。

心がずきんとしたのはその長女が5歳も年下の大学生と恋に落ちたことだ。
娘も大人だから自分で考えて行動するだろうと思っていたが、まもなく失恋した。
大学生から見たら、ほんの遊びだったらしい。

失恋の件は、何週間もたってから妻から聞いた。
長女が学習机で顔を伏せて泣きじゃくっていた夜があったが、その理由がやっとわかった。

それから3年後、同じ新聞社の記者と結婚した。

長男長女二人とも、親から巣立っていった。
このマンションで生まれ、長い時間をかけて大きくなったが、あっという間に姿を消した。

部屋の中を眺めてみた。

すでに何もなかったが、各所にどんな家具があったのか忘れていない。

ソファ、テレビ、欧風の食卓、タンス、本棚、ピアノ、長女の学習机、ベッド、天体望遠鏡、電子レンジ、長男が買った食洗機、電話機・・・

それらの幻影を目に浮かべた。
それらは家族とともにあった。
家族の語らいや葛藤をすべて見届けた家具たちだった。

それらがすべて消えた今、家族の記憶も消えかけているような気もする。子供たちが小さかった頃の記憶のほとんどは、もう遙か彼方に飛んでいこうとしている。色即是空ではないが、すべて幻だったような気もする。

本当にあの家族はあったのか?
本当にあんな会話をしたのか?
今となっては実感がない。
だが、不思議な達成感がある。

歳を取るということはそういうことなのかもしれない。

「あなたどうなさったの?」
寝転がって肘を枕に横になっている私を不審に思ったのだろう。

「いや別に。ちょっと考えごとをしていた」
「まあ、どんな考えごとでしょう?」

起きあがった私の背中のほこりをパンパンと取り払った。

「家から人がいなくなっても家具は残るが、家具がなくなったら人もいなくなるんだなと思って」

くすっと妻が笑った。

「そんなセンチなことを考えてる場合じゃありませんよ。田舎暮らしも楽じゃないんですからね。気持ちをしっかり持たないと」
「そうだな。第二の人生だもんな」

 立ち上がって、尻をはたいた。

「もう出ますか?」
「出発だ」

玄関でもう一度振り向いて部屋を眺めた。
ただ風が吹いているだけだった。

扉を閉めた。


家具.jpg


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クリームシチュー [感動]

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ああ、寒い。
駅の外に出たら体を縮めた。

もうマフラーだけではむりかもしれない。

−明日からコートを着ていくか−

でもコートはまだクリーニングに出しておらず、昨年の冬の状態のままクローゼットにぶら下がっている。

−どのくらい汚れていたかな。クリーニングせずに今年も着れるだろうか−

そんなことを考えながらマフラーをしっかりと巻きなおして帰路についた。
今晩はそんなにお腹空いてないからコンビニ弁当でもいいか、とぼんやり考えた。

独身アラサー男子29歳のサラリーマン。
医療機器メーカーで経理事務をしている。仕事は地味でつまらないが、課員が少ないので、年功序列で上に上がれるので将来に不安はない。今の課長が部長になれば、必然的に私が課長に昇進する。それだけが楽しみの仕事だった。

仕事のことは、まあいい。

問題は私生活だ。
独身やもめで、それこそ地味でつまらない。
数年前までは独身の気ままな暮らしを楽しんでいたが、さすが30歳の扉が近づきだすと、独身の身がことさら寂しく感じられる。

−ああ、結婚したい−

そういう願望が噴き出すことがある。
女性に支えられたいし、女性を支えたい。
そういう暮らしをしたい。

ちなみに交際している女性は特にいない。
同じ経理課員に皆川寿子という4歳年下の女性がいて、私のことを慕ってくれているようだが、彼女には関心がない。遊び半分でつきあえば形の上ではカップルが成立するはずだが、そんな半端な気持ちでつきあうのは彼女に失礼なので、彼女の気持ちには応じられない。

コンビニで幕の内弁当と缶ビールを買い、国道沿いを歩いた。

寒いと独身の切なさがいちだんと身にしみる。
特に胸に迫ってくるのは、近所の民家から漂ってくる家族の団欒の気配だ。
家族っていいなと思う。

ある夜、美味しそうなクリームシチューの香りが漂ってきた。
思わず立ち止まった。

ママが作ったクリームシチューをこれから家族全員でいただくのだろう。
いろんな会話を交わしながらクリームシチューをスプーンですくう。
いいな、家族の団欒。

コンビニ弁当の上で、缶ビールがゴロゴロ転がった。

鍵をあけて真っ暗な冷たい部屋に入る。
電気をつけて弁当と缶ビールをテーブルの上に置き、クローゼットからコートを引っ張り出した。少々お疲れ気味だが、そのまま着れそうだった。

そのときメールが来ているのに気づいた。
寿子からだった。

「クリスマスイブ、ほんとに羽田空港に飛行機見に連れて行ってくれるんですか?
私、イブに用事ないから(悲)、戸田さんにおまかせします」

何の話だ?
俺そんなこと言ったっけ。あいつに。

言ったとしたらこの前の忘年会の席だろう。
酒が回ると大きなことを口にするのが私の悪い癖だ。
その癖直さないと時と場合によては大変なことになると同僚から警告されたこともある。
あの忘年会ではそれほど酔った記憶はないが、もしかしたらそんなことを口走ったのかもしれない。

いや、言った。
確かに言った。

記憶の奥のほうでぱっと光がともり、その夜の出来事が走馬燈のように巡ってきた。
いったん突破口が開けると、記憶というものは一気に姿を明らかにするものらしい。

寿子はこんなことを言ったな。

「私、戸田さんの奥さんになったら、戸田さんのご両親を一生懸命大切にします」
「私、結婚したら主婦になりたいです。仕事は辞めます」

ある意味、逆プロポーズだと思った。
彼女はもしかしたら本気かもしれないと思った。
でも、いまいち気持ちが乗ってこない自分がいた。
寿子は素直で、けれんみのない純真な女だ。ちょっとしつこいところがあるが、
それをのぞけば性格美人と言えるかもしれない。
でも、どちらかというとメンクイの私には、性格美人というだけでは物足りない。

「クリスマスイブ、戸田さん何か用事あるんですか?私ないですけど」
「夜、羽田に飛行機を見に行こうか。いっぺん夜の空港を見たいと思ってた」
 それが逆プロポーズへの精一杯のお返しだった。

コートをベッドの上に置いて缶ビールの栓を抜くと、一口飲んだ。
そしてどんな返事をするか画面を見ながら考えた。

イブに用事がない、用事がないとしつこく宣言する。
これはきっと
「私に彼はいません。フリーです」
ということを主張しているのだろう。
私はあなたのものになります、と。
そんなところがいじらしく、また小憎たらしくもあった。


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「予定通り見に行くことにするか。飛行機見て、空港で何か食って帰ろう」

と書き送った。
「レストラン、調べておきます!楽しみ〜!おやすみなさい」

これでいいんだろうか、と疑問がわく。
その気になった彼女を最後に傷つけることになりはしまいか。

羽田で言おう。
俺にその気はないと。
はっきりと言ったほうがいい。

12月24日。
クリスマスイブ。

寿子は朝から元気がなかった。
始業前、机にうつ伏せになっていた。

「どうした、皆川」
「頭が痛いんです」
「風邪か?」
「だと思います。寒気もするし」
「大丈夫かよ」

始業時間になったらパソコンに向かったが、表情は死んでいた。
10時頃、課長に相談して早退することにしたようだ。

その後社内メールが来た。
「羽田の件、延期させてください。大変申し訳ありません。今日は羽田に行きたくて出社したんですが、体がいうことをききません」

羽田空港に行きたいから無理をして会社に来たということか。
殊勝なのか物好きなのか、自分にはまねできないと思った。

寿子はすぐに退社した。

彼女が退社した後、課長が私に言った。
「39度近くあるそうだ。休めばよかったのに。ばかなやつだ」

理由はよくわからないが、胸が熱くなった。
じんときた。

さいわいインフルエンザではなく、医者の薬で熱も下がり、
2日休んだだけで出社してきた。

「皆川、大丈夫か?」
「大丈夫です」
「今日、本当に羽田に行けるの?」

明日是非行きたいと、昨晩メールをもらっていたのだ。
今日をはずしたら次の日は最終日で納会がある。
羽田には行けない。

「大丈夫です。熱もないですし」
「でも」
「行きたいです」

定時後、浜松町からモノレールに乗って羽田に向かった。
寿子は照れくさそうにしていた。
普段とは別の顔をしていた。
そんな寿子を見ていると、私も照れくさくなってくる。
会話ははずまなかったが、退屈ではなかった。

第二ターミナルの展望デッキで夜の飛行機を見た。
目の前をANAのボーイング777機がライトを点滅させてタキシング(滑走路への移動)している。キーンというエンジンの音を聞いていると、旅の予感がしてわくわくしてくる。

私はこの場できっぱりと寿子を切ろうと思っていた。
自分にその気はないからあきらめてくれと言おうと思っていた。
そのせりふも用意していた。
だけどここ数日で気持ちが大きく変わっていた。
自分でも不思議なくらいに。

寿子とは並んで立ち、特に会話もなく飛行機がC滑走路で離陸を待っているのを見ていた。

やがて寿子がこう言った。

「戸田さん、私のこと嫌いですよね。興味ないですよね」
 祈るような目だった。

気持ちを決めた。
酒は飲んでいないからこれは本心だ。

「クリームシチューが食べたい」
「え?・・・」
「寿子、クリームシチュー作れるか?」

(寿子と呼んだのは初めてだった。寿子の顔が緊張した)

「はい」
「今度僕のアパートで作ってほしい。お願い」
 目を丸くする寿子。
「寿子のクリームシチューが食べたい。これからずっと」
 そっと肩を抱いた。

「はい。頑張って作ってみます」
 と小さいけど活きいきした声が帰ってきた。

飛行機が轟音を上げて、ランウェイ34Rから果てしない夜空に飛び立った。


クリームシチュー.jpg


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父の形見 [感動]

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バスケの部活を休んでごろごろしている息子の啓太に文句を言った。

「バスケやった方が体もしゃんとするんじゃないか」

息子は何も答えない。
夏風邪だと言ってバスケ部の練習を休み、寝転がってゲームに興じている。

「何とか言え」
「お父さんだって休んでんじゃん」
「お父さん、夏休みだ」
「僕だって基本夏休みだよ」

「そんなこともあるわよ。それに本当に夏風邪だったら大変よ。なかなか治らないし」
 と妻が啓太の朝食を片づけだした。
「本当に朝ご飯いらないのね」

「いらない」
「しょうもない奴だ。いいか、男ってのはな・・・」
「あなた、もういいじゃない」

いいか、男ってのはな。・・・

言葉につまったのは妻に止められたからだけではない。
亡き父のことを思い出したのだ。

−俺の口からこの言葉が出るとはな−

苦笑いした。

それから私はあることを思いだし、書斎に入って机の三段目の引き出しを開けた。久しぶりに取り出したその茶色の封筒は、表面がカサカサになっていた。もうどのくらいこうやって保存しているだろう。
三十年以上はたつかもしれない。

中に入っているものを取り出した。
黒ぶちのメガネだった。

しっかりしたフレームのメガネで、ほとんど痛んでいないどころか、光沢さえ残っている。度が強く、まるで虫眼鏡だ。

それは父のメガネだった。
あのことがあってからずっと保存している。
いや保存しているというより、隠しているといったほうが正しい。

メガネのフレームをこすりながら、記憶をだどった。

父は昔風の人間だった。
曲がったことを許さず、弱音を吐く男を嫌った。
また男が女っぽいことをすることを嫌った。
私は小学4年生の頃音楽に関心を持ち、ピアノを習いたいと母に願い出たが父が怖い顔をした。

「何バカなことを言っとるか。ピアノは女がやるもんだ」
「でも翔ちゃんもピアノ習ってるよ」
「そいつは女なんだろう、男の格好をした女だ」

今から考えると異常な偏見の持ち主だと思うが、当時の父はそんなことを平気で豪語する人物だった。

「何か習いたいんなら剣道をやれ。男は剣道だ」
 自衛官の父は剣道三段、柔道二段だった。

私は剣道を習わされた。

正直、面白くなかった。
その剣道を習っていた時期は、私の半生のうちでもっとも屈辱的で苦痛にみちた時期だったと思う。暑い夏、臭い剣道着や重い防具を身につけて奇声を上げ、竹刀を振り回して走り回る。相手の頭を打ち、腹をたたく。剣道を愛する人には申し訳ないが、これが何の役にたつのかと当時の私はまじめに思った。

何度か稽古を休んだことがある。
「おなかが痛いから」

そのたびに父のカミナリが落ちた。父は仮病を見抜き、私を正座させた。
「辛いことに背中を向けていいのか」
 私は涙ぐんだ。剣道のことを考えるとめまいがしそうだった。

「いいか、男ってのはな・・・」

男談義をえんえんと聞かされた。
戦前の兵隊の話すら持ち出した。
大和魂という言葉を覚えたのもそのときだった。

中学校に入ったら剣道はやめたが、成績のことや服装、髪型のことでやいのやいの言われた。我が家では母より父のほうが私を叱っていたと思う。反抗期でもあったし、父と何度もぶつかった。

父に戦いを挑もうとしたことがあった。
が、剣道三段、柔道二段の強者とまともに戦えるとは思えない。
 
私が選んだ攻撃は、メガネを隠すことだった。

父はひどい近眼で、メガネがないと何もできなかった。
そこに目を付け、ひとつ困らせてやろうと思ったのだ。


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酒を飲んで帰ってきた父が風呂を浴びているすきにメガネを盗み、部屋に戻って学生鞄の中にほうりこんだ。そして母親におやすみと告げて布団の中に潜り込んだ、

居間の方からあわただしく歩き回る両親の足音とせわしい会話が聞こえてくる。

「この辺においてたんだが」
「酒場に忘れて来たんじゃありませんか」
「バカ言え。メガネなしで帰ってこれるか」
「そりゃそうですわね」
 母は笑っていた。
 そのうち出てくるに決まってる、みたいなのんびりした笑いだった。

だがメガネが出てくるわけがなかった。
「周一、わしのメガネ知らんか」
翌朝、父が私に問うた。

「知らないよ。父さんのメガネなんか興味ないもん」
 朝ご飯のトーストをかじりながら、そう平然と嘘をついた。

「そうか」

 僕はそのまま学校に行ったが、父は仕事を休んだらしい。メガネがないと何もできないからと、母と二人で馴染みのメガネ屋に行って、とりあえず自分の目に合う代用のメガネを借りてきたようだ。メガネが見つかるまでは、これで日々をしのぐと言っていた。
だが見つからないので、父は新しくメガネを作ることにした。

当時、銀ぶちのメガネがはやっていた。有名人や、町をゆくおしゃれな男女はみんな銀ぶちをかけていた。ある休みの日、メガネ屋から帰ってきた父は、銀ぶちのメガネをしていた。

「周一、どうだ。似合うか」

それは父ではなかった。
まったくの別人に見えた。

「わからないけど、別の人に見える」
「そうか。俺もイメチェンだな。ははは」
 豪快に笑った。

父は凄まじい眼力の持ち主だ。
あるいは私が犯人だと見抜いていたかもしれない。
だが父は私に疑いの目を向けなかった。

「何かと一緒に捨てたことにしておこう」

母にはそう言っていた。

銀ぶちメガネのせいで父が別人のようになると、不思議と父への反抗心が薄れた。それにメガネを隠し持っているという罪悪感もあり、父と露骨に対峙することを避けた。悪く言えば無視、よく言えば従順だった。
隠しているメガネをどうするかという問題が残っていたが、新調したメガネが気に入っている風でもあったし、そのまま隠し通すことに決めた。

あのメガネ事件を機に、父と私の距離は大きく開いた気がする。
あれをきっかけに父は一気に歳をとり、私は大人になったのかもしれない。

その父も6年前に他界した。

父は不治の病でずっと床にふしていたが、ある日今晩が峠だと医者から告げられた。

私は妻と啓太を連れて父の床を訪れた。
痩せ細り、しわくちゃになった父に過去の威勢はみじんもなかった。すでにメガネの役目も終わっていた。ものをじっくり見る必要がなかった。

父が少し目を開けた。
とろんとした眼光がこっちを向いた。

「周一か」
「父さん、見えるのか」
「息子じゃないか。見えなくても雰囲気でわかる」
「そうなんだ」
「しっかりやれよ」

会話はそれだけだった。
父は大きく息を吸い、この世を去った。

黒ぶちメガネをそっとかけて書斎のあちこちを見た。
気分が悪くなりそうな度数だった。
父はこんなメガネをかけていたのか。

そのとき妻が書斎に入ってきた。

「あなた・・・やだ!・・・そっくり」
 メガネをはずして妻を見た。
「何が」
「お父様にそっくりだったから」
「そうか」
「うりふたつじゃない。やっぱり親子ね。それ、お父様のメガネ?」
「今となっては形見みたいなもんかな」
「そう。そんなメガネしてらしたのね」
「何か用か」
「あ。啓太、やっぱり熱があるのよ。今から病院に行ってくるわね」

 そそくさと階段を下りていった。

−おやじにそっくりか−

もう一度かけてみた。
父の眼力はこの度数のおかげで成り立っていたのではないかと思った。
父は父なりにこのメガネでいろんなものをしっかりと見ていたのだろう。
もちろん私のことも。

啓太が帰ってきたら気の利いた言葉の一つでもかけてやるかと思い、
父の形見を茶封筒に入れた。


黒ぶちメガネ.jpg


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母ちゃんの凧 [感動]

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「母ちゃん、凧、凧」
 
冬休み最後の日の夜、弟の三郎がすごい形相で母にすがりついた。

「凧がどうしたと?」
「持って行かんといかん」

三郎のたどたどしい説明によると、冬休みのうちに凧を作って学校に持って行かなければならないらしい。冬休みあけにみんなで凧上げをやるので、各自作って持ってきてくださいと先生から言われていたという。
お父さんやお兄さんに相談して作ってみてくださいと。

「なんで今頃言うと?」

母が困惑するのもむりはない。
時計を見ると21時少し前。
三年生の三郎はいつもこの時間には寝てしまう。
明日の学校の準備はすでにできているが、凧のことを急に思い出したらしい。

「どげんすればよかとかね」

たたんだ洗濯物を抱えて狭い部屋の中を歩き回る母。

「お父さんがおればね」

父は東京に単身赴任していた。
正月は大晦日から戻ったが、三が日が開けたら帰ってしまった。
熊本には当分戻らない。

「ほんとに明日までに持っていかないかんと?」
 母が顔をしかめっ面にして三郎を見下ろした。

「うん」
 
なぜか危機感のない三郎。
まるで他人事のような顔をしている。それは母に言えば解決してくれるだろうという信頼感からくる落ち着きなのかもしれなかった。

「二郎、作れんね」
「できん。作ったことなか」
僕は六年生だけど凧は作ったことがない。

「ほんと今までなんばしよったとかね」
 
それでも母は知恵を出し、材料を集めた。

・割り箸四膳
・青いビニールのポリ袋
・糸(裁縫用の糸と太い凧糸)
・木工用ボンド

これらはとても凧作りの材料と呼べるものではなかった。
普通なら笑い出すところだが、父不在の冬休みの最終日、緊急で凧を作らなければならない我が家に笑いは生まれなかった。材料のひとつひとつが重要な役目を持つ選ばれし者たちだった。

母がそれを組み立てた。
割り箸を割り、二本をつなげて一本にし、凧の一辺を作った。
つなげ方はいたって単純で、先の二センチ程度を重ねて糸で結び、木工用ボンドを垂らす。それを四辺作り、正方形にして糸でつなぎ合わせる。
かくして一辺35センチ程度の凧の土台ができあがった。

「母ちゃんすげえ」

と三郎が言った。
その喜びに満ちた顔は、凧に対する感動ではなく、とりあえず明日持って行く宿題ができつつあるという安心によるものだと思った。
僕も同じで、これで少なくとも今夜はゆっくり眠れそうだと思った。

「後はビニール貼るだけだけん、二人とも寝てよか」

母も少々落ち着きを取り戻していた。
ボンドを垂らした部分にふうふうと息を吹きかけながら、少しゆがんだ正方形をしげしげと見ていた。

「ビニールは木工用ボンドじゃだめだけん、セメダイン持ってくる」
 とっさに思いついた僕の知恵。
 プラモデル作りで使うセメダインを持ってきた。

「ありがとう、二郎。早く寝なさい」
「おやすみ」

隣の部屋に入ると、布団に入った。
三郎はすでに布団の中だった。
布団は冷たかったけど、だんだんを温かくなってきた。
三郎はすぐに寝息をたてた。
よく平気で寝れるもんだと思った。


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耳を澄ませると、ビニールをハサミで切る音がした。
カチコチと鳴る古い壁時計の音に混じって、チョキチョキと音がする。
ときどき母の咳払いがする。

音が消えた。

きっとセメダインを塗ってるんだ、と思った。
案の定、テーブルにセメダインのチューブを落とす乾いた音がした。
かすかに母の息が聞こえる。
セメダインを乾かしてるんだろう。

だんだん眠くなってきた。

翌朝、テーブルの上に完成した凧が置いてあった。
昨日の正方形の枠に、青いビニールをセメダインで貼っただけだった。
正方形はゆがんだまま固まっていた。

正方形の角から出た凧糸が、凧の正面40センチくらいの位置で一本につながっていた。その結び目からさらに3メールほどの凧糸が延びていた。
つまりその凧は3メートル上空しかあがらないことになる。

ぱっと見、それは凧には見えない。
凧と言えば凧だが、蠅取り紙にも見える。

三人で黙々と朝ご飯を食べた。
三郎は母が用意した農協の紙袋に凧を入れると、満足げに玄関に走った。

凧あげは二日後、運動場で行われたようだ。
風が強い日だった。
僕は見てないけど、窓際にいる友達が凧の様子を少し見たと言った。

「高かとこに八本くらい上がっとった。三年が作ったとは思えんかった」
「親が作ったんじゃにゃあや。三年がそげんとば作れるや」
 と別の友人。

三郎の凧はどうだったろうとふと思ったけど、少なくともその八本の中にいないことは確かだった。
上がったとしても三メールなのだから。

その帰りがけ、弟に結果を聞いた。
弟は口角泡を飛ばしながら、手真似で凧上げの顛末を語った。

「こぎゃんして上げたばってん、風んビューって来てくるくる回ってたい、ぶわーんち破れて、ばらばらになって落ちたとぞ」

けらけら笑った。

「それで、みんなどうした」
「腹かかえて笑いよった」

おかしかったけど、それ以上笑えなかった。
母のことを思い出したんだ。

あの凧が役に立たないことはわかっていた。
弟の話を聞いても納得がいく。
だけど、恥も外聞もなく三郎のためにあり合わせのもので何とかしようとした母を思うと、笑えない。

その日の夕飯のとき、三郎の口から凧あげの話が出るだろうと思っていたけど、三郎は好物のおでんとテレビのアニメに夢中で凧のことなんてどこかに飛んで行ったみたいだった。

夕飯の後、母が心配そうな目で僕に聞いてきた。

「今日凧あげやったろ。どげんだったか知っとるね」

「知らん。見とらんけん」

と答えた。僕の口からは言いにくい。
ここは三郎からきちんと話すべきだ。
凧を作ってくれた母に対して。

「三郎が話すと思う」

その日、結局三郎の口からは凧の話は出なかった。

その翌朝、布団の中で三郎が嬉しそうな顔をして言った。
目覚めたときはいつもフニャフニャしているのだが、その朝はやけに快活だった。

「兄ちゃん、夢ん中でね」
「うん」
「夢ん中で、母ちゃんの凧が高く高く飛んだとぞ!他の凧よりもっともっと高く飛んだとぞ」
 三郎は手を大きく上にあげて表現した。

「そげん夢見たとか。じゃあ、その通り母ちゃんに言え。高く高く飛んだと言え」
「うそば言うとや」
「うそじゃない。夢ん中では本当だろが」
「うん。わかった」

三郎は布団から飛び出ると、台所に走って行った。

三郎なりに凧のことをどう言おうかって悩んでいたのかもしれない。
でなければ凧の夢なんて見るわけがない。
昨日だって、言いたかったけど言えなかったんだろう。

カーテンを開けると、冬の快晴だった。
青空に、母の凧が一瞬見えた気がした。


凧.jpeg


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サザエさん症候群を退治したおばあちゃんの一言 [感動]

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「また始まったか」

と父が言った。

日曜日の午後、母がスイカを切ったのだが、弟の幸彦が部屋にこもって出てこないのだった。

「さっき確認したけど、食べたくないって」
と僕はスイカに口をつけた。

「おばあちゃんどうかしらね」
 と母。
「面倒からくさいからいいよ。スイカなんか食べさせなくて」

と父がしかめっ面をした。最近祖母は痴呆気味になっていて、食事の仕方もおかしくなっていた。食欲旺盛で大量に食べるかと思いきや、食べ物の匂いを嗅いで「いやだいやだ」といって泣き出したりすることもある。

すると遠くから
「スイカなんかいらん。スイカは虫歯になる」
と祖母が言った。痴呆気味でも、耳は悪くなかった。

「何が虫歯だ。総入れ歯のくせに」
と父が小声で言うと、スイカにかぶりついた。 

結局スイカを食したのは父と母、そして僕の3人だけだった。
幸彦もスイカが好きなはずだが、日曜日だからしかたない。

「しょうがないな幸彦は。社会人にもなって」
 と父が種を手のひらに出して皿に移した。

幸彦は日曜日の午後になると、急に憂鬱になる。
原因はわかっている。
明日、つまり月曜日のことを考えて憂鬱になるのだ。

別に鬱病といえるほど深刻じゃない。
月〜金はけろりとしているし、日曜日も午前中までは穏やかだ。
でも午後になると、急に雲行きが怪しくなる。
ブルー度合いは時間とともに高まり、夜中にピークになる。
朝まで寝られないこともあるようだ。

幸彦にいったい何がおきているのか。

サザエさん症候群。

幸彦は自分の心の癖をそう説明する。
しかも重症なんだと。

サザエさん症候群とは、日曜日の国民的アニメ番組「サザエさん」のエンディングテーマの曲を聞くと、

「ああ、また明日から仕事(学校)だ」

とブルーになってしまう心の状態を言う。

だったらサザエさんを観なければいいじゃないかと思うかもしれないが、サザエさんを観なくてもこの症状は起きる。サザエさん症候群と呼んでいるのは、だいたい休日の終わりを実感する時間帯にこの曲が流れるからだ。しかもあの曲、長調の曲の割には「みなさんさようなら」的な曲想を持っているので、ますます寂しくなる。

休日の終わりが近づくと誰でも多かれ少なかれ寂しさを感じるものだが、その憂鬱感がとくに強く出る場合、この症候群にかかっていると言っていい。

幸彦がまさにその典型だ。
しかもかなり重いレベルだ。

しかしこの症候群、ひょんなことで快方にむかうものだということを幸彦を通じて知った。本当にひょんなことだった。

僕は26歳男性、弟は24歳の会社員。ともに親の元で暮らしている。
家も広いし、立地も板橋と都心に出るには都合が良く一人で暮らす必要もないので、兄弟そろって独立していない。
結婚まではここでやっかいになろうと思っていた。

学生の頃、幸彦にサザエさん症候群の性向はなかった。
社会人と学生とでは休日のありがたさが違うのかもしれないが、それにしても極端だった。

日曜の午後は、いつも沈んだ顔になった。
気晴らしの外出を進めても、どこに行っても面白くないし、すべてが平面に見えるという。

では自宅にいたら多少はましなのかというと違う。
ベッドで仰向けになり、じっと天井を見つめている。
ため息をついて寝返りをうつ。

頻繁に時計を見て、外の光を確かめる。
夏は日が長いからまだいいが、冬はつらいらしい。
日暮れはブルーな気分に拍車をかける。

「兄さん、どうしたらいい」

と助けを求められたことも一度や二度ではない。


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「どうやったら明るくなれるんだろう。普通に日曜の午後を過ごせるんだろう」
「スポーツでもしたらどうだ。かっと汗を流せば気持ちもすっきりするんじゃないか。体が疲労すれば、よけいな不安も消えるんじゃないか」
「僕がスポーツ音痴だってこと知ってるよね」

何をしても無駄なんだと思う。
心がそういう色になっている限り、表面だけつくろっても同じなのだ。

幸彦もそれなりの努力をした。

いっそ「会社」に行けば開きなおれるだろうと思い、日曜の午後、電車に乗って会社まで出かけていったりした。入り口まで行って引き返したが、そのとき火曜日に憂鬱なミーティングがあることを思い出してますますブルーになった。

昼間から酒を飲んでごまかそうとしたこともある。
しかし昼過ぎから夜まで寝てしまい、そのあと眠れずに朝まで悶々と過ごした。あの夜は最高につらかったと幸彦は言う。

「朝がせまるんだ。布団から出なければならない時間が刻一刻とせまるんだ。まだあと2時間あるなんて思っていたら、気がつくとあと30分前になっていたりする。恐怖だったな」

秋になった。

幸彦の日曜日の午後は、相変わらず暗いままだった。

ある日曜の夕方のことだった。
父の高熱が下がらずインフルエンザの可能性が高いので、休日診療の病院に行くことになった。母は幸彦に運転をお願いした。
だが断った。

「兄さんお願い。僕は今日、運転する気になれない」
「じゃあ、武彦運転して」
 と母が僕に言葉を投げつけた。
 幸彦への憤りを僕にぶつけたようだ。

僕が運転するのは全く問題ないが、幸彦の自分本位の態度に腹が立った。いつまで甘えた態度をとり続ける気なんだ。

「幸彦、いい加減大人になれよな。明日が会社くらいで、なんだその態度は!明日はくるさ。みんなに平等に明日はくるんだ。お前だけじゃない!」
 と強い口調で言った。

「兄さん」
 僕の意外な怒りに戸惑ったのだろう。
 泣きそうな顔をした。

 そのときだった、
 祖母がぽろりとこう口にしたのだ。

「明日のことは、明日になったら考える」
 みんな静かに祖母を見た。

 祖母は窓際の籐椅子に正座して丸くなっていた。

「明日にならんと、明日のことはわからん。花子が子ども産むかどうかわからん」
「花子って、誰」
 僕が聞いた。

「雌牛の花子は、戦(いくさ)が終わったら笑った」

 祖母は遠くを見ていた。
 話の意味はよくわからなかったが、戦争の記憶なのだろう。
 でも、その祖母の言葉が幸彦には効いたようだった。

「明日のことは、明日になって考える。明日にならないと、明日のことはわからない」

 幸彦はその言葉をくりかえしながら、引き出しから車のキーを取り出した。

完全ではないが、少しずつ幸彦の態度が変わった気がする。
日曜の午後、居間にいることも多くなったし、母の手伝いで買い物に出ることもあった。

「幸彦、今晩は刺身でビールでも飲むか」
 と父。
「そうだね、飲もうか」

日曜の午後の家族に明るさが戻った。
そのきっかけになったのが祖母というのが面白い。
意外に役に立つ存在だということがわかった。

そのせいか父も祖母をうやまって
「ばっちゃんも、さしみ食うか?」
と聞いた。

「さしみか。そうかそうか今日はお正月か。おめでたい」

家族全員、いっせいに笑った。


サザエさん.jpeg


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洗濯物たたみ当番に立候補したおやじ [感動]

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「パパにも何か家のお手伝いしてもらわないとね」

子供たちが少し離れたところで遊びだすと、妻が食洗機に皿を並べながら、釘をさすようにそう言った。

「俺は仕事してるし」
 と晩酌のウイスキーの残りを一気に飲み干して軽くげっぷする。

「私だって家事してるわ。美代も学校行ってるし、さよりも幼稚園行ってる。みんなそれぞれ抱えてるのよ」

さっき妻は小学校4年の長女美代にお風呂の掃除当番を命じた。みんなで家のことをやろう、というスローガンを華々しく掲げたのだ。家の仕事をするのは母親だけ、という意識を持たせるのは子供たちに良くないというのが妻の持論だ。

「さよりは何もしてないじゃないか」
「さよちゃんはまだ5歳だから。でも、そのうち何かさせるわ」

妻が言うには、父親もその例外ではないらしい。父親だって家事の一翼を担う存在であることを示すべき。勤めから戻ったらお酒飲んでテレビ観てごろごろしている従来の日本のパパ像は子供の教育に悪い。
「父親も家のことを手伝って当たり前。そういうイメージをあの子たちに植え付けたいのよ」
「何をすればいいんだ」
 また面倒くさいことを言いだしたなと思い、ぶっきらぼうに言った。

「・・・さあね。何がいいかしら」

そうは言ったものの、さあてこの人に何ができるのかしら、みたいな表情をして食洗機のスイッチを入れた。

他のサラリーマンおやじもおそらく同じことを考えていると思うが、私は、会社から戻ったらその日の仕事は完結したと思っている。

今日も会社で痛い目に遭ってきたんだ。せめて家の中ではゆっくりさせてくれ。俺様は稼ぎ頭だから帰宅後はゆっくり寛ぐ権利がある。

これが私の本音だし、多くのおやじの気持ちを代弁していると思う。会社から戻って家事を手伝うなど考えたこともない。もちろん妻がフルタイムで働いているのなら話は別だが妻は家にいる。妻の仕事は家事なのだ。その家事を妻以外の家族で分担するなど、役割放棄ではないか。

2杯目の水割りを作ると、新聞を広げ、ピーナッツをかじった。
妻はキッチンの電気を消すと、居間に放置された洗濯物をたたみ出した。

その姿を見ながらさっきの会話を思いだした。

一理あると思った。

子供たちのためにも父親が家事をする姿を見せる。
わからなくもない。
情操教育というほど大袈裟ではないが、家事をする父親の背中は、子供たちにとって、ひょっとしたら「かっこよく」見えたりするかもしれない。
でも私に何ができるのか。
妻が考えて思いつかないのだから、私に思いつくわけがない。

その日はそれで終わった。

お風呂掃除のプロセスには何段階もあるらしい。
湯船の中、床、カバー、シャンプーや石鹸がおいてある棚、トレイにいたるまで、妻が確立した清掃手順がある。
美代はそれを母親から指導され、毎日こなしている模様だ。

休日など、作業を終えてバスルームから出てくる美代は、どことなく鼻高々に見えた。

「あ、終わったの?美代ちゃんありがとう」
 と妻が明るく声をかける。

「ああ、大変だったな」
と手を拭きながら私を乾いた目で見る。

仕事を終えた達成感と、遊んでいる人間に対する優越感。
妻のいっていることが何となくわかる。
父親だけがぶらぶらしているのはお手伝い熱心な子供に良くない。

何か探さないと。

居間に放置されてある洗濯物が目に付いた。
妻は一日の最後に洗濯物をたたむ。
タオル、ハンカチ、靴下、子供たちの服、父親のワイシャツ、下着。
それらを手際よくたたみ、所定の場所に格納する。

これならできるかもしれない。
慣れてはいないが、要するにたためばいいのだ。
たたみ終わったら、それをしまえばいい。
面倒なのは洗濯物ハンガーから取り外すことくらいで、あとはきわめて単純な作業。

ある休日の夕飯の前、私はあえて「洗濯物をたたむことにした」とは言わずに、
さりげなくその仕事に着手した。
当然のように(さりげなく)手伝う方が子供たちのためにもいいと思ったのだ。
仕事は10分ほどで済んだ。

でも妻は無言だった。
その一部始終を見ていたくせに、何も言ってくれなかった。
やって当然、なのだろうか。


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何となく、自己主張してみたくなる。
本当は
「洗濯物たたんだぞ!」
と言いたいところだが、言葉を変えた。

「美代の下着さ、2番目の引き出しに入れたんだけど、よかったかな」

妻は子供用のタンスをちらっと見ると、
「だいじょうぶ」
と答えた。

かくして洗濯物たたみは、暗黙の了解で私の当番になった。
会社から戻って居間の片隅を見ると、洗濯物の山がある。
バルコニーから取り込んだままの姿で、私を待っている。

夕飯のあと、片づける。
しかし、誰も何も言わない。

あまりに冷たくないか?と思ったりする。
何か言うべきではないか。

「パパありがとう」
「助かるわ」

その一言がほしい。
妻でなくてもいい。美代でもいい。何か言ってほしい。

一度仕事を放棄して何もしなかったことがあったが、洗濯物が翌朝まで放置されたのには驚いた。
洗濯物たたみは、完全に私の責任下におかれていることに気づいた。
と同時に、言いようのない孤独を知った。
たたんでしまうだけの単純な作業だが、それは私にとってきわめて孤独な作業だった。

しかし、その孤独な努力が報われる瞬間がきた。

ある日曜日の夕方、いつものように黙々と洗濯物をたたんでいたら、
ミニカーで遊んでいたさよりがばたばたと走ってきて

「パパ、あたしもやる」

と言ったのだ。
そのとき、何か温かいものに包まれた気がした。

さよりは何分もかけて一枚のタオルをたたんだ。
たたんでは広げ、丁寧に引き延ばし、またたたむ。
それはほとんど遊びの域だった。
彼女にはミニカーとタオルが同じ次元に見えていただろう。

でも、嬉しかった。

妻の言いたかったのはこのことなのかもしれない。
当たり前のように、みんなで家事を手伝う。
すると自然に和ができる。
家族にしかない強調の和ができる。
これが子供たちにとっていいのだ。

ウイスキー飲みながらぼさっとしている男が一人でもいると、その理想が実現できない。
わかる気もする。

妻がゆっくり歩いてきてしゃがみこむと、
「さよちゃん、えらいわね。ありがとう」
と言った。

私には何も言わなかった。

また一瞬孤独に押し戻された気がしたが、
これでいいのだ、と思い、

「さより、ありがとう。助かるよ」

と言ってあげた。

そう言えた自分が、かっこいいと思った。


洗濯物.jpg


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 [感動]

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男女が結ばれるまでには様々な過程があると思います。
それはおそらく、男女の数ほどあるのではないでしょうか。
男女の数ほど出会いがあり、結実にいたる道のりがあり、そしてまた別れもあると思います。

私も35歳になるまで、いろんな女性との出会いを経験しましたが、加奈子との出会いほど強烈なものはありませんでした。
それは目と目が合った瞬間に起きました。
言葉は何ひとつ必要ない、運命的な出会いだったと確信しています。

私はデータ通信サービスを行う企業の品質管理部門に在籍していました。職場は品川にありました。JR品川駅を降りてインターシティを通り抜けると、数ある品川のオフィスビルの中でも一番背の高いビルが見えてきます。その12階に私の職場がありました。

組織再編でそれまで三鷹にあった企画部門が品川に移転してきたのは4月のことです。がらんとしていた空き机に数十人の社員が埋まり、職場はにわかに活気を帯びました。

私の席の隣の島に、企画一課が陣取りました。
女性が多い課で、そのあたり一帯が一気に華やいだのを覚えています。
 
その中に浦田加奈子という初対面の女性がいました。
背がすらっとして、清楚な感じです。
物静かで、知的な感じもします。

その女性とは何度か目が合いました。

一度視線が合ったとき、何となく感じるものがあり、それが何を意味するのか確かめるために、そばを通り過ぎる度に視線を合わせるようになりました。異性と目が合うのは珍しいことではないのですが、多くは単に目が合っただけで終わります。でも彼女の場合違いました。

胸がときめくのです。
目が合ったときの、心への響き方が尋常ではないのです。
じんと、体全体に電気が走るような感覚。
あるいは体の一部が溶けそうな感覚。
目が合っただけで、強烈な衝撃を受けたのです。

この年になってバカかと思いましたが、それは事実でした。加奈子も私と目が合うと面映ゆそうに下を向き、髪をすいたりします。明らかに私を異性として意識し、動揺していることの証でした。
彼女の心と体にも、同じことが起きていると確信しました。

私は加奈子に恋をしました。
それははっきりと自覚できました。

とはいえ、エレベーター等で二人きりになったときなど、加奈子はそっけない顔をしました。目を合わせるどころか、スマホを操作してみたり、手に持っている仕事の資料をめくってみたり、私とコミュニケーションをとろうとしないのです。
畑が違うので仕事上の接点はなく、よって会話する機会もなく、お互い言葉を交わすとしたらそういう時でないと無理なのですが、彼女は私が言葉をかける機会をはばむのです。
そんなとき私は

「ああ、やっぱり僕の思いこみか」

と落ち込みます。

でも次の日、その穴埋めをするかのように、彼女は私に視線を送ってくるのでした。少し離れたところから、私を見ているのです。
私もその視線に気づき、胸をときめかせます。

「ああ、やっぱり彼女は僕のことを思ってるんだ」

と嬉しくなるのです。

せっかく芽生えたこの恋を育てなければならないと思いました。
35歳まで独身でいて、もう半ばあきらめていた矢先のこの恋。
できれば失いたくない。
彼女の左手の薬指を見ると、指輪はありません。
雰囲気にも生活感がなく、99%独身と思われます。
この恋を成就したい。

でもきっかけがなかなかつかめまんせんでした。
多少の面識があれば、仕事の接点がなくても話しかけやすいものですが、お互いを結ぶものが何もないので、話しかけられないのです。
35歳になって、こんな胸キュンの目に遭うとは思ってもいませんでした。
彼女はどう思っているんだろうか。
私に話しかけられたいと思っているんだろうか。
悶々とした日々が続きました。

そんなある日、私に異動の命令が下ったのです。
大阪事業所が新製品プロジェクトを立ち上げたのですが、品質管理部門が脆弱なので、軌道にのるまで支援してほしいと言われたのです。
長くても一年で戻すから大阪に行ってくれと。


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東京を離れるのは大したことではないですが、彼女と別れるのが辛かったです。会わない時間が長くなればなるほど心の距離が開いてしまい、気持ちも色あせていくに違いありません。
せっかく咲いた春の花は、そのうち萎れて枯れてしまうでしょう。

でも会社の指示ですから仕方ありません。
従うしかありませんでした。

出発の前の日、思い切って彼女に声をかけました。

「あの、私明日から一年間大阪に行きます。私の机、不在中は企画一課の人で使ってもかまいませんよ」

別に言う必要のない言葉でした。
でも自分がいなくなることを知っておいてほしかったし、分かれる前に一度でいいから会話しておきたかったのです。

彼女、冷静な顔で

「そうなんですか?・・・わかりました」

と言いました。
そっけない言い方でしたが、瞳が潤んでいました。

大阪に移れば彼女のことを忘れるだろうと思いました。
でも甘かったです。
思いはどんどん膨らみました。
業務上の用事が何もなく、気軽に近況を伝えるような仲でもないのでメールも送れず、私は加奈子の記憶だけを心の支えに生活していました。

大阪の町で彼女に似た女性を見かけたら胸をときめかせ、
深いため息をついたものです。

思い続ける一方で、悲しい妄想も浮かぶようになりました。

「彼女はもう、僕のことを忘れているかもしれないな」
「新しい彼氏ができたかもしれない」
「いや、もともと彼氏持ちなんだ。私のことなんて最初っから何とも思っていなかったのさ」

でも、視線が合ったときの幸福な感覚も思い出すのです。

「彼女だって同じ思いだったはずだ」

そうやって一年が過ぎました。
彼女のことを自分本位に想いめぐらせながら一喜一憂する日々でした。

東京に戻ると、席の配置は変わっていましたが、企画一課はすぐそばにありました。

一年ぶりに彼女と目が合いました。
一年前とほとんど変わらないときめきがきました。

私は告白を決意しました。
一年たっても変わらない思い。これはもう告白しかない。

「好きです」

ある日給湯室に呼び出して、そう告げました。
天と地がひっくり返るような緊張の中、その言葉を心の中から絞り出したのです。そして気持ちが高ぶり、自分でも意外な言葉が出てきました。

「結婚してください」

彼女は目をしばたたかせながらうつむき加減になり、しきりに髪をいじりました。そして

「はい」

と答えたのでした。

初対面から会話がなく、大阪に出かける前に一言声をかけただけ。
それから一年間の時を経て給湯室でプロポーズしてOK。

こんなことありですか?

ありなのです。

それから3ヶ月ほど交際し、結婚しました。
意外な組み合わせだと、職場の連中が目を丸くしました。
何をきっかけにつきあいだしたんだと・・・。

何がきっかけって。
目が合っただけです。
本当にそれだけのことなんです。

交際するようになって、ゆっくり彼女の気持ちを聞きました。

私と全く同じ気持ちだったようです。

私が大阪に行っていた一年間、
一瞬も私のことを忘れたことはなかったそうです。

「私のことをどう思っているんだろうかって、そのことばっかり考えてた。
机使っていいよって、どういう意味だろうかとか。彼女いるのかな、とか、
大阪で彼女作るかもしれないな、とか」(恥笑)

・・・・・。

『せつなる恋の心は尊きこと神のごとし 』
(樋口一葉)


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タグ:結婚 会社 感動

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